真理を覗く者

@tiana0405

心の中の大法廷

 貴女は、自らの深層心理をいつも心の奥底から理解しているだろうか。もし、そうならば心から尊敬する。いや、そうに違いない。そういう聡い貴女だからこそ、僕の深層心理の地下深くに眠る真理の扉を開いてしまったと言っても過言ではない。




僕は、深くため息をついて目の前の貴女の瞳を見つめた。瞬きもせずに、ジッと視線が返ってくる。それはそれは、もう真っ直ぐな視線。鼓動が大きくなるのを感じて、思わず先に目をそらした。



この心音を聞かれてはならない。僕たちは「トモダチ」だ。



そう自分に言い聞かせると、その言葉は今までのどの瞬間よりも、僕の胸に、冷たく重くのしかかった。




 そして、意識を手放したと同時に、重々しく軋んだ音を立てて、僕の真理の扉は静かに開いたのだった。




気が付けば、僕は開けっ放しになったカビ臭い扉の前に立っていた。扉の向こうには、真っ暗な中にただ僕を見つめる貴女の瞳だけがひっそりと浮かんでいた。



(ああ、これはどうやら、よほどマズイことになったようだ。)



僕は、貴女の瞳を見つめながら考えた。この場所に水らく滞在していた前任者の瞳はすでになかった。ここは、僕が愛してしまった女性の瞳が僕自身を見つめてくる場所だ。




「代替わりが行われたなんて、そんなの有り得ない…。」




「矛盾してるわね、本当に貴方は‥いつだって。」




 

震えながら絞り出した僕のか細い声を、高いヒールの音と美しく冷たい声が遮る。顔を上げれば、そこには見慣れた僕の心の同居人の姿があった。




「欲しいんでしょ?彼女が。」




ブロンドの髪をなびかせて、青く澄んだ目をしたこの妖精女王は、少し愉快そうに微笑んで扉の中に鎮座する貴女の瞳を指差した。




「違う!!」




思わず大きな声で言い返した僕は、いつの間にか扉の中に一歩踏み出してしまう。同時に、焼けるような痛みを感じた。



(しまった・・・いつもこうだ、この妖精は僕の一枚上手なのだ。)




「かかったわね。」




 妖精はニヤリと笑った。どうやらまた彼女の策にハマってしまったようだ。貴女の瞳が見つめる中、まるでこの妖精を裁判官のようにして、僕の裁判が開延する。





「さあ、いつも通り、本心とは真逆の申し開きをしてちょうだい。」




裁判官の席に、ふんぞり返るように足組みをして着席した妖精。




「お前には血も涙もないのか・・・ツ。」





ひりつくような胸の痛みに耐えながら、僕はこの高慢で強引な裁判官に毒づいた。当然、どこ吹く風の彼女に僕の負け惜しみの言葉は届かない。あきらめた僕は意識をふっと手放した。





「開廷です。静粛に。」




 厳かな木槌の音とともに、こうして僕の魂は、三つに分離させられた。最初の僕は、被告人席に座らされる。そして、深紅のド派手なスーツを着ている血色の良い顔色の、ギラギラした目をした二人目の僕が現れる。僕は、奴が嫌いだ。





「よう、相棒。久しぶりだな。」





それを知ってか知らずか、僕から分離した、僕の「本能」はニタニタといやらしい笑みを浮かべて笑った。僕は奴から顔を背ける。この品のない笑い、底知れぬ欲望を感じさせる精気に呑まれてはいけない。裁判所を静観する貴女の瞳と目が合う。




(そう。そうしたら、「僕たち」は元に戻れなくなる。)




「飽きもせずに、いい子ぶりっこか。だからお前は幸せになれねーんだ。前の女も、お前が、自ら手放したんだよ。少しでも女の意見に耳を傾けたか?いや、俺は見てたぜ。お前は俺を押し殺して、女の意見からも耳を塞いで、姑息に逃げたんだ。自分が傷が浅い内に、捨てられる前に、耳障りの良い言葉で、まるで女を思ってるかのように自分にも女にも言い訳をして!ぜーんぶから逃げようとした!この世からも!女の前からも!ぎゃはははは!そうだろ?」




「本能」は、張り付けたような笑みを浮かべながら、ぐるりと首を一回転させて僕の顔を覗き込む。その邪悪な笑みは、僕の中の悪魔そのものだ。だが、彼の言い分は非常識な物言いと服装に反して、いつも殊の外、僕の心の中の触れられたくない真理を痛いほどつくのだ。




過去の記憶がぐるんぐるんと、僕の中で駆け巡る。耐え切れず、嘔吐した僕の背中に手をまわしながら、赤い男は囁いた。




「なあ、お前はいつ俺を満足させてくれるんだ?お前矛盾してるんだよ。修行僧みたいに陰気臭い余生を送りたいってんなら、話は別だけどよ。」




「本能」は、人差し指を貴女の瞳の方へ突き付けた。





「抱きたいんだろおおお!?この女を!」






 自然と貴女の瞳と目が合った。貴女の澄みきった曇り一つない真っ直ぐな視線に、僕はハッと胸を打たれた。




(そうだ、貴女はいつだって、ひどく純粋な瞳で僕を見つめてくれる。)




 僕が家庭の事情で大学に通うことが危ぶまれた時も、そのせいで僕が自分の夢を否定して見ないふりをした時も、祖父の遺産相続争いに巻き込まれ、血のつながりというものに不信感を抱いて絶望した時も、貴女はいつも真っ先に手を差し伸べて僕のために共に泣いてくれた。




そのぬくもりと優しさに、今までどれ程助けられてきたことか。僕は貴女のために共に泣いてあげられたことが果たしてあっただろうか?僕は、貴女の危機を察して手を差し伸べることができていただろうか?心から、貴女の人生を愛憂いて、共に考えることが出来ていただろうか?



小ずるい僕は、貴女にいつも「トモダチ」の仮面をつけては、愛しているだとか大好きだと謳う。



 貴女は、そんな軽薄な言葉を囁く仮面をつけた僕を一瞬訝しげに見ながらも、仮面越しに僕が隠したつもりになっている犬のようにブンブンと大きく振る尻尾を見透かして、プッと吹き出す。そして、いつも「ありがとう」とだけ短く答える。




今この瞬間まで、僕はその短い返答に常に少しばかりの不満を持っていた。だって、僕はいつの間にか、もうどうしようもなく、貴女に僕を見て欲しかった。僕だけを愛して欲しかった。僕を好きだ、と言って欲しかった。貴女の瞳を見つめたまま、どこか大きく広い海原に身を投げて、二人で一つになって沈んで行きたかった。




いついかなる時も、面白そうな話題を集めては貴女の関心を引きたかったし、貴女に笑って欲しかった。



(そうだ、僕はいつしか貴女を愛していた。)




それを思い知ると同時に、僕は今、気付いてしまう。




貴女の「ありがとう」には、僕の小手先のどんな愛の謳い文句なんかよりも、遥かに深い愛が含まれていた。常日頃から、思慮深く聡明な貴女は、決して口数が多くない。けれども、その実、貴女は何処までも真っ直ぐな瞳で、僕を見つめる。その誠実さに、嘘偽りは一つもなかった。僕が不安や不満を感じるのもおこがましいほどに、僕はすでに、貴女から大いなる愛を受け取っていたのだ。




(僕が思うのと現実はあべこべで、僕が愛を囁いてばかりかと思いきや、果てしなく深い愛を貴女から受け取ってばかりだった。)




その事実に気付いてしまった時、僕の目からはとめどなく涙が溢れた。パソコンのキーボードの上にぽたぽたと落ちた涙は、キーボード板の列に沿ってゆっくりと均一に流れていく。静かに流れていくその液体には、どんな事が起ころうとも、ゆったりと構えて、揺蕩う川のような貴女の優しさがしみ込んでいるように思えて、僕の涙腺をとめどなく刺邀した。




「なあ。」





 視線を感じてハッと振り向くと、笑いもせず、泣きもせず、赤き「本能」がまじまじと僕を見つめていた。





「気づいたんだろう?」






彼は穴が開くほどに僕を見つめながら、子供のように純粋無垢な声で問いかける。






「そうだな...。」





 この時初めて、僕は彼の真意を理解した。僕の「本能」としての彼の存在意義の真理その物、を理解出来たのだ。彼が当初、粗暴に僕を罵ったのも威嚇したのも、それらは僕を傷付けるための行動ではなかった。




ただ、彼は僕に知って欲しかったのだ。自分の抑えきれない本当の気持ちから、目を背けて逃げようとする僕に、自らの存在を伝えたかったのだろう。




それは、静かにコーヒーを飲む貴女に、同じ言葉を返して欲しくて、駄々っ子のように貴女の腕を揺らしては、愛の言葉をせがむ子供のような僕自身に他ならなかった。




「悪かったよ、お前を頭ごなしに否定して。」





僕は、「本能」の頭を撫でながら呟いた。






「分かっているんだ、彼女を愛してしまったことも、彼女に愛されたいことも。」





素直な僕の気持ちを聞いて安心したのか、「本能」は打って変わったように穏やかな表情で微笑むと、僕に手を伸ばした。その手を握ると、彼の姿はすうっと僕に溶け込んでいく。僕たちは、一つになった。僕は、僕自身の心からの「本音」を受け入れた。





「そんなことで良いと思っているのか?」





 刹那、場を切り裂くような冷淡な声が真横から飛ぶ。




(ああ、ついに真打ちの登場か。)



と、僕は心の中で呟いた。




 裁判が始まり、三つに分離してからこの方、ずっと沈黙を守ってきた、生気のない表情で白いスーツを着た眼鏡の男「理性」が、今まさに眼鏡をクイッと上げながら、戦闘態勢に入っていたところだった。




もちろん、僕はこの男も嫌いだ。彼が度々跋扈してきたことによって、僕は多くの「本能」を頭ごなしに押さえつけてきた。それは無論、「理性」だけのせいではない。



僕自身が大変臆病で、どんな事においても、傷付く事を極端に恐れるような卑怯者、だからだ。



「本能」との分離と融合を経て、自身の心のもろさを白日の下にさらされた僕には、それが手に取るように分かっていた。



しかし、そんな僕の自戒の気持ちを知ってか知らずか、「理性」の追撃は止まない。



「ある日、前回の恋愛で疲れ果てた君は、このような誓約を、自らに課したはずだ。」




白い男は、綺麗に折りたたまれた羊皮紙をこれ見よがしに僕の目の前に広げる。僕は、その内容を確認して大きく頷く。




「そうだ、僕は確かに、もう一人になりたくないから、絶対に女友達とだけは、付き合わないと誓った。友達も恋人も両方を瞬時に失うなんて、もう耐えられそうにない程、自分の心が疲れ切っていたからだ。」




「そうだ、まあその君のくだらない、せせこましい見るに堪えない自己愛は別として、もっと大切な誓約があるだろう?」




「理性」は、感情の見えない目で僕をジッと見つめる。僕は胸が苦しくなる。その真理とも、僕は向き合わなければならない。息が苦しくなるのを深呼吸で落ち着かせながら、僕はゆっくりと答えた。





「その通りだ。友として、人として、愛している自覚が少しでもあるならば、自分の相手への愛の欲求を切り捨ててでも、それがいかに苦しくとも、僕は相手の立場になって心から相手の将来の幸せを、僕なりに考えて行動しなければならない。それこそが、ちんけな愛しか相手に送れない、器の小さな僕に唯一出来る、せめてもの相手の愛への恩返しだ。」




「理性」は、心臓を抑えながらやっとのことで答えた僕に静かに問いた。




「そうだ。それに、お前に何ができるというのだ。お前にどれ程の価値があると思う?」




 僕の心臓の鼓動はその言葉を聞いて更に加速した。




「ああ、本当に君の言う通りだよ。」





僕は涙をぬぐいながら「理性」に語る。




「僕の心と体は、まるで君たちのように、常に矛盾してせめぎあった状態になっている。幼い頃、心を体に合わせてみようと努力した結果、僕は心を壊した。そして今は、体を心に合わせてみようと努力して、この始末だ。徐々に僕の体は、意図的な薬の投与によって蝕まれていくだろう。


