第2話 満たされざる者

 まずいやり方になってしまったと那須信吾なすしんごは走り出しながら考えていた。こちらのほうから姿をさらすことはないのだ。闇にじっとして吉田東洋よしだとうようが近づいてくるところを不意打ちすれば、相手からこちらは見えないのだから。それを気がはやったのか大石団蔵おおいしだんぞうが練塀の下を飛び出してしまい、那須もこれに続かざるを得なくなった。だが……。


 ――それでも、こちらには三人いる。


 数に頼んで慢心があったとは思わない。だが、そうした心の余裕はすぐに打ち砕かれた。


 刀を手に揺れる手提提灯へ突進していった大石がつぎの瞬間、大きな声を上げて仰け反ったのだ。淡い月光に赤黒く血に濡れた大石の顔が浮かび上がる。斬られた?


「大石!」

「へ、平気じゃ」


 出血はあるが傷は浅いようだ。しかし、敵はすでに暗殺者たちに気づいて待ち構えていた。いったいどうして? 


 提灯の明かりがふっと消えた。ろうそくの火を吹き消す瞬間照らし出された男の顔を見て、那須をはじめとした三名は愕然とした。


「い、以蔵じゃ!」

岡田以蔵おかだいぞうか」


 驚くのも無理はなかった。岡田以蔵は那須たちと同じ土佐勤王党の党員だったからだ。加えて、岡田はのちに「人斬り以蔵」の異名を取るほどの剣の達人でもある。吉田東洋がその剣を腕を見込んで護衛に選んだとみて間違いなかった。それにしても――


「参政さまに刃向かうものは信吾さんでも容赦せんぞ」

「ばか!」


 ばかやろう! できるなら殴りつけてやりたかった。そいつは敵だと。戦わせては狂犬のような強さをみせる岡田だったが、知恵が足りないことは、どうしようもない。勤王党にとって、だれが味方でだれが敵なのか、手を引いて教えてやらねば、一人では測りかねるところがある。


「岡田。話はよせ」


 小柄な岡田の向こうから眼光鋭くこちらを見据える男がいた。土佐藩参政吉田東洋である。すでに抜刀している。そして、「彼奴等きやつらこそ天子様の叡慮えいりょにまつろわぬ狼藉者よ。問答無用だ斬ってしまえ」と冷たく言い放った。とたんにで弾かれたように岡田が那須たちに襲いかかってきた――。


 岡田以蔵は、那須信吾と同じく土佐郷士である。その家は那須や大石より更に貧しく、土佐藩のなかでは町人、百姓を含めて最下層といっていい。百姓のように田畑を持っているわけでなく、職人のように生業を持っているわけでもない。


 貧すれば鈍す。働こうにも働く場所がなく、昼間から酒ばかり飲んでいた岡田の父は、酒の毒が頭に回って死んだ。家は兄が継いだが、幼い岡田はそのみすぼらしい姿から物乞いのようだと笑われた。実際のところ、そのころの岡田は、街の野良犬や野良猫を打ち殺しては、その肉や毛皮を売って家計を支えていたらしい。


 すさまじい生い立ちに発する岡田の太刀筋には、正統の剣術にはない邪気がまとわりついている。「反吐へどが出るわい」。犬や猫をなぶり殺して愉しむ類いのよこしまさは、岡田の剣をつよくしたものの、同志たちからはうとまれ、さげすまれいた。


 いま、そう嘲笑っていた岡田の剣が自分たちに向けられている。狡猾で陰湿で非道なその太刀筋は那須信吾たち三名を翻弄して離さない。大石と安岡は剣に疎く、使い手の岡田と相対しては歯が立たない。三人がかりどころか、傷を負ったふたりを背中にかばうような格好で那須が襲いかかる岡田と斬り結んだが、技量の違いは歴然、たちまち押し込まれた。


 縦横無尽に閃く岡田の刃を躱し、受け止めるだけで精一杯。たちまち那須の腕や脚を、岡田の切先がかすめて幾つもの刀傷をつくってゆく。このまま手をこまねいておれば、三名とも膾のように切り刻まれるのは明らかだった。


 ――敵わぬ。


 岡田以蔵は剣の鬼だ。那須は観念した。

 と同時に腹が立った。悲しかった。なぜだ、以蔵。命が惜しいわけではない。なぜわしらが戦わねばならんのか。


 身分の低い郷士は権威に弱い。代々土佐藩の上級武士に迎合し、盲従し、隷属してきた。たが、その旧弊を啓蒙し、世直しを目指し立ち上がったのが土佐勤王党ではなかったのか――。


「なぜ、郷士わしらが戦わねばならんのじゃ、以蔵!」


 那須信吾の大喝に岡田が踏み込みを躊躇したその刹那。突風の如くふたりの間に分け入った男がひとり。一閃、振りかぶった岡田の刀を弾き飛ばす。白刃がきらめきながら暗闇の向こうへ消えた。


「だれじゃ!」


 岡田が吠える。刀を下ろした那須が、道に蹲った安岡が、顔を血で染めた大石がその男を見た。細身で長身、頬のそげた色白の顔に切れ長の目、その声は斬りつけるように鋭かった。


「しっかりしろ、那須君」


 それは那須信吾ら三名に今夜の討手を指示した男。板野新二郎いたのしんじろうに違いなかった。


「間違えるな、岡田君。吉田東洋こそ――我らの敵だ」

「板野どの……?」


 今夜の襲撃計画を立てたとはいえ、板野新二郎は土佐勤王党の盟主、武市半平太たけちはんぺいたの私的な客分である。計画の実行にまで責任をもつ立場にない。なにより、この場にいては将来にわたってその身に危険が及ぶとも限らない。


 ――話は後で。


 目で那須を制すると、混乱している土佐郷士たちをおいて、板野新二郎は雨のあがりの通りを標的のもとへ疾走した。身を低く脇に構えた刀が、月光を照り返して光る様子が美しい残像として那須の目に残った。


「板野新二郎、推参!」


(つづく)


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