青海剣客伝 ―土佐勤王党異聞―
藤光
第1話 二百年の呪縛
文久二年四月八日夜更、土佐藩参政
暗殺を実行したのは
☆
音だけが周囲に満ちている。昼間から降り続く雨は夜になってようやく弱くなってきたが、空を走る雲のあいだから月が顔をみせる様子はまだない。周囲は暗闇で雨が静かに地面を打つ音だけが那須信吾の五感を満たしていた。
――そろそろか。
藩主への進講を終えた吉田東洋が、いつもこの道を通って帰宅することは調べがついている。時刻は四つを過ぎて道をゆく者はない。練塀に背をもたれ掛けさせた那須のすぐそばにいる同志、
藩政改革を進める吉田東洋と勤王党の盟主、武市半平太の確執は抜き差しならぬところまできていた。両者ともに藩内の改革派であったが、藩政の実権を握った吉田が、攘夷決行のためには倒幕もいとわぬ武市の主張を危険視し、武市と土佐勤王党を藩政から排除する動きをみせたことから一気に両者の関係が悪化したのだ。藩主の信任が厚い吉田と反目することで、土佐藩における勤王党の立場は急速に悪くなりつつあった。
――勤王党粛清の先手を打つ。
――参政殺害はやむなし。
勤王党内の議論は沸騰し、党員である下級武士たちは血気に奮い立った。自分たちが粛清される前に吉田を亡きものしなければ、生まれ育ったこの土佐で生きていくことはできないという危機感が募っていた。
同志のひとり、
――わしは必ず戻ってくるき。くれぐれも武市さんのこと頼んだぜよ。
那須たちに盟主である武市半平太を支えて勤王党の暴発を抑えてくれよという伝言だったが、党員たちの焦燥は龍馬の予想を超えて強く、日に夜を継ぐ議論の果て、武市は吉田東洋暗殺を決意したのだった。
――お
冷たい雨の降る中、練塀の陰に身を潜ませた那須の耳に龍馬の声が聞こえてくるようだった。伝言を守れなかったことは面目ないが、龍馬の去った勤王党内の議論は一気に参政殺害へと傾いた。その中心にいたのが勤王党員ではない武市の客分、
江戸遊学から戻った武市が土佐に連れ戻った浪人者で、何かにつけ自信過剰気味の武市がその学識に一目おくほどの切れ者だった。勤王党に龍馬がいたうちは大人しくしていたが、龍馬が脱藩して後はその豊富な知識と冷徹な弁舌で党内の議論を専断し、たちまち武市をして東洋暗殺を決断させてしまった。
――討手は那須信吾君、大岡団蔵君、
武市に代わって江戸言葉で指図する様子も忌々しい。大勢の勤王党員と同様、那須もこの小利口そうな板野のことが大嫌いだった。
――無学な侍じゃて馬鹿にしちゅうがじゃろ。
那須は郷士だ。旧国主長宗我部の家臣団に遡る郷士の家系は、関ヶ原戦の後に土佐を治めるようになった山内家では代々身分が低く、家中では軽んじられてきた。勤王を旗印に幕藩体制の変革を求める土佐勤王党の多数が郷士で構成されているのは、そうした土佐藩山内家の歴史と無関係ではない。黒船来航にはじまる混乱の時代に、江戸開府以来続いてきた土佐郷士の嫉妬と怨念が那須信吾たちを突き動かしている。いま暗殺者として路傍の陰に蹲り、参政殺害の刀を抱いて震えているのも、郷士たちを蝕む二百年の呪縛を希望に変えるという決意の現れといっていい。
もぞりと那須がみじろぎしたそのとき、闇の向こうから濡れた道を駆ける音が近づいてきて、男がひとり練塀の下に飛び込んできた。雨でずぶ濡れになったその男は、討手のひとり安岡嘉助だった。
「吉田が追手門を出た」
「きたか」
「人数は?」
「門の前で
吉田東洋が高知城の表門を出、ひとりきりで帰途についたという知らせだった。様子を見た安岡が駆けてこられる距離である。まもなく吉田はここへやってくるだろう。那須信吾は胸に引きつけた刀の柄を強く握った。
――土佐郷士の意気地、見せちゃるぜよ。
下級藩士である郷士は半士半農、総じて貧しく、まともに剣術を修めた者は少ない。体が大きく腕っぷしも強い那須だが、田舎剣術を修めただけの腕はいまひとつと自覚していた。それに対して藩の重臣である吉田は一刀流の目録を得た剣の達者だという。那須をはじめとした郷士三名の暗殺者は、冷たい雨の中、返り討ちの恐怖に押し潰されないよう自らを鼓舞するのだった。
「きた」
遠く那須たちが潜む通りに向かって、手提提灯がひとつ、ゆらゆらと左右に拍子を取るように揺れながらやってくる。
「まだじゃ、もっと引きつけろ」
いまにも走り出しそうな安岡の肘を左手で抑えた。雨の弱くなった空では、雲間が広がり月が顔をのぞかせそうだ。暗闇こそ
「ばかめ!」
那須信吾の目に笠を投げ放った大石が獣のような唸り声をあげて提灯に突っ込んでゆく姿がありありと見えた。雲を分けて現れた月が
(つづく)
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青海剣客伝 ―土佐勤王党異聞― 藤光 @gigan_280614
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