カノトン
水奈川葵
カノトン
カノトンの話は祖母から聞いたものです。
祖母は明治生まれの女で、六人きょうだいの末っ子だったのですが、江戸時代には
そんな祖母が五歳の頃、一人の娘がやって来ました。カノと呼ばれていたその娘の
カノは来たときから、痩せっぽちの醜い子供であったと言います。ボソボソと話す声も小さく、いつも小さく小さく縮こまっていました。おそらく
カノは小さくて臆病であったので、いくら虐められても、文句も言わずに黙って泣いているだけでした。いったいどういう気分で祖母の母でも兄でも姉でも、彼女を虐めるのかわからないので、いつもビクビクとしていました。そういう惨めな姿が、なお一層、虐める側からすれば苛立たしくもあり、面白くもあったのでしょう。
さてその頃、祖母の家の
ある日のこと、兄の一人がこの釣瓶を使って、おかしな遊びをし始めたのです。それはそこらで捕まえた猫やら犬やら、たまに
そのときに周りで
「トン、トン、トン、トン、イヌ、トーン、トン」
なんて言っては釣瓶を引き上げたり、下げたりして、動物が騒いで縄が
こんな遊びを考えた先に、カノが
「トン、トン、トン、トン、カノ、トーン、トン」
カノが吊り下げられるようになってから、きっと屋敷周りの
祖母も井戸周りで兄らの「トン、トン」に合わせて
そういうことが三回、五回と続くと、やがて兄らも飽きてきたようです。とうとうカノを吊り下げたまま放っておくようになったので、祖母は
それから二度ほど、祖母は吊るされたまま忘れ去られたカノを、下男に頼んで引き上げてもらったと言います。やがて兄姉らも成長して、そんなくだらぬ遊びをする年齢でもなくなって、しばらくカノは吊られることもなくなりました。
それが二年ほどした頃に、カノはまた再び井戸に吊られました。今度は祖母の母が吊ったのです。理由はよくわかりません。ただ、その当時に聞きかじった
祖母の母にしてみれば、妾の子が自分の息子にまで色目を使ったと、
兄も姉も久しぶりの『カノトン』が楽しかったようです。母まで一緒になって「トン、トン、トン、トン、カノ、トーン、トン」と手拍子を打って、囃し立てました。
そのときの彼らの顔といったら……。
祖母は子供ながらに、いずれこの母や兄姉らが神仏の怒りに触れるであろうと、空恐ろしくなったと言います。
やがて雨が降り始めると、母らはさっさと
放って置かれたカノを引き上げるようにと、祖母はまた下男に頼んだのですが、下男は首を振りました。どうやら母がそのままにしておくよう、命令したようなのです。
やがて激しくなる
さて私がそのカノの話を聞いたのは、そもそも祖母が私に毬つきを教えていたときに「カノ、トーン、トン」という毬つき唄を歌うのを聞いて、その由来を尋ねたものでしたが、そこで話されたのが、このむごたらしい話であったわけです。
私は幼心にも
すると祖母
中でもカノの死 ―― その死が確定はできないとしても ―― その死に最も直接的な原因を作った祖母の母の末路は、哀れなものでした。
彼女は祖母以外の子供たちよりも長生きしたのですが、犬の
そんな過去の話を今更ながらに思い出すのは、私が今、祖母が死んだと聞いて、久しぶりにその家に向かっていたからでしょう。
私の両親は既に
屋敷に
なんだか私の記憶の中の祖母の顔と違う気がしたのです。こんな顔だったのか? と思うのですが、喪主の伯父を始めとして皆、粛々と葬儀の準備をしているところを見ると、棺桶に眠っているのは祖母に違いありません。
その後に葬式が始まり、坊主の長ったらしい念仏を聞きながら眠りそうになりつつ、
祖母の幼い時分には裕福であった家も、今は維持するのも大変であるようです。従兄弟らが、いっそ県に売ってはどうかなどと話し合ったりしておりました。
この家は祖母が亡くなる前には、ほぼ祖母一人で暮らしていたので、実際に使用していたのは東の離れだけでした。
部屋の中には、祖母の形見らしい
白黒やセピアの写真の中には、おそらく例の
ただ一つ、使用人らしき女中たちを写した写真の隅っこに、それこそ鉛筆のように細い子供が立っていて、上目遣いにこちらを見つめて写っており、私はすぐにそれがカノだと気付きました。
気付いた途端に、とても奇妙に感じました。
さっき棺桶に眠っている祖母に対しては、まるで見知らぬ人のように思えたのに、その写真の女の子を見て、私はひどく懐かしい気持ちになったからです。
不思議なこともあるものだと、アルバムを置いて部屋から庭を眺めると、奇怪に折れ曲がったムクノキに隠れるようにして、何か小さな建造物らしきものが見えます。形状と大きさ、その場所からして、私がそれを井戸だと思ったとしても無理ないでしょう。
近付くにつれ、それが井戸であったのは間違いないとわかりました。ただ、おそらく危険であると伯父が判断したのでしょう。井戸はコンクリートでしっかりと固められて、中を見ることはできなくなっていました。釣瓶などは当然取り払われていました。
ちょっと残念な気分になりましたが、まぁ見たところでカノを今更助けられるわけでもありません。
―――― トン、トン、トン、トン。カノ、トーン、トン
―――― 一緒に遊ぼ。カノ、トーントン……
【終】
カノトン 水奈川葵 @AoiMinakawa729
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます