【完結】純喫茶『晴れのち晴れ』(作品230809)

菊池昭仁

純喫茶『晴れのち晴れ』

プロローグ

 純喫茶? そんな店は殆ど見掛けなくなってしまった。

 街にはお洒落でキレイなカフェばかりが目立つようになり、いつから日本はパリになったのだろう?

 インスタ映えするだけのビジュアル重視のメニューばかり。

 オジサンの居場所なんてどこにもない。オジサンや悩みのある人たちが気軽に立ち寄れて、常連さんたちと楽しく会話が出来る店。

 美味しい食事と飲み物、そして素敵な音楽が流れる喫茶店。

 そんな純喫茶『晴れのち晴れ』は新橋のガード下にオープンした。


 マスターは俺、帰って来た吟遊詩人、菊池昭仁。偏屈爺さんだ。

 営業時間はマスターの俺の気まぐれ。いつOPENして、いつCLOSEするかは俺の気分次第だった。

 もちろん定休日もない。

 疲れたら休む、そんな適当な店だった。


 深夜零時に開店することもあれば、11時で閉店することもある。

 お客さんに合わせるのではなく、俺の都合にお客さんが合わせるという厄介な店だ。


 タバコも吸い放題、携帯電話もかけ放題。もちろん恋人同士のイチャイチャもOKだ。

 だが、誰でもこの店に入店出来るとは限らない。



      店主がキライな人は入店できません



 店のエルメスレッドのドアにはそう黒字で書かれた真鍮プレートが貼り付けてある。

 外壁には海老茶色のレンガが積まれ、お店のインテリアはガーナ・チョコレートの色で統一されていた。


 カウンター席が7席と4人用のテーブル席が4つ、6人掛けのテーブルが2つと、そして14人掛けの大きなマホガニーのテーブルがひとつ。

 椅子だけは極めて座り心地の良いレザーシートになっていた。

 照明はほんのりと明るいオレンジ色で、大きなJBLのスピーカーと暖炉がある。


 俺は誰にもそんな純喫茶を始めたことを言ってはいなかった。

 だから当然、開店祝いの花も届かなかった。

 でも俺は朝からご機嫌だった。


 なぜなら今日来てくれたお客さんにはインペリアル・ホテル、総料理長直伝の特製カレーを振る舞うことが出来るからだった。

 三日三晩、この店に泊まり込んで作ったカレーだ。

 店内にはすごく芳醇なカレーの香りが満ちていた。


 

 「何しろ今日で3日も寝かせたカレーだからな? そしてこの牛テールは4時間も煮込んだものだ。

 そしてこれをマリアージュさせてっと。どれどれ、ちょっと味見を・・・」


 俺はスプーンで寸胴鍋からそれを掬い、口にした。


 

 「うーん、死んじゃうくらい美味しいカレーが出来たぞ。お客さんにたくさん食べてもらおーっと。

 ショコタン、味見してくれ」


 俺はバイトの祥子を呼んだ。

 祥子は大学の文学部の2年生で名前は相沢祥子、20歳。

 彼女は笑うと上野樹里にそっくりな、とてもチャーミングな娘だった。


 「きくりん、ご飯は大盛にしてね?」

 「ハイハイ、このくらいか?」


 ギャル曽根が食べるような大皿に、5合のご飯をよそって見せた。

 私は彼女をショコタンと呼び、彼女は私をマスターともオーナーとも呼ばなかった。

 彼女はいつも私を「きくりん」と呼んでいた。


 祥子はキャバクラ『マノン・レスコー』のナンバーワン・キャバ嬢で、私はそこの常連だった。


 

 「後でジャンボ・パフェも食べるから、そのくらいでいいよ」


 彼女は痩せの大食いだった。

 私はそのご飯の脇に、猪苗代湖のようにカレーをかけた。


 「うわー、きくりんのカレーだあ! すっんごく美味しそう!」


 大喜びの祥子がスプーンでひと口それを食べると、


 「美味しい! 最高だよきくりん! ホッペが落ちそう!」

 「当たり前だ、3日もかけたカレーだからな? 福神漬とラッキョウ、それにピクルスは好きなだけかけなさい」

 「ハーイ」

 「さあて、OPEN初日の最初のお客さんは誰が来るかな?」



 私は大好きなフランク・シナトラのレコードをかけた。

 昼なのになぜか『夜のストレンジャー』にした。

 その曲は私のカレーによく合っていたからだ。


 

 静かにドアが開いた。

 最初のお客さまのご来店である。


 「こんにちは。ひとりですけど、私でも大丈夫ですか? ドアの看板に「店主がキライな人は入店できません」って書いてあったものですから」


 それはとても美しい、北川景子のような女性だった。


 「美人はフリーパスです」


 最初のお客様がキレイな女性だとは、実に縁起が良かった。


 純喫茶『晴れのち晴れ』のオープンです!




第1話 タマちゃん

「良かったー、断られたらどうしようかと思いました。

 ステキなお店ですね? 昭和な感じがとても素敵です。「純喫茶」だなんて珍しいですよね? 亡くなった父がよく話してくれていたので、つい、どんなお店なのかと興味津々でした。しかもお店のお名前が『晴れのち晴れ』だなんて、何か良いことが起こりそうです」

 「ありがとうございます、お好きな席にどうぞ」


 と、祥子が言ったので、私はオヤジギャグを飛ばした。


 「では、カウンターでもいいですか?」

 「もちろんです、美人さんはカウンターにしか、座っちゃダメです。あはははは」

 

 そこに祥子がチャチャを入れた。


 「きくりんは美人さんが大好きなんですよ。良かったですね? 私たちが美人で。あはははは」

 「バカ野郎! 美人が嫌いな男がどこにいる! いたらここに呼んで来い!」


 私の会話も相当に昭和である。


 「ハイハイ、今日のメニューはこちらになっています。ちなみに今日はカレーがお勧めです。

 私もさっき味見しましたが、きくりんのお料理#だけ__・__#は保証します」

 「なんだよその「お料理だけは」って?

 全部凄いんだぞ、あっちの方もな? あはははは」

 「そっちの方はどうかしらねえ~♪」


 祥子が私の手書きのメニューを彼女に渡した。


 「メニューは毎日変わるんですよ、営業日も営業時間もまちまちなんです。

 うちのきくりんが気まぐれなので」


 シルバーのトレイを抱え、祥子は笑っていた。


 「バカヤロー! 信じるじゃねえか! 俺がいい加減な店主だって」

 「あはははは。へえー、面白いお店ですね? 私、あのカフェとかのお洒落な雰囲気が苦手で、どちらかと言えば「富士そば派」なんです。オジサンみたいでしょ?」

 「美人はどこでも似合いますよ。今日がオープン初日なので、カレーは特別に無料になりますがいかがです? 三日も徹夜して作った逸品です!」

 「実はさっきから気になっていたんですよ、カレーのいい香りがするなあって。

 私、カレーが大好きなんです!」

 「それは良かった。では、これから準備しますね?」

 「お願いします。それから飲み物はええと・・・、この「海を見ていた午後のソーダ水」って何ですか?」


 彼女はメニューを見ながら祥子に尋ねた。


 「ジンジャエールです、普通の。

 お客さんはユーミンの「海を見ていた午後」って曲はご存知ですか?」

 「はい、子供の頃、よく母が聴いていた曲でした。「ソーダ水の中を貨物船が通る」ってあれですよね? そのイメージドリンクがジンジャエールなんですか?」

 「ええ、私が冬の午後の山手のレストラン、『ドルフィン』から見える風景を想像して考えました。

 午後だから、金色の方が似合うかなと思ってね?」

 「では、その『午後のソーダ水』を下さい」

 「かしこまりました。お食事の後にお持ちしますか?」

 「はい、それでお願いします」



 私は少し多めにカレーをご飯にかけた。


 「うわー、すごくいい香り、おいしそうー!

 私の実家のカレー皿と同じです! この船みたいなお皿に7対3の黄金比、最高です!

 私、平べったいお皿のカレーって嫌なんです、カレーの水溜まりみたいで」

 「私も平皿が好きでありません、もっとも大盛がお好きな方は別ですが。このウエイトレスのようにね?

 福神漬、ラッキョウ、ピクルスもお好きなだけどうぞ」

 「えっ、そんなに食べるんですか? そんなに痩せて可愛らしいのに?」

 「私、「ギャル曽根の妹」って渾名されているんですよ、食べるの大好きなんです。

 特にきくりんの作る料理は最高なんです。いつも「まかない」が楽しみなんですウ!」

 「うらやましいですね? マスターの「まかない」、私も食べてみたいなあ」

 「いつでもどうぞ、ひとつ作るのもふたつ作るのも同じですから」

 「特にきくりんの卵焼きとおにぎりは感動ですよ!」

 「えー、食べてみたーい! 私、ここの常連になります!」

 「ありがとうございます」

 「私、篠崎珠江といいます。みんなからは「タマちゃん」って呼ばれているんです。

 何だか猫みたいな名前でしょう? うふっ。私、猫なんです」


 そしてタマちゃんがカレーを一口食べると、

 

 「今まで食べた『デリデリ』や『キッチン東海』『ドン・ジョバンニ』のカレーよりも美味しいです!」

 「帝国ホテルのレシピですからね? 知り合いの総料理長に教えていただいたものです、美味しいでしょう?」


 すると珠江は大粒の涙を流した。

 

 「ごめんなさい、つい天国に旅立った父のことを思い出しちゃって・・・。

 カレーが大好きだったんです、私の父。父にも食べさせてあげたかった、こんな美味しいカレーを。

 これって、ここに来ればいつでも食べられますか?」

 「それは無理だなあ? 私がカレーの気分にならないとね。

 作るのに3日徹夜して、2日寝かせて作るカレーだからね? あはははは」

 「じゃあカレーの日は教えて下さい、必ず食べに来ますから!」

 「ではタマちゃんが食べたい5日前に連絡してよ、作っておくから」


 私は名刺を珠江に渡した。


 「もう、きくりんはホント、美人にだけはやさしいんだからー」

 「いいじゃねえか? ここは俺の店なんだから、「美人ファースト」なの!」


 私たちは笑った。

 


 食後にワイングラスに注いだジンジャエールを出した。


 「氷が入っていないんですね? 赤いサクランボがカワイイ」

 「氷を入れるとグラスが曇るだろ? グラスの中を通過する貨物船が見えなくなるからな?」

 「ステキ、また来ますね?」

 「お店が開いているかどうかはわかりませんが、開いていたらタマちゃんはツイているということです。

 お待ちしています」

 「それなら大丈夫です、開いているかどうか、LINEしますから」

 「なるほど、そうですね?」


 私たちは珠江とLINEを交換した。


 「私は相沢祥子です、ショコタンって呼んで下さい」

 「わかりました。ショコタンですね? かわいいお名前!」




 初めてのお客様、タマちゃんは帰って行った。


 「きくりん、タマちゃんって素敵な人だったね?」

 「そうだな?」


 私は水出し珈琲の準備に取り掛かった。


第2話 山下課長と野坂君

 「山下課長、ここに「純喫茶」なんてのがありますよ、入ってみませんか?」

 「どうせ古くせえ「こだわりの珈琲です」なんて店じゃねえのか?

 そんな店に入るくれえなら、ドロールの方がマシだ」

 「何か書いてありますよ「店主がキライな人は入店できません」ですって?

 面白そうじゃないですか?」

 「なお気に入らねえな? お客をなんだと思ってやがるんだ。

 そんな店ならどうせすぐに潰れるさ、偏屈オヤジのやっているような店はな?」

 「もしかして、伝説のバリスタがやっている店かもしれませんよ?

 入ってみたいなあ、ねえ、課長、ここにしましょうよ」

 「仕方ねえな、じゃあ、モカを頼んで不味かったら帰るからな? わかったな?」

 「わかりました!」



 近くの旅行代理店に勤める山下課長と新人営業マンの野坂は、昼飯も食べられず、外回りの営業でクタクタになっていた。

 そして今、ようやく遅いランチを食べ、珈琲でも飲んで休憩しようということになったというわけだ。

 店の入口脇の折りたたみ黒板には白チョークで、


       

        「本日のマスターの気まぐれランチ」


             『幻の親子丼』


             BGM:八代亜紀


 と、書かれてあった。


 


 「きくりん、今日は親子丼なの?」


 祥子がカウンターに頬杖をついて、私の調理を眺めていた。



 「会津地鶏が手に入ったんだ。俺が若い頃に働いていた、鶏料理専門の店で作っていた「幻の親子丼」だ」

 「でもさあ、私、あんまり好きじゃないんだ、親子丼って鳥臭いでしょう? それが苦手なのよ~」

 「確かにショコタンが言う通り、べしょべしょのブラジル産のブロイラーではそうなるがな? でも俺の作る親子丼はかなり違うぞ。まあ、騙されたと思って食ってみろよ」


 私はまず、炭火で地鶏をローストし、少し焦げ目を付けた。


 「最初に焼くの?」

 「ああ、こうすることで鳥の臭みが消え、地鶏本来の旨味が凝縮されるんだ」

 「へえー、そうなんだ?」


 タレはカツオ出汁に薄口醤油、それから煮切りの酒とみりん、水あめとハチミツを加える。

 そこに玉ねぎとささがきゴボウを入れ、鶏肉を煮込むのだ。


 そして重要なのが卵。今日は那須の御用邸の卵を使うことにした。

 その卵を軽く溶いた卵を入れ、蓋をする。

 すぐに火を止め、卵が固まる寸前で追い卵をするのだ。

 私はふたつの卵を割ってボールに入れると、それを軽く箸で混ぜることなく箸で割り、それをその鍋に落とし、また火に掛けた。

 白身が白くなりはじめたらそこでコンロから外し、どんぶりへ。


 「最後にまた卵を掛けるのね?」

 「そうだ、こうすることで、より濃厚な卵とタレがいいバランスになるんだ。

 そしてここに白ごまをパラパラとかけて、三つ葉を乗せてハイ出来上がりというワケさ。

 一口食べてごらんよ」


 祥子が恐る恐る箸を付けた。


 「う~ん、三つ葉のいい香りがする~。

 では、いただきまーす!」

 

 祥子がそれを口に頬張ると、


 「うわー、こんなに美味しい親子丼、食べたことない!」

 「な、旨いだろう? 俺が作る親子丼は?

 そしてこれにはやっぱり八代亜紀の「舟唄」だ。



      お酒はぬるめの 燗がいい 


      肴は炙った イカでいい

     

      女は無口な ひとがいい


      灯りはぼんやり 灯りゃいい



 ってな?」

 「うーん、私は米津玄師の方がいいと思うけどな? だってそんな味だもん」

 「いいの、いいの、俺は昭和のオヤジだから八代亜紀で」


 その時、店のドアが開いた。


 

 「あのー、男ふたりなんですけど、大丈夫ですか?」

 

 私はチラリとその若い男の子の後ろにいる、上司らしき昭和生まれの男を見た。


 (俺と同じ、昭和タイプだな?)


 私はすぐにそう直感した。



 「悪いけどこの店、女性専用なんだ」

 「えっ、そうなんですか?」

 「嘘だよ」


 ムッとする上司の山下課長と、それを見て慌てる野坂君。

 だがその山下も、祥子の笑顔に完全にノックアウトされてしまったようだった。


 「いらっしゃいませー、お好きな席にどうぞ」

 「じゃあ、あちらのテーブル席でもいいですか?」

 「構いませんよ、今、メニューをお持ちしますね?」

 「モカはありますか?」


 試されているなと私は感じた。


 「モカ・マタリですか?」

 「ん?、モカにも種類があるんですか?」

 「はい、特にモカ・マタリはイエメンの斜面で栽培され、その甘く澄んだ香りとさわやかな酸味があり、飲んだ後もすっきりとして、とても気品のある珈琲です。

 あの「コーヒールンバ」の珈琲なんですよ、モカ・マタリは」

 「そうなんですか? じゃあ、そのモカ・マタリをふたつ」

 「かしこまりました。きくりん、モカ・マタリふたつお願いしまーす」

 「あいよ」



 私はミルで豆を挽き、サイフォンにそれを入れる、火を点けた。

 店内に徐々に広がる珈琲のいい香り。


 

 「おまちどうさまでした」


 祥子がテーブルにコーヒーカップを置いた。


 「コーヒーに演歌ですか?」


 野坂君がそう言うと、山下課長がそれを制した。


 「いいんだよ、これで。

 お前は八代亜紀って知らねえだろうな? お前の親は幾つだっけ?」

 「オヤジが48で、母親は47歳です」

 「俺と同じくらいだな? 俺たちの頃はよく居酒屋とかスナックでかかっていたもんだ。

 演歌がわかるようになって初めて大人と言える。

 いいじゃねえか? 八代亜紀でよ?」



 そう言いながら、山下課長は懐かしそうに珈琲を啜った。

 その珈琲には忘れかけていた「純喫茶」の味がした。



 「へえー、これがモカ・マタリっていうんですか?

 スタバにあったかな? こんなの?」

 「ねえよ、あそこにはなんじゃらフラペチーノしかねえ。俺は飲まねえけどな? あんな甘ったるいやつは。

 お嬢さん、親子丼をふたつ下さい」

 「課長、気に入りましたね? この店?」

 「いいからつき合え、こんな珈琲を淹れるマスターだ、只者じゃねえ。

 親子丼も食ってみたくなったんだ」



 そして山下課長はその親子丼を食べて驚愕した。


 「京都の『鶏三和』の親子丼みてえな味がする・・・」


 山下課長は丼ぶりから手を放すことなく、それを一気にかき込んだ。



 

 帰り際、山下課長が私に言った。


 「また寄らせてもらうよ、マスター」

 「いつでも待っていますよ」


 どうやら私たちは同類の昭和人間のようだった。



第3話「私、歌手になりたいんです!」

 ギターケースを背中に背負った女の子が店に入って来た。

 

 「あのー、入ってもいいですか?」

 「どうぞ、お好きなところにお掛け下さい」


 年齢的には20歳くらいだろうか? その女の子は髪はライトグリーン、バスキアの絵のような服を着て、爪はシルバーに塗られていた。

 目の悪い私でも、眼がチカチカするほどだった。


 (この女の子、蛍光ペンみたいだな? あはははは)



 その娘はカウンターの真ん中の席に座った。


 「看板に「ステキなミートソース」と「RCサクセション」と書いてあったので、凄くうれしくなっちゃいました! 私、どっちも大好きなんです!」

 「そうですか? じゃあ私と気が合いますね?」

 「私、そこで路上ライブをやってるんです。新橋の機関車の前で。

 今度、良かったら聴きに来て下さい」

 「どんな歌を歌っているんですか?」


 祥子が訊ねた。


 「色々です。あいみょんとかセカオワとかをカバーをしています。

 私、歌手になりたいんです」

 「へえー、そうなんだ? じゃあ、ここで歌ってみせてよ、上手だったらミートソースはタダにしてあげるからさ」

 「えー、ホントですか! やります! やります! 是非、歌わせて下さい!」



 すると彼女はケースからギターを取出した。

 私はBGMにしていたRCサクセションの『ぼくの好きな先生』を止めた。

 彼女は軽くチューニングを終えると、あいみょんの「マリーゴールド」を歌い始めた。




 そして歌い終わると、


 「どうでしたか? 私のあいみょんは?」

 「凄いわ! 歌手になれるんじゃないの!」


 祥子は興奮していたが、私は彼女の目を見てハッキリと言った。

 

 「君、名前は?」

 「霧山アンナです」

 「じゃあアンナちゃん、君の歌は上手いけど、心には響かない」


 祥子が私に喰ってかかった。

 

 「きくりん、ひどいじゃない! 十分上手だったわよ!」

 「歌が上手い奴なんか山ほどいる。じゃあ、お前はこの人のあいみょんに幾らカネを払う?」

 「出せるわよ、出してあげるわよ!」

 「それは本当に感動したのではなく、そのカネは同情のカネだ。

 世の中にはアンナちゃんよりも歌が上手い奴はたくさんいるが、歌手にはなれない。

 どうしてだと思う? アンナちゃん?」

 「わかりません・・・」

 

 アンナは完全に落ち込んでしまった。


 「では質問も変えよう、芸術って何だろう?」

 「ベートーベンとかショパンとか、ピカソとかゴッホとか、ですか?・・・」

 「そんな大袈裟なモンじゃないよ、芸術って「感動」なんだ。

 つまりそれを見て、読んで、聞いて、触れて、味わって心が動いた時、心が震えた時、それが芸術なんだ。

 芸術とは感動なんだよ。

 美大や音大をいい成績で出て、むずかしい顔して偉そうに作った物ではない。

 ばあちゃんが作る味噌おにぎりでも「うまいなー」と感じたら、それが芸術なんだよ。

 君は声質もいいし、テクニックもある。

 だが感動まではいかない。

 それはアンナの歌に心が、魂が込められていないからだ。

 裕次郎でも高倉健さんでも、そんなに歌が上手いわけじゃないが、聞く人の心に感動を与える。

 それは歌に自分の壮絶な人生が被っているからなんだよ。

 息の長い歌い手さんは、歌が自分自身なんだ。

 アンナの歌は、歌と心が別々なんだよ。

 君、彼氏はいるの?」

 「はい、大学の同級生ですけど・・・」

 「彼の事、あまり好きじゃないでしょう?」

 「えっ?」


 どうやら図星のようだった。


 「だって君の歌には恋愛の喜びや切なさがないもの。 

 だから歌に心が乗らない。聴衆はこう思うはずだ。


    「この子は唄が上手だなあ」と。


 そしてその場から静かに立ち去ってゆく。心が伝わらないからなんだ。心が震えないんだよ、今の君のあいみょんでは」

 「私、どうしたら歌手になれますか?」

 「それは俺にもわからない。でも、夢に向かってがんばることは悪い事じゃない。

 ただ、人には向き不向きがある。

 例えばゴーギャンよりも絵の上手い奴はたくさんいたはずだが、一枚も絵が売れない画家もいた。

 それは運がなかったからだ。作品の価値は人が決めるのではなく、神様がお決めになることだからね?

 でも、がっかりすることはない、君にも十分チャンスはある。

 そしてそれが叶わなかったとしても、そこに仲間が出来て、音楽関係の仕事に就くこともあるかもしれない。

 いろんな出会いが自分を変えてくれるものだよ。

 大切なのは人との繋がりを大切にすることだ」


 

 私は彼女の前にミートソースを置いた。


 「上手かったから無料でいいよ。いっぱい食べな」

 「ありがとう、マスター」

 「アンナちゃん、きくりんは口は悪いけど料理は上手よ、おかわりしてね?」

 「はい! このミートソース、とっても美味しいです!」


 

 私は途中だったRCサクセションの『ぼくの好きな先生』を再びかけ始めた。


第4話 元夫婦

 「きくりん、このミートソース、凄く美味しいけど、どうやって作るの?」

 「3日間かけてデミグラスを作って、それをベースにしているんだ」

 「そんな面倒なの私には無理」

 「簡単に出来る方法もあるよ」

 「どうすればいいの?」

 「まず、玉ねぎの微塵切りを飴色になるまでじっくりと炒めて甘味を引き出す。

 それから挽肉をニンニクの微塵切りとをよく炒め、先程の玉ねぎと合わせる。

 塩コショウで味を調えそこへ赤ワインとおたふくソースを少々、月桂樹の葉を入れて煮込んだら、市販のレトルトのミートソースを加えて最後にバターを少々、牛乳を入れるとトマトの味の角が取れて味がまろやかになるんだ。意外とうまいよ、レトルトのミートは具が少なくてソースが安っぽいからな?

 ポイントは月桂樹の葉だ、これが入ると香りが上品になる」

 「それなら私にも出来そう、今度やってみるね?」

 「粉チーズにはこだわりたいよな? 粉チーズは雪山のようにかける方が美味いから。

 パルメジャーノとかだとなおいい」

 「きくりん、今日のメインはなーに?」

 「今日はこれ、ビーフシチューだ。デミグラスを多く作ったからな」

 「それも食べたい!」

 「よく食う奴だな? ショコタンは」



 今日の音楽は寺井尚子の『リベルタンゴ』にした。

 店のドアが開いて、中年のカップルが入って来た。


 「『魔王のビーフシチュー』って何ですか? 私たちにもお願いします」

 「かしこまりました、ビーフシチューをふたつですね?」


 その男女はカウンターに落ち着いた。

 どことなくよそよそしいふたり。


 「それから、食後に水出しのアイス珈琲と、お前はオレンジペコーだろう?」

 「ええ、でもそのお前って言うのもう止めてくれない? 私たち、さっき離婚して来たんだから」

 「ごめん、つい、いつものクセでな」



 私は牛テールのビーフシチューに、蒸したニンジンとブロッコリー、玉ねぎを加えて煮込みながら訊ねた。


 

 「ご夫婦だったんですか?」

 「ええ、さっき役所に離婚届を提出してきたばかりです」

 「結婚して何年で離婚したんですか?」

 「18年になります」

 「長いですね?」

 

 私は皿にビーフシチューを盛り付けると、そこへ生クリームを軽く一周させた。


 「うれしい、ちゃんとブロッコリーが入っている。

 やっぱりビーフシチューにはブロッコリーですよね? この人、嫌いなんです、ブロッコリーが」

 

 元旦那さんは苦笑いしながらビーフシチューを一口啜った。


 「すごい! すごいよ! こんなビーフシチューは初めて食べた!」

 「私が作る市販のルーでは出せない味ね? このシチュー、美味しいです、マスター」

 「ありがとうございます」

 「この微妙な苦みがいいよね?」

 「そうね? とっても豊かなお味」

 「仲がいいんですね? お二人は?」


 奥さんだった彼女のスプーンを持つ手が止まった。


 「仲が良かった。

 過去形ですけどね? 私たち・・・」

 「私のせいなんです。私が若い女に入れ込んだのが原因なんです」


 ご主人は小指を立てて頭を掻いた。


 「私、この人に裏切られたんです。そんな人とはもう一緒には暮らせません」

 「お子さんは?」

 「来年大学に行く予定の息子がひとりいます」

 「息子さんは何て言っているんですか? ご両親が別れることについて?」

 「息子は私の味方だと言ってくれています。父親の不貞にショックを受けていましたから。

 息子はこの人が大好きだったんです」

 「離婚してどうですか? すっきりしましたか?」

 

 ふたりは黙ってしまった。


 「夫婦って、このビーフシチューみたいだといいですよね?

 じっくりと煮込まれて、コクが出る。

 私も離婚を経験しました。理由はご主人と同じです。

 一時期は同時に8人の女性と付き合っていました。

 もちろん、彼女たちも公認でした、お互いに寂しい者同士だったんでしょうね?