だが、それ以外に僕に生きるすべはない。そんなちぐはぐ過ぎる僕が、この統一化された世間一般的箱庭世界を生きるのは、非常に過酷なことだ。



ただでさえ過酷なこの運命に、心から愛する人を巻き込むべきではない。その上、金も権力もない、弱い醜い姿の僕に価値などない。それは、僕が一番理解している。



それなのに、僕は心の奥底で、人生の伴侶を求め続ける。自制心から伴侶を遠ざけながら、伴侶を求める。その矛盾こそが、僕の弱さだ。」




「理性」は何も答えなかった。いつも冷酷で無表情な彼にしては、それはどこか哀しげな表情に見えた。嗚咽しながらも、僕はぼんやりと悟った。そう、彼こそが僕の心を頑なに守ろうとする盾、騎士なのだ。彼の希望は、もしかしたら別にあるかもしれないが、彼の冷淡な言葉は、単に意地悪で、僕を傷付けるための物ではない。



彼はただ単に、警告しているのだ。僕が「本能」のままに動けば、また心が修復不可能になる程に、ボロボロに傷付いてしまうかもしれない可能性を。




そして、「本能」のままに、気持ちを相手に押し付けるのではなく、相手をまるで、自分を守るかのように、大切に思う高潔さを忘れないで欲しいだけなのかもしれない。




 それこそが、白き「理性」の真意であり、彼の存在意義の真理であった。僕は、「理性」の方に手を伸ばそうとする。だが、白い男は、大きく首を横に振って僕の差し伸べた手を拒ん

だ。




「まだ私を納得させるには足りない。」




「理性」は、几帳面そうに眼鏡を眼鏡拭きでキュッキュッと拭きながら、目線もやらず、ある一点を指差した。




「もう一つ大事なことは、お前の愛する人が教えてくれる。」




 僕は、貴女の瞳を見つめた。貴女は僕の瞳をゆっくりと見つめ返した。彼女は、ただ一言、こう言った。




「あなたは、どうしたい?」





 僕はその言葉を聞いて、心から呆気に取られた。その羽のように軽やかで、優しく慈愛に満ちた言葉は、自分との誓約書にがんじがらめに縛られた僕には、余りにも自由に感じられた。





 一種の革命かのように、鮮烈な印象で、耳にこだまする。僕は、貴女を愛してしまったかもしれない、と初めて気付いた瞬間から、ずっと苦しかった。この想いは許されないと感じたからだ。




心臓には、まるで自分自身を虐待するかのような鈍痛が瞬時に広がった。その痛みはしばらく続き、僕の心を刻一刻と弱らせた。貴女を愛していない可能性を、草の根を分けてでも探そうとする一方で、僕の心は度々貴女に適度に高鳴った。その気持ちは、まさに「理性」と「本能」が僕の目の前で演じたこの矛盾の演目そのものだ。




「自分と他人、両方を想おうとすることもまた然り、ある種の矛盾なのだ。しかし、その矛盾と向き合うからこそ、お前の心は成長し、私達もまた、お前の新たな学びによって昇華されていくのだ。それを忘れないでくれ。」




 気付けば、いつの間にか「理性」は僕と溶け合って薄くなっていた。その言葉に頷いた僕を最後振り返り、彼は初めて優しく微笑んだ。神経質そうな彼にはおよそ似つかわしくない、柔和な笑顔だった。





取り残された僕は、ふとまた貴女の瞳を見つめた。貴女は、相も変わらず、悠々と瞬きを繰り返している。



「人の気も知らないで・・僕のことなんか、かけらも意識すらしてない癖に!」




僕は若干の腹立たしさを覚えて、「本能」のままに貴女を詰る。その後、「理性」を思い起こし少し考えて呟いた。




「うん、でもここは僕の真理の扉の中の世界だ。君には君の心の中に、君しか知らない真理の世界があるもんね。ここで君を詰るのは筋違いだった、ごめんなさい。」




貴女の瞳は何も言わない。頷くように数度瞬いただけだった。




「静粛に!」




忘れ去っていた裁判官の木槌の音に、僕は、びくりと体を震わせる。振り向けば、一部始終を無言で見守っていたはずの件の妖精が、僕の顔を見て優しく微笑んでいた。




「成長したじゃない。今日の判決は無罪放免、てとこね。」




彼女はあくびをしながら、閉廷を宣言した。




 その瞬間、視界がぐにゃりと曲がる。しばらく呆然としていた僕は、はたと目の前のパソコンに釘付けになる。どうやら、いつの間にか現実に立ち返っていたようだ。



(‥夢でも見ていたのだろうか‥?)



 首をかしげながら、キーボードに目を落とす。そこには、紛れもなく、僕が流した涙の跡だけがかすかに残っていた。

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