仮面のもとに夜は淡く
ナナシマイ
p.?? 素敵な夜をたくさんお持ちなのですから
開け放たれた窓から、
人間の嗅覚がその魔法的な薫りまでを捉えることはないが、魔術的に配置された家具や調度品らは敏感に察知するようで、季節の風にささやかな戦慄の気配を覗かせていた。
「ご主人サマ。荷物、届いタ」
風の抜けていく部屋の入口から呼び声がかかり、夜の魔術師はふと作業の手をとめた。それでも振り返りはせず、窓から外へ目をやる。
強すぎる陽光はレースカーテンを通してもなお明るさを損なわない。テーブルにて乱反射し、磨いた黒檀のような瞳にいっそう濃い影を作りだした。
今日は夏至だ。昼の要素が最も強まる、逆に言えば夜の要素が最も弱まる日。すでにファッセロッタの街は来る夜に備えて厳戒態勢が敷かれており、そういえばまだ届いていなかったかと、彼は送り主の名を口にする。
「シハースィだな。月光の仮面だろうから開けなくていい。そこに置いとけ」
「わかっタ」
いつもは用が済めばすぐに立ち去る魔術人形は、しかし、今日はまだなにか言いたげに留まった。少しばかり主の反応を待つ素振りを見せ、それから立ち去れない理由を告げる。
「もうひとつ、アル」
「いっしょに置いとけ」
「玄関。配達員が、来てル」
昏く魔術を纏わせた視線が、部屋の入口へと向けられた。
無表情を乗せた硝子の双眸としばし見つめあう。
「本人じゃないと、だメ」
(……そんなものを頼んだ覚えはないが)
魔術師はそう訝しむが、とはいえ配達員が「本人でなければ」と告げたのであれば、魔術人形にそれ以上の対応を期待するのは無駄というもの。魔術師は手もとで展開していた魔術を丁寧に仕舞い込んでからハンガーに掛けていたジャケットを羽織り、玄関へと向かった。
「お届け物でーす!」
「でーす!」
眉をひそめる人間の前で楽しそうに飛び跳ねるのは、森に棲む小さな生き物たち。
向けられた胡乱げな目をものともせず、夏毛をさわさわと風に揺らす二匹のイタチは、ぐんと背伸びをして人の頭よりふた回りほど大きな箱を持ち上げた。同時に羽ばたいたカッコウが箱の表面をくちばしでつつき、そこに書かれた宛名を見た夜の魔術師は軽く口もとを引きつらせる。『魔術師さんへ』――魔法の煌めきを宿したその筆跡には見覚えがありすぎたのだ。
(そもそも、だ)
門に施した魔術によって、鍵となる合言葉を持たぬ者は敷地内へ立ち入ることもできないはずなのだが、なぜ大した力も持っていなさそうなこの生き物たちは玄関の扉の前にいるのだろうか。それ以前に、この家を夜の魔術師の自宅と知る者は限られている。まだ、森の魔女には教えていない。
が、まぎれもなく、この届け物は森の魔女からのものであった。
「……どうやってこの家を知った」
「繋ぎだよ!」
「そう、繋ぎー!」
「森の魔女さまとの繋ぎを辿ってきたよ!」
「……は?」
思わぬ答えに魔術師が隙を見せた瞬間、計ったように飛び上がったイタチたちによって、彼の手には荷物が押しつけられた。
今日は、夏至だ。
よく知る箱の大きさとその重さに、夜の魔術師は突き返そうかとわずかに逡巡し――
「サインをください!」
「サインはここだよ!」
あまりに無垢で一方的な言動によって、思考が鈍った。
気づけば彼は、胸もとから取り出した愛用のペンで、示された紙にたしかに受け取ったという印を記入していたのである。
「わあっ、人間のサインだ!」
「きらきらしてないね、珍しいね」
「ほんとだー! でも、繋ぎの薫りがするね」
「繋ぎの薫り!」
「じゃあねー!」
夏嵐のごとく門を飛び越えていった森の生き物たち。
あとには、届けられた箱を抱え、憮然とした表情を浮かべる夜の魔術師が残された。
*
さて、夜の魔術師の眼前には、二つの贈り物が並べられた。
一つは、彼の友である月光の竜から送られてきた、毎年恒例の月光の仮面。
夏至の夜は月光が力を落とすため、言葉の要素が揺らぎやすい。それは夜が語らいや読書に適した時間であることが理由だと言われているが、とにかく、言葉遊びや書物を扱うことの多い世の魔術師らにとっては気の抜けない夜となる。
そんなふうに弱まった夜のあいだ加護してくれるのが月光の仮面であり、夜の魔術師は、その調達にうってつけな――なんといっても、視線そのものが月光である――友が作った最高級の仮面を飾ることにしていた。
余談だが、冬至の昼は陽光が足りないと植物たちが暴動を起こすため、陽光の仮面を飾ることが多くの街で義務づけられている。
とにかく、問題はもう一方だ。
「二枚も、要らなイ」
「……ったく」
森の魔女から突然送られてきた箱の中身は、意匠こそシハースィのものと違えど、同じく今夜使うべき月光の仮面であった。
部屋へ戻ってきたと同時に灯ったメッセージカードを確認すれば、ため息が出てくるのも仕方ないだろう。
