千尋のベビーサークル

 今日は少し足を伸ばして、水族館に来た。

 どういうわけか世界から人が消えても電気や水道は生きていて、どこからともなく供給され続けている。だから水族館も、英司みたいに誰かが残っていたらお魚たちも生きている可能性があるんじゃないかと思ったのだ。

 今日の猫ちゃんは、天使の羽がついたハーネスだ。黒い毛並みに白い翼が映えて、とても可愛い。カピバラさんはベビーカーに乗っている。

 毛並みがお父さんそっくりですねって言ったら、英司は笑っていた。


「世界は相変わらず八月五日だね」

「ラジオが壊れてるのかと思ったけど、違うみたいだな」


 ラジオからは今日も八月五日の朝の出来事が流れた。

 世界が終わった日の、特に終末を告げるでもない、日常のニュースが。

 この世界は八月五日に設定された箱庭で、何処かに管理者がいて、残された人類がどう生きるか、どう滅ぶかを眺めているのかも知れない。

 だって一晩で世界が終わるにしても、死体で溢れるんじゃなく消失だったから。

 消えた命たちは何処に行ったのか、じゃなく。わたしたちが地球に良く似た箱庭に閉じ込められたと思うほうが、何だかしっくりくる。


「まあ、なんにしてもだよ。俺たち以外にも誰かいるかも知れんよね」

「それはまあ……」


 わたしは最初、世界にわたしと猫ちゃんだけだと思っていた。英司も同じだった。それが偶然出会って、いまは何となく近くで暮らしている。同居はしてない。


「……あれ? なんか音がしない?」


 英司が入り口前で足を止めた。

 真似して立ち止まり、耳を澄ませてみる。


 ――――ピッ!


 微かだけど、笛の音がした気がする。

 顔を見合わせて、わたしたちはチケット売り場を通り抜けた。受付に人はいない。傍の発券機は、いつ来るとも知れない来客を待っている。ごめんね。あとでね。


 ――――ピピッ!


 もう一度音がした。

 今度は気のせいなんかじゃない。

 イルカショーのプールがあるほうへ二人と二匹で駆けていくと、ウェットスーツを着た女の人が、大きなプールに向かって手を上げているのが見えた。そしてまた笛の音がして、水中からシャチが飛び出した。


「わ……!」


 空中で綺麗な弧を描いて、頭から着水する。水しぶきが客席を濡らして、きっと、世界が生きていたときは大きな歓声に包まれたんだろうと思わせた。


「え……!?」


 不意に、ウェットスーツの女の人がこっちを向いて驚愕の声を上げた。かと思えばその場に膝をついて、座り込んでしまった。口元を手で覆って、泣いているようにも見える。


「ちょっと行ってくる」

「ん」


 英司はわたしにカピバラさんを預けて、女の人の元へ駆けていった。

 傍にしゃがんで宥めたり話を聞いたり、さすがのコミュ力。客席とプールサイドは言うほど離れてないから、二人の話す声はわたしにも聞こえてくる。

 指示が来なくなったからか、シャチもプールから顔を覗かせている。可愛い。

 様子を見ていたら英司が手招きしたので、わたしも猫ちゃんとカピバラさんと共に二人と合流した。


「すみません……私以外に人がいるとは思わなくて……」

「俺らも似たような状況なんでわかります。驚きますよね」


 敬語なんて使えたんだ。と思って見ていると、英司がわたしを見て笑った。


「夜々ちゃん、俺のこと何だと思ってんの」

「顔に出てた?」

「バッチリ」


 わたしと英司がじゃれていると、女の人はクスッと笑って立ち上がった。

 良かった、落ち着いてくれたみたいで。


「私は当館で調教師をしております、紅子と申します」

「俺はちょい先の動物園で飼育員やってた英司。こっちは夜々ちゃん」

「初めまして」


 紅子さんが「此方こそ」とお辞儀をすると、シャチが『きゅい』と何とも言えない音で鳴いた。


「ふふ。あなたも紹介しないとね。この子はうちで唯一残っていたミルクです。こう見えてまだ赤ちゃんなんですよ」

「この子もなんですね。うちの子たちもなんですよ」


 英司が、猫ちゃんとカピバラさんを指して言う。


「それじゃあ此処には赤ちゃんばかり集まっているんですね」


 紅子さんが、おかしそうに笑ってミルクちゃんの鼻先を撫でた。


「私の名前、紅子の紅って『あか』とも読めるじゃないですか。だから同僚からは、時々あかちゃんって呼ばれてたんです。勿論嫌がらせとかじゃないですよ?」


 懐かしそうに目を細めて。

 唐突に消えてしまった同僚を思う紅子さんの心境は、わたしにはわからない。

 わたしはずっと一人だったから、誰かと過ごす時間の暖かさを知らなかった。

 それを教えてくれた猫ちゃんを見下ろすと、可愛いまん丸おめめでミルクちゃんを見ていた。



「いまこの世界は、デカいベビーサークルってわけか」


 英司が肩を竦める。

 わたしと英司は、水族館から離れられないという紅子さんと別れて帰路についた。水族館を離れられないということは、逆に考えれば水族館へ行けばいつでも会えるということでもあるわけだから。

 水族館には、ミルクちゃんの他にも魚やクラゲの赤ちゃんだけが残されていた。


「お世話してくれる人がいないし、千尋の谷みたいなベビーサークルだよね」

「いんじゃね。少なくともカピバラさんや猫ちゃんには俺らがいるわけだし」


 それはそう。

 いつもの交差点で別れて、それぞれの家に戻った。

 わたしの住処はわたしが元々住んでいた部屋だけど、英司はカピバラさんのために新しい住処を探したらしい。何でも、大きなお風呂のある一軒家だとか。

 わたしも別に、独身寮に居続ける理由はないわけで。


「そのうち、空き家でも探そうか」


 猫ちゃんは答えない。

 新たな出会いがあっても、今日も変わらず八月五日の朝だった。


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しゅうまつふたりたび 宵宮祀花 @ambrosiaxxx

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