哀しみの余韻

西しまこ

光の歌

 いつも音楽があった。


 ♪ララ あなたが隣にいて ラララ いつも笑っていたね

 鼻歌を歌いながら、朝食の準備をする。朝はトースト。みんなの好きなジャムの瓶を並べる。光が射しこんで、なんとも気持ちのいい朝だった。


 ――突然、鼻歌が過去の恋人を連れてきた。


 そうだ。あの人と一緒にいたとき、よくこの歌を流していた。

「これ、好きなの」

「うん、いいね」

「この曲を聞くと、きっとあなたを思い出すわ。何年経っても」


 どうしようもなく好きだった、あの人。あんなに焦がれた人はいない。朝も昼も夜も、一緒にいたかった。体温を感じて、まるで一つの魂のように溶け合っていたかった。二十四時間ずっと。音楽と温もりと風の音と息遣いと、甘い囁きと汗と涙とすべすべとした肌触りと、くすくすという笑いと耳元に落ちる声と抱き締めるその腕の強さと。


 ♪ララ ずっとこんなふうに ラララ いっしょだと思ってた

 それは、別れの曲だった。わたしたちの未来を暗示するように。

 ララとうたうと、いつも微かな哀しみが日常生活に滲んだ。

 微かな哀しみになるまで、長い時間が必要だった。季節がいくつも廻った。そして、ララとうたっても、あの人をすぐに思い出さなくなるまで、さらにいくつもの季節が過ぎ去った。


 今日はララとうたったら、あの人を思い出した。

 哀しみの余韻だ。

 その哀しみの余韻は、あたたかく、誰よりも好きだったという愛しさと懐かしいような切なさとともに、今の生活をほんの少し色づける。

 それだけ。


 もうすぐ、足音が聞こえて、「おはよう!」という声がするだろう。わたしは「おはよう、ごはん、出来てるわよ」といつものように答えて、淹れたてのコーヒーをカップに注ぐ。「ありがとう」と夫が言う。今日の予定なんかを話したりする。

 それから、小さなあの子を起こしに行く。歌をうたいながら。階段を上って、そっと扉を開けて「おはよう、朝だよ。起きて」と言う。優しい声で。あの子はきっと、いつも通り布団をはいで寝ている。なかなか起きないあの子の身体をそっと揺する。その、温もり。


 いつも音楽があった。いまも、音楽がある。

 音楽は記憶と紐づいて、生活に彩りをつける。


 足音が聞こえた。

 朝ごはんを食べましょう。新しい一日のはじまり。

 哀しみの余韻は遠ざかり、わたしは記憶の淵からいまに戻る。


 足音がして夫の声がして、窓の外から鳥の鳴き声が聞こえた。明るい朝の歌。コーヒーの落ちる音コップを出す音、時計が時間を刻む音。光の歌が聞こえるようだ。


 おはよう! 朝だよ。光に満ちた一日が始まるよ。

 ♪ララ ラララ 大好きなみんな 

 ♪ララ ラララ 今日もよろしくね




      了

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哀しみの余韻 西しまこ @nishi-shima

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