 私はね、思うんですよ、男の我儘ですけどね。

 女房はひとりなんですよ、浮気相手とは違うんです。

 死ぬ間際に呼ぶ、その女の名前が本当に自分が愛した女の名前だと思うんです。

 私はどんな女性と付き合っても、死ぬ時は女房の名を呼ぶと思います。

 そんなの男の身勝手ですけどね?」


 元奥さんは言った。


 「そんなの男の勝手ですよ! 裏切られたんですよ! 私!

 女はそれを赦せと言うの!」

 「愛って一方通行じゃダメなんですよ「俺が、私がこんなに思っているのに」って言っても、それが相手に伝わらなけらば何の意味もない、ただの独りよがりです。

 恋愛って落ちるものでも、するものでもないんです。ましてや奪うものでもない。

 愛ってお互いに「育てる」ものなのではないでしょうか?

 夫婦の愛は水やお日様、養分がなければ枯れてしまう花と同じなんです。夫なんだから、妻なんだからやって当たり前ではないのです。

 いつの間にか日々の生活に忙殺されて、お互いに感謝することを忘れてしまう。

 働いてお金を稼ぐのは当たり前、食事を作り、洗濯をし、子育てするのが当たり前、そんなことはありませんよね?「ありがとう」がなくなると夫婦の愛は枯れてしまうものです。

 私は離婚してそれを学びました」

 「育てるもの?」

 「別に婚姻という関係に拘る必要はないんじゃないでしょうか?

 いいじゃないですか? たまにこうして一緒に食事をするだけの関係でも。

 夫婦から、何でも言い合える親友になれば。

 結婚生活はタイムを競うフルマラソンではなく、ジョギングみたいに景色を楽しみながら、ゆっくり走ればいいんじゃないでしょうか? たまにベンチに座って休憩したりしても」


 元奥さんは元旦那さんの皿からブロッコリーを掬った。

 

 「こんなに美味しいのに、勿体ない」


 元奥さんはブロッコリーを頬張って笑った。



 その元ご夫婦は帰り際、私にこう言った。


 「また来てもいいですか? この人とふたりで?」

 「お待ちしていますよ。必ずまたお二人で来て下さい。

 そして忘れないで下さい。今日は離婚した日ではなく、冷めたシチューを再び火にかけた、『親友記念日』にして下さい」




 ふたりが帰った後、祥子が言った。


 「あのふたり、パパとママからまた恋人同士に戻れるといいわね?」

 「恋人じゃなくて、戦友にな? 人生を一緒に戦う戦友、バディに」



 『リベルタンゴ』を聴きながら。私と祥子はビーフシチューを食べた。


第5話 大臣という名のクズ

 今日はめずらしく店が混んでいた。

 カウンターには珠江、4人掛けのテーブルには中学生の女の子とその母親、そして大きなテーブルには今回、大臣に抜擢された二世議員とその秘書、そして2人の屈強な男性SPが立っていた。


 「マスター、今日はお客さんがいますね?」


 と珠江が言った。


 「そりゃいるよ。ここは一応、喫茶店だからな?」

 「私以外のお客さん、初めて見ました」

 「このお店、マスターの気まぐれだもんね?」


 と祥子が笑う。


 「気まぐれでもいいんですよ。だってこのマスターの海老ピラフ、とっても美味しいですもの」


 珠江がうれしそうに言った。


 「ヘンな名前でしょう? そのピラフ。『海のトリトン海老ピラフ』だなんて?」

 「ピラフって洋風チャーハンのことですよね?」

 「そういう店が多いけどな? 俺のピラフは違う」

 「どう違うんですか?」

 「ピラフとは元々トルコ料理なんだが、ウズベキスタンが発祥だともいわれている。

 炒めた米を様々な具材と合わせ、出汁や香辛料を加えて炊いた物なんだ。

 どちらかといえばスペインのパエリアや、日本の炊込みご飯に近いかも知れないな?

 俺のピラフは米を炒めてニンジン、玉ねぎをみじん切りにしてコーンとピーマンを加えてブイヨンで炊き、仕上げにメレンゲしておいたぷりぷりの海老を入れ、そして最後にバターを混ぜて完成となるんだ。

 だからウマいのは当然さ。あはははは」

 「手間の掛かるお料理なんですね?

 今日の音楽はボサノバですか?」

 「ボサノバはサンバがその原型なんだけど、リオで生まれた音楽なんだ。

 そしてこのジョアン・ジルベルトは俺のお気に入りでね?

 明るいサンバの雰囲気なのに、どことなく哀しげな歌だろう?」

 「何だか「お祭りの後」みたいな音楽ですよね? あるいは夕暮れとかの」

 「まあ曲にもよるけどな?」


 

 テーブル席の親子が話をしているのが聞こえた。

 

 「今日は#楓__かえで__#のお誕生日なのにごめんなさいね? ケーキも買ってあげられなくて」

 「気にしないでいいよ。ママも大変なのにありがとう。このピラフ、とっても美味しいよ。

 ママも食べなよ」


 楓というその女の子は、ピラフの皿を母親の前に置いた。

 母親はそれを一口だけ口にすると、涙を流した。


 「ママ、中学を出たら私も働くよ」

 「ごめんね、楓・・・」



 

 「先生、19時53分の新幹線ですのでお急ぎ下さい。今日はこれから大阪で、森本会長と例の「勉強会」ですから」

 「メシぐらい落ち着いて食わせろよ。少しくらい待たせた方がいいんだ、あの欲張りジジイは。

 それから俺を「先生」って言うの辞めろって言ったよな? 大臣って言えよ大臣って。

 ホント、使えねえ奴だな? お前、何年秘書やってんだ? オヤジの代からだろ?」

 「すみません先生、いえ大臣」

 「俺、あのジジイが嫌いなんだよなあー、俺のこと、まだガキ扱いしやがって。

 あれやれこれしろって一々うるせえし、おまけに大臣の俺をいまだに「君付け」だぜ?」

 「森本会長には御父上の代から多額の献金をしていただいております。くれぐれもそれをお忘れなく」

 「わかってるよそんなこと。食後の珈琲はまだか?」

 「はい、ただいま催促してまいります」



 秘書らしき50才台の男が私のところへとやって来た。


 

 「早く食後の珈琲を出してくれ、もう時間がないんだ」

 「あのクソガキに伝えろ。「お前に飲ませる珈琲はない」とな?」

 「貴様、あのお方を誰だか知っていて言っているのか?」

 「知らねえなあ? ただ俺はお前らがキライなんだよ。金を払ってさっさと出て行ってくれ。

 入口の看板、見てねえのか? 俺がキライな奴は入店お断りなんだよ」

 「後で死ぬほど後悔することになるぞ」

 「後悔するのはお前たちの方だよ」


 秘書はテーブルに戻ると、それを若造代議士に報告した。



 「大臣に飲ませる珈琲はないそうです。

 厚労省の大村次官に営業停止処分にしてもらいますか? あるいは石森さんに?」


 すると大臣は急に立ち上がり、私のところにやって来た。



 「お前、いい度胸してるな?

 こんな店、すぐに潰してやるからな?」

 「どうぞご勝手に。どうせ俺の趣味でやってる店だ、お前のようなガキが来るところじゃねえ。

 さっさと金を払って出て行きな」

 「なんだと!」

 「大体この国は大臣が多すぎるんだよ。環境大臣? そんなの国交省でやれば十分じゃねえか? ロクな仕事もしねえくせに。

 レジ袋を有料にして何の意味がある? そして過剰包装は放ったらかしか?

 有料になって喜んだのは、お前を支援している大手スーパーやコンビニぐらいなもんだろう?

 デジタル庁に経済再生担当大臣? チャイナ・ウイルス担当大臣にワクチン担当大臣? いい加減にしろよ。

 そんな暇があるなら尖閣や竹島、それに誘拐された拉致被害者を奪還して来いよ。

 お前みたいなロクデナシ野郎が政治家なんかやっているから、こんなだらしない日本になったんじゃねえか!

 政治家は人気取りじゃねえんだ! 代議士なんだよ、俺たち国民の代弁者なんだ!

 それなのにアホな連中はお前らを「先生、先生、大臣、大臣」と言って崇めている。

 そんな小判鮫みたいなゲスどもがいるから、いつまでたっても政治とカネの問題が解決しない。

 都合が悪くなると「秘書が勝手にやりました」で終わり。

 あの『桜を見る会』、あれどうなった? 

 『森友・加計問題』は? みんな有耶無耶か?

 お前ら賢いもんなあ? バカだけど。

 日本人はすぐに忘れる『ニワトリ国民』だということをよく知ってるからなあ?

 NHKに公共性、公平性なんてあるのか? 

 だったら税金でやれよ、何を英国BBCを気取ってんだよ!

 お前の目の前にいるその母娘、高校進学も断念しようとしているんだぞ、政治家として恥を知れ!

 そんな国民を救いもしないで何がオリンピックだ!

 金を払ってそのまま帰れ、目障りだ!」

 「後で喚くなよ?」


 大臣は不敵な笑みを見せた。


 「後悔するのはお前の方だ」


 私は同級生の検事正、添島に電話を掛けた。


 「もしもし、添島か? 俺だ。

 お前ちゃんと仕事してんのか? ここに頭のいかれた大臣様がいるから、すぐに調べて牢屋にぶち込めよ。

 ああ、そうだ、あの若造の#国害__・__#議員だよ。

 知らべりゃ埃も出てくるだろうよ? うん、うん、そうだ。

 何だか今夜、大阪の守銭奴、あの森本会長と会うらしい。

 ああ分かった、そのうちな? じゃあよろしく」

 「誰に電話してたんだ!」

 「検事正の添島だ。アイツとは大学時代の親友なんでね?」

 「な、何だと!」


 若造大臣は急に狼狽え始めた。


 「胸糞悪い、俺の店から早く出て行け。

 今日はこれで閉店だ、とっとと消えろ!」


 さっきの秘書が慌てて3万円をカウンターの上に置いた。


 「大変ご迷惑をお掛けしました。

 おつりは結構です、失礼します、大臣行きますよ!」

 「くそっ!」


 すると帰り際、SPのひとりが私に言った。


 「今度、プライベートで来てもいいですか?」

 「ご苦労さまです、あんな奴の「お守り」なんかして」


 ふたりのSPは嬉しそうに帰って行った。



 「ショコタン、今日は店仕舞いだ。表の看板をCLOSEにして来てくれ」

 「了解!」

 「なんだか胸がスーッとしました。私もあの人、嫌いです」


 珠江が微笑んでいた。


 「偉くなればいいというもんじゃない。偉くなって何をするかが大切なんだ。

 あの大臣だけじゃない、日本はどうかしてるんだよ、まったく!」

 「SPさんもうれしそうでしたね?」

 「SPも大変だ、仕事だからしょうがねえけどな?

 実績があって有能で、身長173センチ以上、柔道か剣道が3段以上、射撃上級者、そして英会話が出来る者の中から選抜された者だけが、警視庁警備部に配属されてSPになれるんだ。

 それなのにお気の毒だよ、守る価値もない奴を自分の命と引き換えに警護するんだからな?」


 「岡田准一って、173センチもあるのかなあ?」

 

 祥子が笑った。



 私は母親の分のピラフと、女の子のためのイチゴのショートケーキにロウソクを1本灯し、祥子にそれを運んで行ってもらった。



 「これ、マスターからのプレゼントだそうです。どうぞごゆっくり。

 今日、お嬢さんのお誕生日だったんですね? おめでとうございます。お嬢さんお名前は?」

 「ありがとう、ございます。楓といいます」


 私と珠江もその親子の席に立ち、祥子と3人で一緒に歌った。


       Happy Birthday To You

       Happy Birthday To  You

       Happy Birthday  Dear  楓ちゃーん

       Happy Birthday To You



 私はジョアン:ジルベルトをワムの『ラスト・クリスマス』に変えた。


 「なんで「ラスト・クリスマス」なの?」


 祥子が私に尋ねた。


 「何となくだよ、何となく」


 人生には時折、こんな時間があってもいいと私は思った。


第6話 仕事は好きでするものではない

 「きくりん、良かったね? 楓ちゃん、高校に行けるようになって?」

 「ああ、お母さんもスーパーの経理の仕事が見つかったしな?」

 「きくりんが仕事を見つけてあげたのね? そしてお金も貸してあげたんでしょう?」

 「あんないい親子が苦労するような世の中が間違っているんだ。

 今日は零時からの深夜営業だからショコタン、酔っ払いの相手、よろしくな?」

 「任せて頂戴、私プロだから」


 祥子は元歌舞伎町のナンバーワンキャバ嬢で、周囲からは「歌舞伎町の女王」と呼ばれていた。

 今夜は午前零時から朝の7時までの営業予定だった。


 音楽はジョン・コルトレーンのJAZZナンバー、ツマミはハモンセラーノと枝付き干し葡萄、乾燥させた白イチジクに柿ピー、キスチョコ、ゴルゴンゾーラのカプレーゼを用意していた。

 そして〆には「漁師風塩中華そば」を仕込んでおいた。



 旅行代理店の山下課長と、部下の野坂君がやってきた。

 

 「こんばんはー、OPENってなってたから、来ちゃったもんねー、マスター、ショコタン、元気してたあ~?」

 「山下課長、しっかりして下さいよ。酒に弱いくせに飲むんだからあ。すみません、マスター、祥子さん」

 「バアロ~、俺はいつもしっかりしてるっつうの。しっかりしてねえのは野坂、おめえだろー? えっつ?

 マスター、ジントニック! 野坂、お前は何にすんだ~?」

 「じゃあ、僕はカシオレで」

 「バーカ! そんなの女の子が飲むジュースじゃねえか! 何がカシオレだ! 今の若い連中は何でも約しやがって!

 ちゃんとカシスオレンジを下さいって言え! ねっ、マスター?」


 山下課長は相当ストレスが溜まっていたらしく、酒が入るとグダグダになる、昭和のおじさんタイプの人間だった。



 「いいんじゃねえの? コルトレーン。懐かしいぜ。

 ジントニックとコルトレーン、最高!

 マスター、おつまみは何がある?」

 「ハモンセラーノとレーズンはどうですか?」

 「じゃあ、それ頂戴」

 

 祥子が野坂君に話し掛けた。


 「今までどこで飲んでたんですか?」

 「焼き鳥屋から始まってキャバクラでしょう、それからスナックでカラオケして、ここに辿り着いたというワケです」



 私はバレンシアオレンジの半分をスクイーズしてカシス酒と合わせ、タンブラーのクラッシュアイスの中にそれを注いだ。

 それを見ていた野坂君が言った。


 「生オレンジなんか使うんですか?」

 「オレンジジュースでもいいんだが、この方がオレンジの香りがいいからね? どうぞ」


 野坂君は一口それを飲むと驚嘆した。


 「美味しい! 美味しいですこのカシスオレンジ!」

 「野坂、このバレンシアオレンジはどこのオレンジだと思う?」

 「バレンシアだからスペインですか?」

 「そう思うだろ? 実はアメリカ西海岸のカリフォルニア州、オレンジ郡、サンタアナが原産地なんだよ。

 確かに地中海のオレンジの方が味は濃厚だけどな?

 でも甘味はサンタアナの方が甘い。

 ちなみにモロッコのオレンジはデカくて甘くて香りもいいんだ。それに皮も剥きやすい。

 また行きてえなあ、カサブランカ。

 俺は営業より、ツアコンの方が好きなんだよ。初めて訪れる外国に、驚くお客さんの顔を見るのが最高なんだ」

 「いいなあ、ボクも添乗員になりたいなあ」

 「大変だけど面白えぞ添乗員は。

 マスター、このハモンセラーノ、美味いな?

 今度はシーバスリーガルをロックで!」

 「かしこまりました」


 その時、紺色の背広を着た、30台前半の男が店にやって来た。

 おもむろにカウンターの端に座わると、


 「ドライマティーニを」

 「かしこまりました」



 ドライマティーニはビーフィータージン4に対してドライベルモット1の割合でステアする。

 甘口にはチェリー、辛口にはオリーブの実を添える。

 マティーニは「カクテルの帝王」と呼ばれれ、逸話の多いカクテルだ。

 映画、『7年目の浮気』ではマリリン・モンローが、そして007ではジェームズ・ボンドがそれを飲んでいた。

 酒好きだったイギリスの首相、チャーチルはドライベルモットの瓶のラベルを見ながら、ジンを飲んでいたらしい。

 お通しに柿ピーを小皿に乗せ、マティーニを置いた。

 彼はそれを一気に飲み干すと、


 「おかわり」


 と言った。

 私が二杯目を置いた時、彼が話し始めた。


 「俺、会社辞めようと思うんですけど、どう思いますか?」

 「どうして辞めたいの? 会社?」

 「上司がイヤだからです。

 いつも文句ばっかり言って、もう、うんざりなんです」

 「そうなんだ? それで仕事は何をしているの?」

 「住宅の営業です」

 「その仕事は好きなのかい?」

 「はい、好きです」

 「それでも上司が嫌いだから辞めたいと?」

 「もう限界なんです、俺」


 すると、山下課長がその若者を恫喝した。


 「やめろ、やめろ、やめちまえ!

 お前みたいな奴は何処の会社に行っても駄目だ! 辞めろ! サラリーマンなんか! お前には向いてねえよ!」

 「課長! 失礼ですよ、初対面の人に。すみません、酔っているので勘弁して下さい。

 マスター、お勘定をお願いします」

 「バカ野郎! 俺は酔ってなんかいない! 本当のことを言ってやったまでだ!

 いいか? 会社なんて仲良しクラブじゃねえんだ! やるかやられるかの真剣勝負なんだ!

 イヤな奴なんて山ほどいる、どこの会社にもだ!

 その度に転職してたらお前、働くところなんかなくなるぞ!

 仕事はな?「好き嫌い」でやるもんじゃねえんだ!」


 祥子が静かに言った。


 「私もそう思う。

 仕事ってイヤなことをしてお金を貰うんじゃないのかしら?

 会社の人間関係も仕事のウチだと思う」


 私はグラスを布巾で磨き、店の照明にそれを翳しながら言った。


 「石の上にも三年だっけ? そんなに座っていたらケツが痛くなるよ。

 いいんじゃねえの? 転職すれば。

 本当にいい、こんな山下さんみたいな上司に出会うまで、転職を繰り返しても。

 別に違った仕事をしようというわけじゃねえんだろ?

 俺はいいと思うけどな?」

 「それでいいんでしょうか?」

 「それよりアンタが変わることじゃねえのか? 上司を悪く言うのではなく。

 君は自分が変わろうとせずに、人が、環境が変わることばかりを期待している。

 自分が変わらない限り、同じことなんだよ。

 もしかすると、そんな君の態度が上司にも伝わっているんじゃないのかなあ?

 だから文句も言われるんじゃねえのか?

 人の想いというものは、良くも悪くも相手に伝わるもんだ。自分も嫌えば相手も嫌う。

 人間関係で重要なことは、たとえ好かれなくても、嫌われないことなんだよ」

 「じゃあどうすればいいんですか?」

 「見方を変えればいい。 

 茶筒だって横から見れば長方形だが、上から見れば丸だろう?

 人のアラばかり探していないで、いいところを探してみたらどう?

 それでもダメなら辞めてもいいんじゃないかな? やるだけやってもダメだったら」



 「マスター! 腹減ったー! 何か食うのねえの?」

 「塩ラーメンならあるよ」

 「野坂、お前も食うか?」

 「いただきます」

 「じゃあそれ2つ、それからそこの兄ちゃん、アンタも食うか? 奢ってやるよ!」

 「・・・いただきます」

 「マスター、塩ラーメン3つ!」



 俺は塩ラーメンを作って出した。

 

 「お待ちどうさま。ショコタン、お前も食べるか?」

 「えっ、私もいいの?」

 「どんぶりが4つあるのを見てたくせに」

 「えへ、バレてた?」



 山下課長がどんぶりを持ってスープを啜った。


 「うまい! いけるよマスター! 『あさがお』よりも旨い!」

 「ホントだ! すっきりしているのにコクがある!」

 「細麺とのバランスも最高ね!」

 「このレモンの香りと南高梅も会いますね? 実に美味しい・・・」

 「塩にはほのかな酸味があると、より上品な味になるからな? お好みでどうぞ」


 私は櫛形レモンを皿に乗せて出した。



 私は両切りのラッキーストライクに火を点けた。


 「利尻昆布にびんちょう鮪のマグロ節、オーストラリアの海塩と天塩、ドイツ産の岩塩をブレンドして酒、みりん、生姜、ホタテとシジミ、決め手はムール貝だな?

 それに会津地鶏と香味野菜で取ったベースとその塩ダレを混ぜたんだ。

 出す直前にニンニクとネギ油を入れ、鶏チャーシュー、メンマ、卵、そして九条ネギと深谷ネギ、そこに糸辛子と白胡麻をかけて、一番上にレモンスライスと紀州南高梅をトッピングすれば完成だ。

 それから塩ラーメンの麺は細麺に限る」

 「きくりん、また作ってね?」


 

 咽び泣くようなコルトレーンのサックスが似合う、そんな夜だった。



第7話 ひょっこりひょうたん島

 「すごく美味しいわ、このオムライス。

 ネーミングも面白いわね? 『ひょっこりひょうたん島オムライス』なんて。カワイイ」


 本田さんは最近常連になった人だ。

 どちらかと言えば地味な女性だが、メガネをかけた聡明な人だった。



 「ホント、なんだか懐かしい味がする。マスターのオムライス。

 食べてるとほっこりするわね?」


 今日は路上シンガー、アンナも来ていた。

 祥子がアンナに声を掛けた。


 「どうだったの? 今日の路上ライブは?」

 「だんだんファンも増えて来てね、ほらこんなにギャラをもらっちゃった!」


 アンナは私たちに、うれしそうに革袋に入った小銭や札を見せてくれた。

 その中には1万円札も1枚紛れていた。



 「すごいじゃないか! 1万円札まであるなんて!」

 「マスターのおかげだよ、歌詞をよく理解して歌うことにしたんだ。その歌詞の主人公になった気分で。

 今まではいかにきれいに正確に歌うかしか考えていなかったから」

 「今度、私も聴きに行くからね!」

 「私も!」


 祥子も本田さんも楽しそうに笑った。


 「ぜひ来て下さい。一生懸命唄いますから」



 祥子と本田さんにも励まされ、アンナはうれしそうだった。



 「この曲、いいですね?」

 「俺が幼稚園の頃、NHKでやっていた人形劇の主題歌だよ。歌詞がいいだろう?」

 


      『ひょっこりひょうたん島』 


           作詞: 井上ひさし 山元護久

           作曲: 宇野誠一郎   

            唄: 前川陽子

  

    波をジャブジャブ ジャブジャブかきわけて


    雲をスイスイ スイスイおいぬいて


    ひょうたん島は どこへ行く


    僕らをのせて どこへ行く



    丸い地球の水平線に 何かがきっと待っている



    苦しいことも あるだろさ


    悲しいことも あるだろさ


    だけど僕らは くじけない


    泣くのはいやだ 笑っちゃおう


    すすめ ひょこりひょうたん島


    ひょっこりひょうたん島


    ひょっこりひょうたん島




 「泣くのはいやだ笑っちゃおうっていうフレーズが素敵。

 深いですよね? 今度、路上ライブでカバーしようかな?」

 「いいよ、それ絶対いい!」

 

 祥子が言った。



 その時、奥のテーブル席で怒鳴り声がした。

 そこには小学校低学年らしき男の子と、髪を金髪にしたヤンキー風の若い男と、原宿にたむろしていそうなギャル風の女がいた。


 「なんだオメエ? その眼は! またやられてえのか?」

 

 その男はその小さな男の子を睨みつけていた。

 無言で首を横に振る男の子。


 男の子のところには水が置かれただけで、その男と母親らしき女のところには、オムライスとクラブサンド、パフェにハイネケン、そしてオレンジジュースが食い散らかされていた。


 「ホント、どん臭いんだから。

 この子の父親もどん臭かったけどねー」

 「食いてえか? これ? んっ?」


 男は男の子の前にオムライスのスプーンを持って行くと、すぐにそれを自分の口に入れた。

 

 「ああうめえ、死ぬほどうめえなこれ。朱美、お前も食えよ」


 母親はそれを口に入れてもらうと、うれしそうに言った。


 「ありがとう。雅史大好き!」

 「いいってことよ、今日はスロットで4万円も儲かったからな? じゃんじゃん好きな物頼めよ。

 だから止めろって言ってんだろ、このクソガキ! 胸糞悪い!」


 男が子供の頭を叩いた。


 「顔はやめなよ、児相に見つかるとヤバいから」

 「大丈夫だ、顔はやらねえよ。

 そのかわり、帰ったらまたお仕置きな?」

 

 男の子は俯いたままだった。

 すると、本田さんがその家族の席に歩み寄った。


 「あなたたち、この子の親?」

 「なんだババア、おめえには関係ねえだろ、すっこんでろ!」

 「そうよ、私たち家族のことに干渉しないでくれる?」

 「そうだよ、今、俺たちは家族で仲良くお食事中なんだからよ! うへへへへ」

 「何がお食事中よ、この子に何も食べさせないで、ちゃんと見ていたんだから。

 かわいそうにこんなに痩せて・・・」

 「うるせえ! 口出しすんな!」


 すると、本田さんはどこかに携帯電話を掛け始めた。


 「何? 児相に通報するつもりなの!」


 母親が叫んだ。

 

 「ああ私よ、本田。

 すぐに新橋の喫茶店、『晴れのち晴れ』に来て頂戴。そう、暴行の現行犯だから」


 そして本田さんはその親たちに警察証を見せて、腕時計を確認した。


 「18時32分、暴行の現行犯で緊急逮捕します」

 

 本田さんは男に手錠を掛けた。

 あんぐりと口を開ける、男と母親。


 ふたりは駆け付けた警察官に連行され、店を出て行こうとした。

 するとその時、男の子が警官に縋った。


 「ママを連れていかないで!」

 「優斗・・・」


 祥子が男の子を抱き寄せ、男に言った。


 「3,680円になります!」

 

 男は財布からカネを出し、祥子は釣銭を渡して男を睨みつけた。


 「人間のクズ!」


 本田さんは生活安全課の刑事だった。

 本田さんは男の子に言った。


 「お腹空いたでしょう? マスター、この子にオムライスを作ってあげて。

 ちょっとお姉さんに見せて頂戴ね?」


 本田さんが男の子の薄汚れたTシャツをめくると、言葉を失った。


 夥しいあざや刃物傷、タバコを押し付けられた火傷の痕もあったからだ。

 その光景を見て、祥子もアンナも顔をしかめた。


 「ひどい・・・」

 「ホントにあるんだね? こんな酷いことが」

 「この子だけじゃない。後先考えず平気で子供を作って邪魔になり、苛立ち虐待をする。

 人間にはもともと残忍な闇が潜んでいる。

 それがやがて快感になっていくんだ。

 アイツらからすれば犬や猫をイジメているのと同じ、ゲーム感覚なのさ。

 子供が子供を産み、そして若い男女は別れ、大抵の場合、母親がシングルマザーとなって子供を放ったらかしにして男と遊びに出掛けてしまう。

 すぐにいい仲になり同棲、そして邪魔になる子供。

 子供が欲しいという夫婦は子宝に恵まれず、産まれてはいけないところに子供はポコポコと産まれてしまう。

 世の中うまくはいかないものだ。

 だがな? さっきの親たちも、子供の頃に親の愛情を受けられず、虐待されていた可能性は高いんだ。

 無意識のうちに自分がされたことを自分の子供にもしてしまう。悲しい負の連鎖が起きている現実がある。

 つまり、この問題を解決するにはきちんとした親になるための再教育が必要なんだ。

 ただの対処療法ではイタチごっこなんだよ、児相だってもう限界をすでに超えている」


 何日も食事を口にしていなかったと見えて、男の子は本気でオムライスを頬張っていた。


 「虐められていた子供は、不思議と親を庇う。

 自分が虐められるのは、自分が悪い子だからなんだと考える子供もいるそうだ。

 あんな親でも親は親なのだろうな?」

 「ボク、辛かったね?

 もう大丈夫よ、それを食べたらお姉ちゃんと一緒に行こうね?」



 優斗君はその後、児童相談所に引き取られることになった。




 翌日、本田さんが店にやって来た。

 

 「ショコタン、レスカとオムライス」

 「ごめんなさい本田さん、今日はオムライスは・・・」

 「あるよ」

 「マスター、キムタクのドラマのバーのマスターみたい」


 私はチキンライスを炒め、そこにフワフワのオムレツを乗せると、ケチャップを掛け、ブロッコリーを刺して島らしく飾り付けた。



 「はい、お待ちどうさま。

 『ひょっこりひょうたん島オムライス』の出来上がりー」

 「そうね? 「泣くのはいやだ笑っちゃおう」ですものね? 人生は」

 


 この日本にも本田さんのような警察官もいる。

 まだまだこの国も捨てたもんじゃないと私は思った。



 「マスター、私もオムライスが食べたい!」

 「はいはい、ショコタンは大盛りだよな?」

 「もちろん!」



第8話 思い出のマカロニサラダ

 「マカロニサラダ? あの、お弁当の付け合わせのやつ?」

 「あれはマカロニのマヨネーズ和えだ。

 俺のはマカロニ#サラダ__・__#」

 「何が違うの?」

 「マカロニに対する愛情が違う」

 「マカロニってあんまり食べないもんなあ」

 「騙されたと思って食べてみろよ? 旨いから」

 「どうやって作るの?」

 「まずは卵を硬茹にする。

 その間にマカロニを茹でるんだ。

 普通のマカロニなら4分位だが、このパスタは8分かかる。何も付けなくても旨い。

 マカロニは重要だ。パスタはそれ自体が美味いと、塩とオリーブオイルをかけただけでも食えるからな?

 料理は手早く、無駄なく、愛情を込めてが基本だ。

 玉ねぎをなるべく薄くスライスし、カリカリになるようにベーコンを炒め、スィートコーンを準備する。

 玉ねぎは辛いだろう? だから軽く塩揉みをする。

 そして放置すると浸透圧の関係で玉ねぎから水分が放出されて来るから、それを絞ると辛味も程よくなり、水分が抜けて玉ねぎの甘みとシャキシャキ感が残るわけだ。

 ゆで卵はすぐに冷水に漬けると殻が剥きやすくなる。

 その際、少し殻にひびを入れておくと、薄皮も剥きやすくなるんだ。

 その卵をボールに入れてフォークで潰す。

 みじん切りにする人もいるが、俺はざく切りの方が好きだからフォークを使う。

 そこにマヨネーズ、塩コショウ、砂糖、酢、カリカリベーコン、コーンを入れ、そこに玉ねぎを投入し、混ぜるんだ。

 お好みで茹でたニンジンやピーマン、パセリ、ピクルスを入れてもいい。

 そしてざっくりと混ぜたら、そこへ、茹でたてのマカロニと和える。

 仕上げに少し、蜂蜜を垂らして出来上がりだ」


 私はスプーンでそれを一口掬い、祥子の口に入れた。


 「どうだ? 美味いだろう?」

 「美味しい! それごと食べたい!」

 「ギャル曽根かっ! あはははは」


 私は自分の娘のような祥子と笑った。



 「マカロニはパスタの一種だ。マッケローネの複数形がマッケローニとなる。

 ファッションセンスのない男をイタリア人は「マカロニ」と揶揄することもある。

 マカロニという言葉はラテン語によるものらしい。

 美味いマカロニなら、そのまま塩茹してオリーブオイルとバルサミコ酢だけでもうまいが、国産のマカロニは工夫が必要だ。

 特に茹で加減が重要になる」

 「ペンネもマカロニみたいだけど、あの太さだとチーズ系かトマトソースの方が合うよね?」

 「マカロニにもいろんな形があるからな?

 それに合わせてソースを決めればいい」



 するとその時、80才台前後の品の良い老夫婦が店に入って来た。



 「私たちも入ってもかまいませんか?」

 「どうぞ、お好きな席にお掛け下さい」

 

 祥子が応対した。



 「入口に『思い出のマカロニサラダ』とあったので、つい懐かしくなりましてね?

 マカロニサラダは意外とないものですから」

 「それに音楽が、私たちの若い頃に観た映画『慕情』だなんて、とても素敵なお店だと思いました」

 「いいですよね? このナットキング・コールの唄、歌詞も素晴らしい」

 「あの時代は輝いていましたよね?」

 「粋なマスターだね? カウンターに座らせてもらおうか?」

 「ではお嬢さん、マカロニサラダをふたつ下さい。

 それからあなた、お飲み物は?」

 「僕はチンザノがいいんだが、まさか純喫茶にはないよね?」

 「ありますよ、わたくし用ですが」

 「うれしいなあ、じゃあ私はそれを」

 「私はトマトジュースをお願いします」

 「かしこまりました」


  

 旦那さんの方は、VANの石津健介のような白髪のダンディだった。

 奥様は髪を薄紫に染めた、美人の面影が残る品の良いマダムで、洋服のセンスも良く、統一されたブランドをさりげなくお持ちだった。

 おそらく海外居住経験のあるご夫婦だと思われた。



 「すばらしいよ! マスター! 懐かしい味だよ、ナポリのヨットハーバーの香りがする!」

 「ホント、懐かしいわ、このお味。

 子供たちは独立しまして、主人と二人暮らしで外食が多いもので。

 とてもおいしゅうございます」


 食文化評論家の岸朝子みたいなご婦人だった。


 

 「お褒めいただき、恐縮です」

 「マスターもイタリアへ?」

 「若い時ですが、ローマ、ジェノバ、ナポリ、サボーナに少し」

 「だから懐かしいんだな? 本場はトマトが違うからね? あの長細いトマトばっかりだもんな?

 あれは美味い」

 「お二人ともイタリアには長くいらしたんですか?」

 「15年くらいになるかしらね?」

 「そうだな、加奈がまだ幼稚園の頃だからな?」

 「それにこの『慕情』、あなたと一緒に観にいった映画よ、覚えてる?」

 「もちろんだよ、あの映画は名作だった。

 もちろん音楽も。

 ヘンリー・キング監督、ジェニファー・ジョーンズとウイリアム・ホールデン。

 戦争によって引き裂かれるふたり・・・。

 あの頃の映画は心にずっしりと来たな? いい映画だった」

 「お近くにお住まいなんですか?」

 「自宅は鎌倉なんですのよ、近くにマンションがありましてね、今日はふたりでお散歩に参りました。

 そうしたら、こんな素敵なお店を見つけてしまいました。

 また伺ってもいいかしら?」

 「営業時間も営業日もまちまちなんですよ、誰かさんが怠け者なので」


 祥子が笑った。


 「いや、そこがいいんだよ、そこが。

 僕も自分の嫌いなことはしない主義だからわかるよ。マスターの気持ち」

 「わたくし、あまりあのカフェというものがどうも苦手で。

 なんだか薄っぺらい感じがして、ここは日本なのにね?」

 「ウチみたいな純喫茶など、もう時代遅れですよ」

 「いいじゃないか、時代遅れ。

 ワシらも時代遅れだけどな? わっはっはっ!」

 「古き良き時代でしたわよね? あの頃は。

 唄声喫茶とか、懐かしいわ」

 「マスター、ここはレコードなんだね? 僕のコレクション、ジャズが多いが寄贈するよ」

 「ありがとうございます。喜んでいただきます」

 「処分に困っていたんだ、息子も娘も、そして孫たちもクラッシックが専門だから」

 


 ご夫婦はとても楽しそうだった。

 再会を約束して帰って行かれたが、後になって私は思い出した。

 あの紳士が世界的バリトン歌手の三枝健一郎だったことを。

 どうりでいいバリトンボイスだと思った。


 「あのお爺さん、どこかで見たような気がするんだけど?」

 「世界的バリトン歌手、三枝健一郎だよ」

 「そんなすごい人だったの?」

 「だから、本物がわかるのさ。一流の人だからな?」

 「仲のいい素敵なご夫婦だったね? いいなあ、あんな夫婦、憧れちゃう」

 「あんな風に歳を重ねたいもんだな?」

 「うん。マスター、私にもマカロニサラダ頂戴!」

 「大盛りでか?」

 「もちろん!」



 私は『慕情』を口ずさんだ。


    Love is a many-splendored thing

(愛、それは輝き溢れるもの)



第9話 卒業写真

 お店の看板には『ヒマラヤ焼きそば』と書かれていた。

 そして今日の音楽はユーミンの『卒業写真』だった。

 カウンターには野坂君と珠江、そして高校生の直也君が俺の作った焼きそばを食べていた。



 「マスター、この焼きそば、凄く美味しいです!」


 野坂君は美味しそうに俺の焼きそばを食べていた。


 「ホント、そしてこの大盛焼きそばの上にかけられた、ホワイトソースが絶品ね?

 このほんのりと香る、ブリーチーズがとても合うわ! 目玉焼きも乗ってるし」


 珠江も褒めてくれた。


 「私も見ているだけで涎が出ちゃうなー」

 「ショコタンも食うか? もう3時だしな?」

 「えっ、いいの? きくりん大好きー!」


 私は早速、祥子の焼きそば作りに取り掛かった。

 

 本来なら、もっちりとした中華麺を蒸しあげた方が旨いのだが、市販の焼きそばでも十分イケる。

 出来れば太麺がいい。


 それを袋ごとレンジにかける。そのまま炒めてしまうと、麺がよくほぐれなかったり、麺がプツプツと切れてしまうからだ。

 そして麺のもっちり感も失われてしまう。

 目安として1袋1分、3袋なら3分温めるといい。

 これにより、麺がほぐれやすくなり、のど越しも良くなる。


 ソース焼きそばの場合、具材はあまり多くしない方がいい。

 せいぜいキャベツとモヤシで十分だ。

 ソース焼きそばは、ソースと麺を味わうものだからだ。

 

 野菜を炒め、そこへ先程温めた麺を入れ、カツオ出汁、ウースターソース、オイスターソースを少々、それを『オタフク』の焼きそばソースで炒める。

 ポイントはカツオ出汁だ。

 横手焼きそばも出汁を使う。

 山盛りの焼きそばに、チーズの効いたホワイトソースをかけ、トッピングには目玉焼きを乗せ、そして口直しの紅ショウガを添える。

 青のりはお好みで、デートの前やデート中は控えた方がいいからな。俺はそんな青のりを付けた女、嫌いじゃないけどな。



 「うわーっ、美味しい! 美味しいよマスター!」


 祥子が興奮気味に言った。


 「新潟ではイタリアンとか言って、ミートソースをかけるが、あれはあれで旨い。

 今回はヒマラヤがコンセプトだから、ホワイトソースを雪に見立ててみた。

 そしてソースには卵の黄身がよく合うから目玉焼きも乗せた。

 横手焼きそばもそうだけどな?」



 カウンターの一番奥の席の直也君がポツリと言った。


 「おいしい・・・」

 「それはよかった、作った甲斐があるよ」


 私はタバコに火を点けた。



 直也君は高校生だったがイジメに遭い、学校には行けなくなってしまっていた。

 どこにも行くところがないのだろう? 直也君はよく店に来るようになっていた。

 特別よく話すでもなく、いつもカウンターの端で常連たちの話に聞き耳を立てている、そんな子だった。



 「料理を作るのって、楽しいですか?」

 「楽しいよ。食べてくれる人が旨そうに食べているのを見ると、楽しいし、うれしくなる」

 「いつから料理を?」

 「そうだなあ、小学校2年生の頃だったかなあ?

 俺には8才下の妹がいて、お袋が寝込んだりした時には生まれたばかりの妹をおんぶして、コメを研いでいたもんだ」

 「直也君、きくりんはね、昔、船乗りさんだったんだよ。

 その時に世界中の美味しい物をたくさん食べたんだって。

 ねえ、きくりん?」

 「俺は世界中を食べまくった男だからな? あはははは」

 「女もでしょう?」

 

 みんながドッと笑った。



 「今度、教えてやるよ、料理」

 「ボクにも出来ますか?」

 「当たり前じゃねえか? 料理なんて誰にでも出来るよ。

 相手に食べて、喜んで欲しいという気持ちさえあればな?

