第3話 見果てぬ夜明け

 その剣は、驚くほど優雅であり、繊細。そして、見たことのない速さと力強さで振るわれた。


 ――ああ。


 その洗練された動きに、「わしとは剣の技量が比べものにならん」と那須信吾なすしんごは思った。高知城下でもこれほどの使い手は、我らが盟主、武市半平太たけちはんぺいたと脱藩した坂本龍馬さかもとりょうまを数えるのみだ。


 板野新二郎いたのしんじろうは、刀を抜き合わせた参政、吉田東洋よしだとうようを圧倒していた。吉田は筋骨逞しく、剣の心得も十分にある男だったが、細身の板野新二郎に翻弄されていた。


 凄まじい速度と力で繰り出される一撃一撃を避けるのが精一杯。息もつかせぬ攻めは、わずかな隙もなく、背中を見せて逃げ出すことはできそうにない。


「お、岡田!」


 堪らず吉田が助けを呼ぶ――が、すでに太刀を失った岡田以蔵おかだいぞうは、けもののような唸り声を発しつつ腰の小太刀を抜き放ち、那須たちが食い止める間もなく、吉田と斬り結ぶ板野新二郎に殺到していた。


 またたくまの出来事だった。ふたりがかりで斬りつけられると板野に分が悪い、那須も岡田を追おうとした。しかし、板野新二郎は俊敏に動く岡田の剣を、巌のような力強さで受け止めると、まさにふたりを相手に戦いはじめた。二人がかりでも板野はまったく動揺するところがない。その姿は、刀を手に二頭の獣のあいだを舞うかのように優雅で、その早技に那須たちのつけいる隙は寸毫も見られなかった。


 板野は吉田と岡田の攻撃を耐え続けた。そればかりか時には圧倒しかけることすらあった。その危うい均衡が、それでも次の瞬間に破れた。板野が執拗に斬り掛かる岡田の方へわずかな時間注意を逸らしたのだ。吉田がそこを突けば板野に剣が届く、そんな小さな隙だ。吉田は斬りかかるべきだった。


 しかし、吉田東洋はこれを逃げだす好機と捉えた。土佐藩参政である自分が郷士ごときの内輪揉めに巻き込まれるなどあってはならんことだと。ましてや、死ぬかもしれぬなどとは。


 ――馬鹿馬鹿しい。


 ここは逃げよう。土佐勤王党の始末は後日つければ良い。この日の襲撃で藩政に対する勤王党の叛意は明らかだ。藩公もお怒りになられるだろう。これで目障りな武市半平太を政治の表舞台から排除できる。これは好機だ。ここを抜け出せさえすれば――。


 吉田東洋は、板野と斬り結んでいる岡田以蔵に背を向けた。そして、もと来た方角へ、こことはまた別の暗闇へ向けて駆け出そうとした。その刹那。


「東洋、卑怯!」


 岡田の小太刀を激しく跳ね上げた板野新二郎が、身体をひるがえすと低く大きく踏み込んで刀を水平に薙ぎ払った。吉田の背をその切先が切り裂いた。もんどりうって倒れ込む吉田を目の端に捉えながら、振り返ると板野はふたたび岡田と斬り結んだ。一瞬の早技だった。


 しかも、わざとだ。板野新二郎は、あえて吉田東洋が逃げだす隙を作ってみせたに違いない。確実に標的を仕留めるための。空恐ろしい剣技の深み。とても那須たち三名の及ぶところではなかった。


「那須君、とどめを――」


 安岡、大石のふたりが飛びかかって抑え込み、那須が暴れる吉田の首を押さえて制すると、心の臓を貫いて止めを刺した。これこそ参政吉田東洋から土佐勤王党へ土佐藩の実権が交代した瞬間だった。


 やがて、ふたたび雨が降りだして、通りから争闘の痕跡を洗い流していく。三名の暗殺者が吉田東洋の首を打って立ち上がったときには、岡田以蔵も板野新二郎もその姿を消していた。まるで最初からそんな男たちは居なかったかのようだった。



 吉田東洋の首を城下に晒した後、那須信吾は土佐を脱藩。尊攘の志士を頼って京都に潜伏した。翌文久三年八月には、天皇による攘夷親征のさきがけとして大和国へ入る天誅組に参加。しかし、時を同じくして京都で政変が勃発し、上方から攘夷勢力が一掃されると天誅組は大和国で孤立した。幕府軍の攻撃を受けて天誅組は各地で敗北、那須信吾も維新の夜明けを見ることなく、敵の銃弾に倒れた。


 ――那須君、しっかりしろ。


享年三十三。明治二十四年には従四位が追贈されている。生前、吉田東洋暗殺の真相を語ることは遂になかったと伝わる。


(了)

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青海剣客伝 ―土佐勤王党異聞― 藤光 @gigan_280614

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