第5話
御者さんは馬に指示を出し、馬車は右の道へと進み始めました。何事もなく過ぎればいいのですが。
しかし、わたくしはとても嫌な予感がしました。カカシの感なんて、宛てにしないほうが良いとは思いますが。ないはずの心臓が、ずっとドクドクと鳴っているのです。
すると、どこからともなく、オオカミの遠吠えが聞こえてきました。
「きゃあっ」
お嬢様は悲鳴をあげて、顔をお母様の肩に埋めました。
どうやら、本当に近くにオオカミがいるようです。
「大丈夫よ、フレデリカ」
そう落ち着かせる奥様も、手は震えていました。
「これは……まずいぞ……」
小窓から後ろを見ていた旦那様が、そう言いました。
「後ろからオオカミが追いかけてきている……それも一匹じゃない。何匹もだ……」
旦那様は慌てて前にいる御者さんに声をかけます。
「もっとスピードをあげるんだ! 後ろからオオカミが来ている!」
「わ、分かりました!」
御者さんは鞭を打ち、スピードをあげます。しかし、足はオオカミの方が断然早く、このままでは追いつかれてしまいます。
「怖いよぉ、オオカミに食べられちゃうなんて嫌だよぉ」
お嬢様は泣き出しました。怖いですよね。こんなに暗い森の中で、オオカミに追いかけられるなんて。大人でも、カカシでも怖いです。
だけど、安心してください。わたくしなら、なんとかできるかもしれません。
わたくしはお嬢様の肩をトントンと叩きました。お嬢様はゆっくりと顔を上げます。目には涙が浮かんでいます。
わたくしは安心させるように、彼女の頭を優しく撫でました。そして、お嬢様の瞳をじっと見つめました。
ああ、神様。わたくしに動く体をくださるのなら、ついでに声もくださればよかったのに。そうすれば、お嬢様を安心させる言葉をかけてあげられました。
ですが、そんな高望みをしている暇なんてありませんね。きっとお嬢様なら、わたくしが言葉にしなくとも分かってくれるでしょう。わたくしがやろうとしていることを。
だってわたくしは、貴女に作られたのですから。
「カカシ……もしかして……」
お嬢様はわたくしの瞳を見て悟ったようです。わたくしは頷きました。そして、お嬢様の額にキスをしました。もしかしたら、ここでもうお別れかもしれませんから。
わたくしは馬車を飛び降りました。
「カカシ!」
そんなお嬢様の声が聞こえてきました。名残惜しいですが、お嬢様を、皆様をお守りするためです。
外には五、六匹のオオカミがいました。わたくしは彼らを引きつけ、馬車とは違う方向に逃げていきます。わたくしが人間のような見た目をしていてよかったです。我ながら良い身代わり。一本足で、全速力で駆けていきます。
馬車はもう随分遠くです。このままオオカミに出会わず森を抜けられることを願っています。
やがてわたくしはオオカミに追いつかれ、足を噛みつかれました。バランスを崩し、その場に倒れます。多数のオオカミです。わたくしは抵抗できる間もなく喰われていきます。
あくまでわたくしはカカシ。決して人間にはなれない、ただの身代わり。
わたくしの体は、鋭利な牙によってどんどん砕かれていきます。でも、全く痛くはありません。平気です。
わたくしが動けるようになったのは、きっとこの時のためだったのかもしれません。フレデリカお嬢様、シュバルツ家の方々が無事であるのならば、それは本望です。畑よりも大事なものを、わたくしは守れた気がします。
しばらくすると、オオカミたちはわたくしが人間ではないことに気付いて、どこかへ去って行きました。とりあえずの時間稼ぎはできたはずです。
やがて、夜が明けました。
皆様は逃げきることができたでしょうか? フレデリカお嬢様はご無事でしょうか? 叔父様には会えたでしょうか?
わたくしの意識はどんどん薄れていきます。無残にも藁はむしり取られ、枝は噛み砕かれ、体はもう原型をとどめていません。
せっかくお嬢様が作ってくださったわたくしの大事な体が……
ですが、お嬢様の命と引き換えなら、こんなのたいしたことはありません。わたくしは妙に誇らしい気分でした。
唯一の心残りと言えば、お嬢様に便箋いっぱいの手紙を書けなかったことですかね。
それから何日かが経過しました。わたくしは薄らとした意識の中で、見覚えのある馬車を見つけました。
あれは、シュバルツ家のものです。馬車はわたくしの近くで止まり、中からフレデリカお嬢様が降りてきました。
ああ、ご無事だったのですね。あなたの顔をもう一度見ることができるなんて、思ってもみませんでした。なんという幸せでしょう。
お嬢様はわたくしを見つけると、その場に座り込みました。そんなことをしては、スカートが土で汚れてしまいますよ。
彼女はわたくしの頭であった部分をそっと抱きかかえました。温かい人間のぬくもりを感じました。
わたくしが最期に見たのは、愛しいフレデリカお嬢様の、寂しげな表情でした。
カカシのはなし 秋月未希 @aki_kiki
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