 だって、旨いもん食べて怒っている奴なんかいねえだろう?」

 「ボク、もう学校へは行きたくないんです」

 「別にいいんじゃねえの? 行きたくねえのに無理して行かなくても。それに勉強ならいつでも出来るしな。

 大学に行きたければ大検を受験すればいい。

 人生は長い、先を急ぐことはないよ」

 「そうよ、仕事はお金をいただくから、嫌でも行くけど、学校なんてどうでもいいんじゃない? 無理して行かなくても」

 「このままではボク、大学へも行けません」

 「大学で何を学びたいの?」


 野坂君が言った。


 「まだわかりません。でもみんな、大学に行っているし、就職するにもその方がいいお給料が貰えるだろうし」

 「まあ、中卒よりも大卒の方が世間体としてはいいよな?

 でもな? 学びたい物がないのに大学に行ってどうすんだよ?

 直也君、人生には目的が必要なんだ。「何のために」という目的が。

 それよりも、自分のやりたいことを探すことの方が大切だと俺は思うけどな?」

 「だって不安じゃないですか? 学歴が無いと・・・」

 「それは君がサラリーマンを目指しているということかい?

 人間国宝と呼ばれる人はみんな東大卒か?

 世の中みんな、社長や政治家だったらどうなる?

 おまわりさんや郵便屋さん、農家さんに電気屋さん、様々な人がいてこの社会が成り立っているんじゃねえのか?

 「学歴が無い人間は駄目な奴だ」と君は洗脳されているんだよ」

 

 すると祥子が言った。

 

 「そうだよねえ、私もそうだったよ、やることが見つからなくて、それで大学に入ったの。

 何をしたいかを見つけるために。

 勉強するのが、物事を知るのが好きだったしね?

 それに大学に入れば、イケメンもたくさんいるだろうと思ってねー。あはははは」


 すると珠江がいつものように穏やかに話し始めた。


 「私は弁護士をしているんだけど、そのために大学に行く必要があったの。

 弁護士資格を取るには、法律を専門的に学ぶ必要があったから」


 「えっー、タマちゃん、弁護士だったの?」

 「あら、言ってなかったかしら?」

 「どうりで、賢そうだと思った。いつも高そうな服着てるし」

 

 野坂君も言った。


 「僕はね、落ちこぼれだったんだ。

 そして僕も酷い虐めにもあって、1年間、中学に殆ど行っていなかった。

 学校に行こうとしても、すぐに食べた物を戻してしまい、学校に行くことができず、家から出なくなってしまったんだ。

 でもね? 親は僕に何も言わなかった。「行きたくない学校に行くことなんかない」と言ってくれたんだ」

 

 私はタバコの煙を燻らせながら言った。

 

 「今の学校にはサラリーマンみたいな先生ばかりだ。

 「教師にだって人権はある」というのなら、他の公務員になればいい。

 「教師は聖職者じゃない」という奴もいるが、教師は聖職者であるべきだ。

 なぜなら教え子の将来を担っているからだ。

 「安定しているから」という理由だけで先生になんかなるなと俺は言いたい。

 勉強を教えるのも下手クソだしな?

 ましてや教え子がクラスの仲間にいじめれれても知らん顔、見殺しだ。

 「虐めに遭っているなんて知りませんでした」ってな? お前はそれでも人間かっていう話だ。

 学校の教師は「職業」ではない、それは「奉仕」なのだ。

 そもそも教育学部なんて意味があるのか?

 大人の社会で揉まれたことがないガキが、ガキを教えられるか?

 何のための義務教育だ? アイツらがラクして金を稼ぎ、威張るために子供が犠牲になっての義務教育か?

 学校はな? 友だちを作る場所なんだよ。

 集団の中で思いやりを学ぶ場所なんだ。

 勉強したいなら塾に行った方がいい、アホな教師に教えてもらうよりも成績は良くなるハズだ。

 塾は勉強を教えるプロだからな?

 評価のゆるい公務員教師とは違い、成果を要求され、それが収入に影響するからだ。

 文科省も、勉強はあの「ハイジ」をパロッている、ふざけた学習会社にでも丸投げすればいい。

 運動するならライザップにでも行った方がいいし、サッカーならクラブチーム、野球ならリトルリーグに行った方がいいプロ選手になれる。

 いいか直也君、自分が何をしたいかをよく考えろ。長い人生、1年や2年なんて決して無駄じゃない。

 まずは今を楽しむことだ。青春を楽しめ。

 それからな? どうして虐められると思う?」

 「自分が嫌われているからです」

 「女の子の場合は根が深く、陰湿だが、男子の場合はそいつが喧嘩が弱いからだ。

 よく言うだろう? 「弱い者いじめ」って。

 学校の番長がいじめられているか?」

 「いいえ」

 「当たり前だ、喧嘩が強いからだ。

 「カネ持って来い」、なんて言われないだろう? 番長なら?

 俺はイヤなガキだったが虐められたことはない。それは俺が格闘技をやっていたからだ。

 もし、直也君が学校に行きたいのなら、極真空手でも習いに行けばいい。

 それを知った奴らは誰も君を虐めることはないだろう。

 だが、強くなっても仕返しだけはするな。恨みは恨みを呼ぶからだ。

 忘れてやることだよ、そうすれば直也君はより大きくなることが出来る。人間的にな?

 そして本を読むことだ、本とは出会いだ。

 いい本を読むことだ。

 ではいい本とは何か?

 それは「考えるきっかけを与えてくれる本」のことだ。

 街の図書館に行ってごらん、たくさんの人類の英知がそこにある。

 そしてそこに人生を生きるヒントがあるはずだ。

 見つけてみろよ、人生を賭ける価値のある生き甲斐を」

 「読書の秋だしね?」


 野坂君が言った。


 「人をイジメて喜んでいるような奴と一緒に『卒業写真』なんか撮らなくていいんだ。自分は自分なんだから。

 まずは自分を責めないことだ。弱くたって、情けなくったっていいじゃないか? 「どうして自分はダメなんだ」なんてことは、自分に対する冒涜だ。

 かけがえのない大切な自分なんだからね。

 自分が自分を認めることだよ。

 そして自分を愛することだ。

 俺はそう思うけどね?」


 直也君は頷き、美味しそうに焼きそばを頬張った。


 「マスター、今度、ボクにもこの焼きそばの作り方、教えて下さい」

 「いいよ、企業秘密だけどな? 特別に教えてやるよ」


 店が温かい笑い声に包まれた。

 がんばれ、そしてがんばるな、直也君。



 ユーミンのレコードは、優しい声で『卒業写真』を歌っていた。

 直也君は少しだけ、「いじめ」から卒業出来たようだった。



第10話 挫折を知らない教師

 表に看板を出して戻って来た祥子が言った。


 「きくりん、もう午後の3時だよ。ランチに来る人なんていないんじゃないの?」

 「だろうな?」

 「なのに『THE チャーハン』って看板出してもお客さんなんて来るのかなあ?」

 「いいんだよ、今日はチャーハンを作りたい気分だから」

 「きくりん、このお店、趣味でやってるの?」

 「別にいいじゃねえか? ちゃんとショコタンにはバイト代を払ってるんだから。

 まあ、食ってみろよ、俺のチャーハン、絶品だぜ」


 私はチャーハンの用意を始めた。


 

 「まずはご飯だ、普通のママさんたちは残った冷ご飯をそのまま使うが、炊き立ての飯がいい。

 それが無理ならご飯をレンジで温めて使うこと。

 チェーン店の中華レストランはサラダ油を入れて炊いたりするが、俺は好きじゃない。

 炒めると、より酸化し易くなり、風味が抜けるからだ。

 まあ、手っ取り早く作るのにはいいがな?」

 「材料はこれだけ?」

 「ああ、ネギとピーマン、そして卵だけだ。

 あとは自分の好きな具材を足せばいい。

 俺はこのシンプルなのが好きだ。

 これに金華ハムを入れたら言うことなしなんだが、カネが掛かる。 あはははは」

 「これで本当においしいチャーハンになるの?」

 「問題は火力と具材を入れるタイミングなんだ。

 中華鍋は常に強火だ。

 そこにラードとキャノーラ油を少し多めに入れる。

 ほら、煙が少し見えて来ただろう? そこに溶き卵を素早く入れ、間髪を入れずに熱々のご飯を投入するんだ。

 ネギとビーマンを加え、そこに天塩、コショウ、味の素、カツオの本だしを隠し味に加え、ダイナミックに中華鍋を煽る。

 塩は重要だ、俺は瀬戸内海の天塩を使う。

 少し甘味があるからな? インカの岩塩もいいぞ、インカ・ローズソルト。

 どうだ、ウマそうだろう?」

 「すごい! ご飯がお鍋で踊っているみたい!」

 「そして香り付けにごま油を少々、そしてさらに醤油を周りに軽く一周させて焦がし醤油でさらに香りが増からな。

 そしてまた、しっかりと煽るんだが、あまり長く煽り過ぎないのがポイントだ。

 パラパラチャーハンを作るのは簡単だが、ちょっとしっとりさせるのがプロの技だ」


 私は中華お玉を鍋の中央に構え、火から少し離して煽り続けた。

 

 「どんどんお玉にチャーハンが吸い込まれて行く!」


 私はお玉に溜まったチャーハンを六角皿に盛り付けた。


 

 パッカーン



 完成である。


 「すごいすごい、きくりん、マジシャンみたい!」

 「はい、どうぞ」

 

 私は祥子の前にチャーハンと蓮華を置いた。


 「いっただきまーす!

 美味しい! 美味しいよきくりん。

 ネギと卵とピーマンだけなのに何で? どうしてこんなに美味しいの?」

 「チャーハンは中華の基本が試されるものだ。

 火をいかに上手に操れるかなんだよ。

 だから初めての知らない中華屋に入ったら、まずチャーハンを頼むといい。

 それがその店の実力だからだ。

 その店が美味いか、不味いかを知る、リトマス試験紙になる。

 俺も色々と食べ歩いたが、チャーハンのうまい店は2つしか知らない。

 ほら、コメがツヤツヤして光っているだろう? これが旨さの秘訣さ。

 あとは好きな具材を入れればもっと旨くなる」

 「じゃあ、今度は海老チャーハンを作ってよ」

 「いいよ」




 ドアが開き、30才台の訳ありのようなカップルが来店した。

 

 「ふたりなんですけど」


 巻き毛の少し派手目の女が言った。

 祥子はすぐに蓮華を置いて応対に出た。


 「お好きな席にどうぞ」

 

 するとふたりは奥の4人掛けのテーブルに進んで行った。



 「私はプーアール茶のホットとチャーハンを。あなたは?」

 「んー、俺はジャスミン茶、温かいやつ。

 ねえウエイトレスさん、チャーハンの具材は何?」

 「卵とネギ、それからピーマンです」

 「貧乏くせえ焼飯だな? じゃあ、俺はいらねえや、ネギもピーマンもキライだから」

 「かしこまりました。

 では、ホットのプーアル茶と温かいジャスミン茶ですね?」

 「それでお願いします」


 祥子が戻ると、私にカウンターで囁いた、


 「イヤなカンジ」



 私はチャーハンを作り始めた。

 さっきのカップルの話し声が聞こえて来た。

 


 「なんで俺が教育委員会に呼び出されなくちゃならねえんだよ、まったく!」

 「どうせ形だけよ。「ヒアリングはやりました」的な?

 教育委員会なんてロクなやつはいないんだから。教育長のお気に入りばっかりなんだから」

 「ホントむかつくぜ、あの言い方。

 お前にも聞かせてやりたかったよ、「どうして野田恵美子さんは自殺したんですか? あなた、担任でしょう? 虐めの事実はあったの? 無かったの?」だってよ。

 あいつは弱いんだよ、自殺なんかしやがって。迷惑な話だぜ。

 そもそも虐められる子供は親の育て方がおかしいんだ、野田の母親はシングルマザーであの子をほったらかし。 

 給食費もロクに払えねえ貧乏人だしな?

 そしてアイツは友だちもなく、いつも学校で暗い顔をしてる。イジメて下さいって言ってるようなもんだろう?

 虐められて当然なんだよ」

 「仕方がないわよ、イジメる子供もおかしいけど、イジメられる方がバカなんだから。

 私たち教師も同じでしょう? 社会に出たら威張った方が勝ち、強い者が勝ちなのよ」

 「俺の親父は中学の校長、お袋も教師だった。そこら辺の上場企業のサラリーマンよりも恵まれていた。

 だってふたり合わせて年収なんか3,000万近いんだぜ?

 そこら辺の中小企業の社長よりも上、おまけに休み放題で残業もなし。

 余計なことさえしなければパラダイスなんだよ、日本の教員は。あはははは

 アメリカみたいにバイトなんてしなくてもいいんだからな? 公務員だから潰れる心配もねえしな?

 やろうがうやるまいがどんどん給料は上がって行く。

 そして何かあれば子供を出汁にすればいい。

 「こんな待遇では満足な教育が出来ますか? 教師にだって人権、生活があるんですよ」とか言ってな?

 お袋なんか、退職して暇なもんだから、退屈しのぎに「いのちの電話」の相談員なんてやっちゃってさ、笑えるだろ? お前の担任でもあった、あの朱美先生がだぜ。

 自殺を止めるなんて出来るわけがねえよ。

 第一、飽きると高級レストランでフォアグラを食ったり、ヴィトンのバッグを衝動買いしてんのに、死にそうなやつらの気持ちなんてわかるわけがねえ」

 「信じらんない、あの鉄仮面が?」

 「そう、自分のことしか考えない、あの感情のない女がだぜ?」

 「笑えるわ、その話」

 「俺さあ、挫折って言うの? それを味わったことがねえからさ、あいつらの気持ちが分かんねえんだよ」

 「あなた、よくそれで教師やっているわね? サイテー。 あはははは」

 「だからこうやって亭主持ちのお前と遊んでやってるんじゃねえか? 絢乃先生?」

 


 祥子は鬼のような形相で、ふたりのテーブルに近づいて行った。


 「閉店しますのでお引き取り下さい」

 「なんでよ? 今来たばっかりだし、まだ何も来ていないじゃないの?