『月光の仮面を無事にお届けできたようで、安心しました! 初めての夏至でもないのですから、とうぜん、すでに用意してあることはわかっていますけれど……ふふ、わたくしだって、魔術師さんの夜が損なわれるのは悲しいのです。素敵な夜をたくさんお持ちなのですから、そのどこかで是非、役立ててくださいね』
見慣れた魔法の筆跡で、送り主である呑気な魔女の、しかし人ならざる者の領域を曖昧にした好意のにじむ文面。
去年の夏至にはなかった贈り物だ。
線引きの外か、内か。
森の魔女が、夜の魔術師をどこに位置づけているのかはわからないが、どちらにせよ、この一年で彼女の心の向きは確実に変化している。
それは訪い夜の漂流物であったり、今年の花贈りに切り出された森の夜であったり。
あれほど変わることはないと思っていた存在が、こうしていま、ただの人間との繋ぎを残そうとしている。
魔術師はいちどきつく目を閉じ、今度はこぼれるようなため息とともにゆるく開いた。昏い瞳に浮かぶのは、淡い愉悦だ。
手袋を外した両の手を、それぞれの仮面に触れ、夜の魔術師は細い細い魔術の糸を紡ぐ。濃密な、そして強大な魔法の要素を縫うようにして、二枚の仮面が調和するように整えていく。
(……森の要素が強すぎだろ)
月光の仮面としての体裁を保つ程度には月明かりの要素を含んでいるが、森の魔女から贈られた仮面がもたらすのは、木の間を落ちるそれである。
魔女が自らの要素を分け与えるのがどのような意味を持つのか知らないはずはない――とは言い切れないところが悩ましく、今回も答えの出ない思考は早々に切り捨て、人間は人間らしい強欲さで人ならざる者たちからもたらされた恩恵に触れる。
張り出した玄関の屋根には純正の月光を。
反対側、中庭に臨むキッチンの小窓には森の月光を。
かくして、一家に一枚で十分なはずの月光の仮面が二枚、過剰も過剰な加護でもって夜の魔術師の家を南北から見下ろすのであった。
*
就寝前、もういちど家中の部屋を回って言葉に揺らぎが出ていないかを確認した魔術師は、夏至らしさのない、むしろ深いほどの夜の要素が満ちていることに、どこか鋭さを欠いた笑みを浮かべていた。
珍しくふわりとした心地で、彼は寝室のベッドに寝転ぶ。
眼前に手をかざせば、清涼な月光が指のあいだを抜けていった。純粋なそれも、森の要素を交えたそれも、本来は見ることすら容易ではない代物。
それが、今日たった一夜のためだけに、提供された。
自分の力で手に入れたものでもあるが、それ以上に、恵まれているのだと思う。だが、たとえそうだとしても、人間である彼にはどうしたって手に入れることのできないものもあるのが世の理だ。
本当の意味で、強大な力を持つ魔女を手に入れることはできない。
(……そういう欲ではなかったはずだ)
掲げた手を緩く握り、額にあてる。感じる熱はどちらのものか、わからない。
初めはただ、森の魔女の物語の登場人物になりたかった。
それが勝負に勝ちたいという思いに変わり、自分の一生をかける覚悟に変わり、それだけでは飽き足らず、まだその先を望もうとしている。
(いつかあいつは、俺の欲に気づく)
気づくように仕向けるつもりでいる。
そのとき森の魔女はなにを選択するだろうか。
魔女と人間が交わることはない。世界の事象を司る彼女らの、大きな要素であればあるほどに人間の身体は耐えられず、不可能は絶対的になる。唯一の例外ともいえる時の魔術師が残した軌跡も、
夜の魔術師が選んだのは、あくまでも人間であるまま、森の魔女の物語に登場し続ける道なのだ。
はたして、森の魔女が、向けられた欲に応えようとするならば――自ら繋ぎを求めた相手を壊してもいいと思うほどの心をこちらへ向けてきたならば、自分は受け入れるだろうか。自損など趣味ではないと言い続けてきた自分が。
「あいつが望むなら、か……」
言葉の揺らぐ夜。ふたつの月光によって厳重に守られた家の中で、夜の魔術師はあえてそう言葉にした。
特等の恩恵だ。
たゆたう月光をもう少し浴びようと、彼はおもむろにパジャマのボタンをひとつ外した。
夏の始まりの夜に、どこかひんやりと青びた月光が肌を撫でていく。やはり自分は夜に属する者なのだと、その心地よさに少しずつ意識をゆだねる。
(仮面の礼をどうするかだな。シハースィは、久々にルファイのレストランへ連れて行くか。たしか新メニューができたと言っていた、なら――)
美味いものであれば、自分で再現してみてもいい。それをあのやたらと食い気のある魔女に、この家で振る舞ってみるのもまた愉快なことだろう。
夜が角度を変えていく。
ふつり、ふつりと、とりとめのない思考はやわく月光に紛れ、やがて浮かばなくなった。
仮面のもとに夜は淡く ナナシマイ @nanashimai
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