 閉店だなんておかしいでしょう!」

 「なんだこの店? 俺たちをおちょくってんのか?」


 すると毅然とした態度で祥子が言った。


 「あなたたちのようなクズ教師に食べさせる物も、飲ませる物もここにはないわ!

 出て行って! 今すぐに!」

 「何、この店? 言われなくても出て行くわよ、二度と来るもんですか! 気分が悪いわ、行こう、佐々木先生!」

 「覚えてろよ、ブス」


 店を出ようとしたその教師たちを私は呼び止めた。


 「1万円になります」

 「ふざけるな! 警察を呼ぶぞ!」

 「どうぞ。その前にウチのかわいいウエイトレスに謝って下さいよ。

 この子はブスではない、ただの美人なお人好しですから」

 「なんで謝るんだよ、ふざけるな!」

 「そうよ、そして何も食べも飲みもしていないのに1万円なんてどうかしているわ!」


 「日本の教育も死んだな? お前たちのような人間が先生なんだからな?

 1万円はこの店の入場料だ。ひとり5,000円、ふたりで10,000円だ。

 消費税はおまけしておくよ」

 「佐々木先生、警察に電話して!」


 男が携帯に手を掛けた時、祥子はメニューを開いて見せた。



   ※マスターが嫌いな人は入店をお断りします



 ふたりの教師がそれを読んだ。


 「何?「万が一、入店後にそれが発覚した場合は入場料として、おひとり様 5,000円を申し受けます」だと?」

 「祥子、警察に電話だ。

 料金を踏み倒した奴がいますってな?」

 「はい、マスター。110っと」

 

 すると女教師が慌てて財布から1万円を抜き出してレジカウンターへ叩きつけた。


 「行こう、佐々木先生!」

 「覚えてろよ!」




 ふたりが店を出た後、私はその一万円札を珈琲豆の空き缶の中に入れた。

 そこには『がんばっているのに恵まれない人への募金箱』と書かれていた。


 今日のBGMはBilly Joel の『Honesty』だった。

 ビリー は歌う、



     Honesty , such a lonely word.

Everyone is so untrue.


Honesty, is hardly ever hard.

  And mostly what I need from you.



 私と祥子はすっかり冷めてしまったチャーハンを食べた。

 

 「きくりん、美味しいね? このチャーハン」


 私は横顔で笑った。



第11話 大阪で生まれた女

 今日は酢豚を作らなければならない。

 私は酢豚にはゴロンとした豚のバラ肉を使う。

 普通なら火が通りやすいようにと小さくカットして、そのまま片栗粉を付けて油で揚げるが、少し食感が寂しい気がする。


 私の場合は角煮くらいの大きさに切った豚肉を一旦セイロで蒸して、軽く塩コショウを振ってから片栗粉をつけて油でサッと揚げる。

 茹でると時間も掛かり、折角の豚肉も水っぽくなってしまうからだ。

 食材を蒸すということを考えた人間は偉い。


 材料はピーマン、赤、黄色のパプリカと玉ねぎ、そして肉厚の椎茸だ。

 私はニンジンを入れない。他の食材と食感が合わないからだ。

 そして重要なのがパイナップル。



 「きくりん! 酢豚にパイナップルは邪道だよ! 普通は入れないよ! 止めて!」


 祥子が悲鳴を上げたが無視した。

 私はパイナップルの缶詰のシロップを捨て、あの丸いリングを四等分にして、他の具材と共に中華鍋に投入して炒め始めた。

 少し大きめのパイン缶を全部入れてしまった。


 「イヤなら食うな」

 「いいもん、よけて食べるから」


 絡めるソースは予め作って置く。

 食材と一緒に作ると、味にムラが出来てしまうからだ。

 

 ケチャップ、砂糖、黒酢を3分の1ずつ混ぜて、そこに紹興酒、みりん、カキソースを加え、隠し味に「オタフクソース」を少々。

 それを火にかけ、片栗粉でとろみをつけて弱火にし、あらかじめ炒めて置いたそれらの具材と軽く混ぜれば出来上がりだ。


 

 懸命にパイナップルを皿の端に避ける祥子。


 「お料理に果物を入れるなんて、あり得ないんですけど」


 私はわざとパイナップルを食べて見せた。

 

 「ああ、この酸味、甘味、そしてこの食感。最高だなあ!」

 「ハイハイ、では私はお肉から。いっただっきまーす!」


 祥子は大きな肉の塊をモグモグ。


 「おいしー! 柔らかくてとってもジューシー!」

 「そしてこの酢豚には、やっぱり紹興酒だな?」


 私は紹興酒を呷った。

 流石に中国人の食に対するセンスは素晴らしい。そして食と酒は常に一体であるべきだ。



 今日のお客さんは近くの電機メーカーに勤める、OLの曜子さんだった。


 「きくりん、ショコタン、こんにちはー。

 ねえねえ、今日のランチは『パイナップル入りげんこつ黒酢酢豚』ってあるけどさ、やっぱり酢豚にはパイナップルだよねー。

 私、パイナップル大好き!

 パイナップルご飯も作るのよ。

 ご飯と酢豚を頂戴、本当はご飯じゃなくてビールか紹興酒なんだけどね?

 午後からも仕事だしね~。また夜、来てもいい?」

 「もちろん。 曜子ちゃんはわかってるなー、酢豚はやっぱりパイナップルを入れないとね?

 パイナップルの入っていない酢豚は酢豚じゃないよ、「飛べないブタはただのブタ」だから。あはははは」

 「そうですよねー? よく料理に果物を入れるなんておかしいっていう人、いるじゃないですかあ?

 私、その人おかしいと思う。

 だって美味しいカレー屋さんだって、チャツネとか使ってますよね? フルーツの入った。

 りんごとハチミツ、とろーり溶けてる~♪」


 すると祥子が不機嫌そうに言った。


 「きくりんも曜子さんもヘンだよ。酢豚にパイナップルは入れないの! パイナップルは!」

 「へえー? ショコタンはパイナップル入れない派なんだあ? 騙されたと思って食べてみなよ、美味しいから。

 パイナップルは嫌いなの?」

 「大好きだけど・・・」


 祥子は皿の端によけられたパイナップルを曜子ちゃんに見せた。


 「あららら」

 「あとで洗って食べようと思って・・・」

 「お前はアライグマ、ラスカルか? 今度からラスカルって呼ぶぞ」

 「ショコタンほら、一緒に食べてみなよ」

 「うん、それならちょっとだけ」


 恐る恐るパイナップルとパプリカを口にする祥子。


 「おっ、美味しい! 何これ? この黒酢の効いたソースと合うっ!」

 「だから言っただろう? 食わず嫌いなんだよ、ショコタンは。

 「パイナップルは酢豚に入れる物じゃない」という勝手な先入観が美味しい料理を遠ざけてしまうのさ」

 「うーん、きくりん。美味しくて死んじゃいそう!

 ここは中国かっ!」

 「タカアンドトシじゃないんだから。もうー、欧米かっ!」


 私たちは大笑いした。

 食には人をしあわせにするチカラがある。



 「でもさー、どうして今日の音楽は『大阪で生まれた女』なの? 上田正樹の『悲しい色やね』の方が私は好きだけど?」

 「大阪を代表するソウル・シンガーは上田正樹だ。

 そして若い頃はやんちゃだった桑名正博も、アン・ルイスと別れてからは良く歳を重ね、渋いオヤジになった。

 どちらも好きな大阪の歌い手だけどな?

 酒とタバコ、そして恋・・・。

 歌い過ぎてしゃがれたその声に、壮絶な人生が見え隠れする。

 だけど今日は『大阪で生まれた女』の気分なんだ」



 だが本当は、10年前に別れた大阪の女、亜希子の今日が誕生日だったのだ。

 亜希子は私の作るパイナップル入り黒酢酢豚が大好きだった。

 

 「やっぱり酢豚にはパイナップルだよね?」と、はにかむ亜希子。



     大阪で生まれた 女やさかい


     東京へは ようついていかん・・・



 無理して微笑む、亜希子の泣いた顔が目に浮かんだ。



第12話 やっちゃえオッサン

 野々山君は広告代理店、白鴎堂の営業マンだ。

 

 「どうしたの? 野々山さん、さっきから溜息ばっかり吐いて?

 もう、お店に来てから8回目だよ」

 「俺、もう会社辞めようかなあ・・・」

 「えー、もったいないよ! 白鴎堂って言ったら、お嫁さんになりたいランキング第6位のスーパーエリートじゃない? 一体何があったの? 辞めたいだなんて?」

 「もうイヤなんだ、あんなくだらない、下劣なCMを売るのが」

 「酷いよな? 最近のテレビコマーシャルって。なんでもありだもんな?」

 「そうなんですよマスター。俺、あんなCM、放映したくないです。

 あの名作、『フランダースの犬』のネロとパトラッシュがカップラーメン食べたり、ハイジとクララとお爺さんが学習塾のパロディにされたり、そして挙句の果ては「やっちゃえ、オッサン」ですよ? もう限界」

 「あの国民的アイドルグループだった奴のあれか? あれは俺もイヤだな?」

 「そうかしら? 私は好きだけど、「やっちゃえ、オッサン」いいんじゃないの、別に?」

 「ショコタンはあのタレントが好きだからそう言うけどさ、同じメンバーだった草錆が酒に酔って、公園で裸だった時にあれほど犯罪者扱いしてたくせにだぜ? 自分は2回もスピード違反で捕まってんのに謝罪会見もしない。

 クルマのCMに出ているのにだよ?

 スピード違反は偶発事故じゃなくて、スピードを出そうとしての故意の違反だろ?

 おまけにオッサンの前に、あんなに世話になったトトナを裏切って、ライバル会社のオッサンのCMに涼しい顔して出ているのが許せないよ」

 「俺はあのオッサンが気に食わねえよ。

 あの有能な経営者のカルロス・トシキを追い出して株価はダダ下がり、おまけに今度のチャイナウイルスに便乗して、国からの融資、1,200億円をちゃっかりもらっちゃたも同然なんだからな?

 もちろんオッサンの社員は悪くない、悪いのはあの自己中な役員たちだ。

 自分たちの保身のために会社を台無しにした責任は重い。

 そういえばトシキ主演の映画、日本で上映しないのかな?」

 「俺、もうイヤなんです、自分たちの利益のためのなんでもありのCMを売り歩くのが。

 だってそうでしょう? CMって、あの15秒の中で表現するドラマじゃないですか? それなのに・・・」

 「俺たちの若い頃はいいCMが沢山あった。

 メッセージ性もあったよ」

 「例えばどんなCM?」

 「昔のやつだからショコタンは知らないだろうけど、あの明石家さば男がやっていたポン酢のコマーシャル。「しあわせーって何だっけ? 何だあっけ?♪」って、さば男が歌うんだよ鍋の前で。

 それはな? 「鍋を囲める家族がいることがしあわせなんですよ」っていう主題がそこにあったんだ。

 そのポン酢で鍋を家族で楽しんで下さいってな?

 今の受け狙いの安っぽいドラマ仕立てのCMより、はるかに良かった。

 でも大変だよな? 野々山君も。

 そりゃ落ち込むのもわかるよ」

 「会社だから儲けないといけないし、ライバル会社の通電にも負けたくないし。

 でも俺はCMで日本を元気にしたいんです!」

 「だったら君が偉くなれよ。

 売って売って売りまくれ、そして課長、部長、役員、野々山君が社長になって会社を変えればいいじゃないか?

 辞めるのはいつでも出来る、君が辞めても会社は痛くも痒くもない。

 会社なんて、代わりはいくらでもいるからな?」

 「そうだ! 俺が偉くなればいいんだ!

 そうすれば沢尻エリカや明菜ちゃんもCMにバンバン起用出来る!

 マスター、俺、やってみます!」

 「がんばれ、野々山君」

 「やる気になったら腹減ったなあー、マスター、『思い出のビーフストロガノフみたいなやつ』を下さい」

 「あいよ」



 本来のビーフストロガノフではないが、簡単に作れて美味しいのがこれだ。


 牛肉と玉ねぎ、そしてシメジを塩コショウ、焼肉のたれ、ワイン、バターで良く炒め、そこにグリーンピースとお湯、固形コンソメ、月桂樹の葉を入れてコトコトと煮込む。

 そしてそこに市販のハヤシライスのルーを入れ、それをご飯の上に掛けたら生クリームを一周させて完成だ。

 牛肉は出来れば脛肉やテールがいいが、しゃぶしゃぶ用の肉でもいい。

 

 

 「ハイ、おまちどうさま」

 「旨そう! でもどうして「思い出の」なんですか?」

 「俺がコックの見習いをしていた時に作らされた「まかない飯」だからさ。

 これを作ると、あの時の辛い修業時代を思い出すんだよ」

 「この音楽は?」

 「Eric Carmen の『All by myself』、いい曲だろう?」

 「そうですね、この歌詞のように、すべてを自分でやることは辛いことですもんね?」

 「マスター、私も食べたーい! ビーフストロガノフ!」

 「ショコタンは大盛な? ほら食えよ、ウマいぞお」

 「ありがとう! マスター大好きー!」


 たまにはビーフストロガノフもいいもんだ。

 本物は食べたことはないけど。



第13話 意外な訪問者

 「ショコタン、この看板を表に掛けて来てくれ」

 「ハーイ、今日はロールキャベツなんだね?」

 「嫌いか?」

 「ううん、大好きだよ。

 私はね、ケチャップを掛けるのが好き。

 ヘンかな?」

 「俺もケチャップを掛けるよ。

 一個目はそのまま食べるけど、二個目からはケチャップだ」

 「美味しいよね? ロールキャベツって?

 今日の音楽はヘンリー・マンシーニの『ひまわり』っていう曲なんだね?」

 「ああ、俺が一番好きな映画音楽だ。

 これを聴くと、広大なひまわり畑が目に浮かぶ」


 そして好きだったあの女のことも。



 ロールキャベツはコンソメがポイントだ。

 コンソメとはフランス語で「完成された」という意味があるが、基本はブイヨンで、英語で言うところの soup stock がそれだ。

 よく固形コンソメをいれてベーコンやソーセージ、ニンジンやキャベツ、玉ねぎなどを煮込んでポトフを作るが、それは間違いだ。

 肉と野菜を煮込んだ物がポトフで、その汁がブイヨンだからだ。

 ブイヨンはスープの出汁として、フォンはソースの出汁として使う。

 ブイヨンを作るにはかなり手間が掛かる。

 牛脛肉、牛骨、丸鶏、鶏ガラ、ニンジン、玉ねぎ、セロリ、ブーケガルニなどを入れて、10時間以上も付きっ切りで灰汁を慎重に取りながら作るからだ。

 私はこれに生姜、ネギ、ニンニク、粒胡椒、ワイン、リンゴを丸ごと入れて作る。

 そしてこのブイヨンをさらに手を加えて作るのがコンソメスープだ。

 コンソメスープを飲んだだけでそのフレンチレストランの格が分かる。

 私はかなり本格的にコンソメを仕込んでいた。



 「ショコタン、玉ねぎとニンジン、それからセロリを微塵切りにしてくれ」

 「はーい」


 祥子はかなりの料理上手なのだが、私の前では料理をしない。

 なぜ料理をしないのかと尋ねると、

 

 「だってきくりんの作るお料理、好きだから」


 やさしい娘である。

 いつも私に華を持たせてくれる。


 私はキャベツを裏返して、芯を中心に約6割をくり抜いた。

 そしてそこに祥子が微塵切りしてくれた野菜と牛肉を合わせ、軽く塩コショウを振り、牛乳を湿らせたパン粉とバターで混ぜて練る。

 そしてそれを先程のキャベツに入れ、そのまま蒸し器で蒸すのだ。

 そうすることでキャベツの余分な水分が抜けて甘味が強くなり、コンソメを薄めることがなくなる。

 それを鍋に入れ、コンソメで煮込んで完成だ。


 すでに火が入っているので、あまり煮込まなくてもいい。

 そしてそれを切り分けて食べるのが私の「ロールしないロールキャベツ」だった。



 「ロールじゃないけど、旨そうだろう?

 普通のロールキャベツでは、どうも肉とキャベツのバランスが悪いような気がしてな?

 甘いキャベツをたっぷりと食べたいじゃないか?

 豚肉を使うのが一般的だが、俺は牛肉の方が好きだ」

 「早く食べたーい!」


 私と祥子がロールキャベツを食べていると、急にドアが開いた。



 「いらっしゃいませ、お好きな席にどうぞ」


 すると、その女はカウンターに座った。


 「少し痩せたんじゃない? ちゃんと規則正しくご飯、食べているの?」

 「よくここがわかったな? 誰にも教えてはいないのに」

 「あなたのロールキャベツ、懐かしいわね?

 私にもお願い。

 それから食後にマルコポーロをホットで」

 「あのー、マスターのお知り合いですか?」


 私は彼女が答える前に言った。


 「女房だ」

 「えっ! こんな素敵な人がマスターの奥様?」

 「正確には「元」奥様ですけどね?

 あなたは若くて綺麗でチャーミングな人ね?

 気を付けた方がいいわよ。この人、手が早いから」

 「いえいえ、私たちはそういう関係じゃありませんから」

 「あなたはそうじゃなくても、この人はそういう気なのかもしれないわよ?」

 

 私はさっきのロールキャベツを温め直し、女房の前にそっと置いた。


 「ケチャップを下さる?」

 「奥さんもケチャップを掛けるんですね?」

 「最初はそのまま食べるの。この人のコンソメは美味しいから。

 そしてもう一つはケチャップをかけて食べるのが好き」

 「私もそうやって食べるんです」

 「あら、そう?

 ロールキャベツにケチャップだなんて邪道なんでしょうけどね?

 美味しいわよね? この方が」

 「ハイ!」

 「子供たちは元気か?」

 「元気よ、宗介は今、ベルギーにいるわ。

 時々、里佳子と話しているのよ、あのロクデナシは元気かしらって」

 「思い出してくれているだけで、うれしいよ」

 「体の方はどう?」

 「大丈夫だ。まだいけそうだよ」

 「そう、ならいいけど」

 「心配させてすまないな?」

 「一応、元、妻ですからね?

 あまり無理しちゃダメよ。あなたすぐ無理をするから。

 そして大丈夫じゃなくても、いつも大丈夫だって言ってばっかり。

 変わってないのね? そういう痩せ我慢をするところ」

 「だったら大丈夫なんて訊くなよ」

 「可愛くない人、心配して損しちゃった。

 懐かしいわね? マンシーニの『ひまわり』

 2回目のデートに、スカラ座で見た古い映画。

 ソフィア・ローレンの悲しい瞳と美しいひまわり畑、そしてこの切ない音楽」

 「よく覚えているな? 昔の話だ」

 「みんな覚えているわよ、あなたにされた嫌な思い出も全部。ふふっ」

 「俺はいい思い出しか覚えてないけどな?

 歳を取ると、物忘れが酷くなるようだ」

 「今度、里佳子も連れて来るわね?」

 「その時は連絡してくれ。里佳子の好きだったパエリアを作ってやりたいからな?」

 「あの子、きっと喜ぶと思うわ。

 あなたの作るパエリア、大好きだから」




 食事を終え、紅茶を飲んで女房は帰って行った。



 「びっくりしちゃった。あの人がきくりんの奥さんなんだあ?

 綺麗な人だね?」

 「元、奥さんな?」

 「ホントは今でも好きなんでしょ? 奥さんのこと?」

 「俺は酷いロクデナシ亭主だった。

 嫌われて当然だ」


 

 外は雨が降って来たようだった。

 アイツ、傘を持っているだろうかと、傘を持って女房の後を追ったが、もう彼女を見つけることは出来なかった。


 今は傘なんてコンビニで買える時代だ。

 私は自分の要らぬお節介を自嘲した。


 私は『ひまわり』を聴きながら、もう一つのロールキャベツの準備に取り掛かった。



エピローグ

 開店から1年が過ぎた。

 常連さんたちの口コミのおかげもあり、店は繁盛していた。

 


 「きくりん、カレーみっつにミートソースふたつ、それからクラブサンドひとつに親子丼ふたつ!

 ドリンクはモカがふたつとアップルティーがひとつでお願いしまーす!」

 「はいよー」

 「あっ、いらっしゃいませ、こちらの席しか空いてないんですけど大丈夫ですか?」


 店はいつの間にか純喫茶ではなく、半分、食堂みたいになっていた。

 山下課長と野坂君も、ランチには毎日のように来てくれていた。


 「マスター、すごいね? ここって純喫茶だよな? 

 すっかり定食屋になっちまって」

 「課長ごめんね? 店が繁盛するのは望んではいないんだけど、こうなると俺がいなくても大丈夫みたいだな?」

 「引退にはまだ早いんじゃねえのか?」

 「人間、引き際が大事だよ」


 私は汗だくで料理を作り、そしてドリンクを配った。




 ランチタイムが終わり、少し静かになったので店を一旦CLOSEにして、俺と祥子はクラブサンドとジンジャエールにミントを入れ、まかない休憩をしていた。



 「きくりん、台風が通過したみたいだったよね?」

 「ホントだな? 下町の親父と娘でやってる食堂みたいだった」

 「それはそれで楽しいけどね? だってみんなとっても美味しそうに食べて飲んで、笑ってくれるんだもん。 

 常連さんたちも毎週のように来てくれるしね? なんだかここが我が家みたい」

 「そして常連さんたちが俺たちの家族でな?」

 「うん、それって素敵だよね?

 私が若女将できくりんが私の旦那さん」

 「それを言うなら出来た娘と不良親父だろう?

 それにしても色んな猫がやって来たなあ」

 「かわいい猫ちゃん、面白い猫ちゃん」

 「ヘンな猫に、エロ猫。

 いやな猫もたくさん来たよな? みんな追い返したけどな?

 昔、大昔、人間は猫だったのかもしれないな?」

 「うんうん、そんな気がする。

 気まぐれで、やんちゃで、自分勝手で、そして寂しがりやで」


 

 私はクラブサンドを食べ終えると、タバコに火を点けた。


 「なあ祥子」

 「どうしたのきくりん? 私を「祥子」なんて呼んで? めずらしい。

 告白ならいいわよ、もうわかっているから」

 「この店、おまえにやるよ」

 「冗談キツイよ、昭仁さん?」

 「真面目に言っているんだ。

 俺はもう飽きたんだよ、この店のマスターが。

 毎日毎日、飯を作って珈琲を淹れて、もうヘトヘトなんだ。

 俺がいなくてもお前がいればこの店はやっていける。

 この新橋のオアシスを失くしたくないんだ。

 お前は頭もいいし美人だし、何よりも人に対して思い遣りがある。

 やさしい女だ。

 だから祥子にこの店を継いで欲しい」

 

 私はカウンターにキャッシュカードを置いた。



 「1,000万円入金してある。

 暗証番号は祥子の誕生日、1123にしておいた。

 これを当面の運転資金にすればいい。

 今度は祥子がこの店のママとして、みんなの憩いの場を提供してやってくれ」

 「そんなの無理だよ! 私ひとりでなんて出来るわけがないじゃないの!

 この店はきくりんのお店だよ!

 それにきくりんはここを辞めてどうすんの?」

 「少し旅に出ようと思う。

 俺ってひとつのところでじっとしていられねえんだよ。

 ほら、俺ってチャランポランで女好きだろ?

 また祥子みたいなカワイイ姉ちゃんを探しに行って来るよ」

 「そんなことしなくても、ここに本人がいるじゃないの!」

 「いいダーリンを見つけろよ、俺みたいな爺さんじゃなくてな?」

 「いいよ爺さんで、キクジイで我慢するよ! 私はきくりんがいい!」

 「ありがとうな? 祥子。

 これは俺からの最後のお願いなんだ。祥子にこの店を守って欲しいんだ。

 この純喫茶、『晴れのち晴れ』は俺の理想なんだ。

 日本は何処へ行ってもお洒落なカフェばかりになっちまった。

 カフェはパリにあるからカフェなんだ。

 フランス人の憩いの場、それがカフェだ。

 愛を囁き、芸術や文化に口角を飛ばし、激論を交わす場所なんだ。

 インスタ映えする写メを撮る場所じゃない。

 洗練された料理と飲み物。

 優雅な身のこなしの給仕たち。

 パリの美しい街並みがあってこそのカフェなんだよ。

 そんな上品なカフェは日本には似合わない。

 今の日本にはそんな薄っぺらい西洋文化の偽物じゃなく、昭和の香りのする純喫茶がこの国には必要なんだ。

 この国はいつの間にか思い遣りの心を失ってしまった。

 だからこそ、あのやさしい情熱のあった昭和が必要なんだ。

 頼む、祥子。俺の夢を叶えてくれ」

 「だったら一緒にやろうよ、昭和の純喫茶をふたりで。

 夢を途中で諦めるなんて狡いよきくりん・・・」


 祥子は泣き出してしまった。


 「旅に飽きたり、女にフラれたらまた戻って来るかもしれない。

 その時は、バーテンで雇ってくれ」

 「もう帰って来ないくせに・・・」


 祥子は私に抱き付いて泣いた。


 「このままきくりんとお店をやりたいよ」


 私は祥子を強く抱きしめた。


 「ありがとう、祥子」


 

 それからしばらくの間、店は閉店したままになった。




 「お店、辞めちゃったのかな? マスターとショコタン、どうしちゃったのかしら?」

 「あんなに繁盛していたのに、残念ね?」


 常連たちは店の前を通る度、溜息を吐いた。





 そして3か月が過ぎた頃、再び店はOPENしていた。

 山下課長が店のドアを開けると、そこにはボウタイにカフェコートを着た祥子が笑顔で出迎えてくれた。


 「山下課長、純喫茶、『陽はまた昇る』へようこそ!」

 「店の名前、変えたのか?」



 店内には以前と変わらず、珈琲のいい香りが漂っていた。



 「あれ? マスターは?」

 「旅に出掛けちゃいました。気まぐれな人なので。

 そのうちひょっこり帰って来ると思います。 

 だからその日まで、店名を純喫茶、『陽はまた昇る』に変えて再オープンすることにしました。

 山下さん、ご注文は?」

 「モカ・マタリとクラブサンド」

 「かしこまりました!」



 店にはJulie Londonの『Cry me a River』が流れていた。

 

 カウンターの一番奥の席には、笑っているマスターの写真立てが置かれていた。

 「予約席」のプレートと共に。


                    純喫茶『晴れのち晴れ』完




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【完結】純喫茶『晴れのち晴れ』(作品230809) 菊池昭仁 @landfall0810

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