無縁遺体 下
[4]
「チクショウ! どうしよう!」
夜半。兵庫の鄙にあるボロアパート、その1Kの孤室にて、与那は煩悶した。どうにもならないことをどうにかしようとしても、結句どうにもならねえ。蛍光灯が拡げる莫とした薄灰色の下、金ピースをカマしつつ蒲団のうえに座り込み、憮然のラツで紫煙を燻らせる他、仕様が無い。煙充満、蛍光灯の明かりと混ざっては、安普請の室全体を白
「すべての人に対して善を図りなさい(ロマ書12章17節)」茲でいう善、生きているだけで迷惑な与那が死ぬこと。「手づから働きて善き業をなせ(エペソ書4章28節)」善き業とは、与那が自殺すること。「人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である(ヤコブ4章17節)」与那は死ぬべきであり、そのことをてめえでも自覚して居、然あれば、自殺しないというのは、良心の恣意的な怠慢に他ならず、罪。
とっとと死ね!!! 生きているだけで迷惑なやつ!!! 死ね!!! 死んじまえ!!! てめえには生きる意味も、守るものも、なんにもねえんだろ!!! 死ね!!! 死ね!!! 死ね!!! これ以上、生きて迷惑をかけるな!!! この世に、おまえの居場所は無い!!! 死ね!!! 自殺しろ!!! 「今すぐ、あなたがなすべきことをなせ(ヨハネ福音書13章27節)」死ね!!! 死ね!!! 死ね!!!
留置場に於ける思料の果て、てめえの存在の規矩、生きるに値せぬ余計者の歩みと定めてから、与那の脳裡、自殺念慮が絶えなかった。死ね!!! 死ね!!! 死ね!!! これ以上、社会に迷惑をかけるな。自殺しろ。それは、てめえの義務。死ね!!! 死ね!!! 死ね!!! 「我はわが中、すなわち我が肉のうちに善の宿らぬを知る(ロマ書7章18節)」死ね!!! 死ね!!! 死ね!!! 死んじまえ!!!
今や汚濁中年、気力体力ともに剥落の一途。自己投企のための余力は無い。元来ができの悪い脳みそ、劣化するばかり。輓近、思惟が狂ってきたのが、てめえでも判る。死ね!!! 死ね!!! 死ね!!! 若時も、人生はロクなものじゃなかった。死んじまえ!!!そもそもが万年不平分子気質の与那、已往の十中九、不満足と悲嘆で費消した。して現況は、トースト。もう、小手先の弥縫策ではどうにもならぬ。破綻している。レイムダック。死ね!!! 死ね!!! 死ね!!! いつかてめえを
「チクショウ! どうしよう!」与那は叫んだ。
深更、斯く大声しても、苦情は入らない。このボロアパートに逼塞している住人、与那ひとりで。かつて居た唯一の同荘人、与那の上階に室を取っていた。独り身の老婆。先だって与那が留置場に居た間、縊死した。遺体は暫く発見されず、室に垂れ下がり続けた。する裡に腐敗。首がちぎれた。体液がブチ撒けられ、床に染み込んだ。与那の住む孤室、天井に目を転ずれば、黒い染みができている。死して花は咲かず、染みだけが残った。引き取り手の無い老婆の骸、無縁遺体として
生前は因業な婆さんだった。骨と皮のみの
与那、この老婆を嫌いでなかった。むしろ、親狎の情をふとこった。世俗に溶け込めず、開き直るようにして狷介固陋の殻を閉ざし、口から出るのは呪詛ばかり。同士を見出したかの如き感慨。世のすべてを罵倒する老婆、与那の身の裡に、奇妙な情合いを惹起せしめた。
老婆の矢叫びは信用できた。「お前は死ぬ! 」与那はそこに価値と真実を認めた。誰からも見棄てられた存在が、誰からの応えも期待せず吐いた言葉にだけ、価値と真実は宿る。それは本当のことだ。仮令老婆の台詞が異なったにせよ、同じことで。与那は、本当のことを愛する。本当のことを言わない連中、皆殺しにしたい。与那にとり、老婆は聖愚者に見えた。おお、聖ワシリイ。
てめえの敬愛を示すため、与那はよく、老婆に話しかけた。
「おう。お婆さん。調子どうでい」
「おまえは死ぬ! 」
「ただいま、お婆さん。ボク、仕事やめたくなっちまったぜ」
「おまえは死ぬ!」
「おう。今日はパチンコで勝ったぜ。ほら、お菓子やるよ。食ってくんねえ」
「おまえは死ぬ!」
てな塩梅で。
与那が留置場に入って直ぐのこと、ボロアパート近くに縄張りカマしていた野良猫が、殺された。えらい老猫で、動きも鈍くなって居、ヨタヨタとアパート付近を散歩しては、餌と愛撫を恵えられていた。小学生のガキ連が、該猫を撲殺した。警戒心の欠缺した猫だった。蒼穹の高い、暖かな昼。陽光が優しい。猫、空き地に微睡んでいる。足音がした。猫がゆっくりと瞼を開く。ハナ
夕暮れ、近隣の住民連が、放置された猫の無縁遺体を囲み、嘆息。ひどいことするもんだ。とりあえずどかそう。誰がやるんだ。私はやりたくない。汚いのはごめんだ。掃除も面倒だ。誰かが舌打ちを放った。迷惑な死に方しやがって。
金切り声が響いた。皆が一斉に、そちらを向く。老婆が立っていた。住民連、
吸っていた金ピースが短くなった。灰皿に押しつける。ボヘミアのクリスタル。骨董品店で見つけ、タダ同然の値で購めた。店主曰く、もとは、さる窩主買いの持ち物だったが、そいつは刺殺されたらしい。過日職籍を置いた会社の事務所にも、同じものがあった。喫煙者が大手を振った時分、これがベタな贈答品で。社長はよく、これで部下を殴った。与那も、やられそうになった。やられる前に殴り倒してやった。後刻、手酷い制裁を喰らった。
「因業な婆さんだったが、最期はうまいことやったよ」
生前の老婆を想起、与那は
古バビロニアの神話に、Ekimmuという悪霊が登場する。こいつはすべての霊の裡、一等に悲惨な存在。生前、誰にも構われず、悲惨と孤独の裡に生涯を終え、弔いすらしてもらえず、誰からも忘れ去られ、屍は無縁遺体となり路傍に曝されたまま、腐るのを待つだけ。斯く人間の成れの果て、Ekimmu。該霊は冥界にも居場所を得られず、ただ孤独に地上を彷徨って居、人間を認めれば、怨嗟の叫喚とともに襲いかかる。死してなお、安息を得られないというワケで。与那、てめえと老婆のことを、該悪霊へ投影した。すると逆照射の如く、不意と自らの義務を表象せしめられた。死ね!!! 死ね!!! 死ね!!! そうだ、死ななきゃならねえ。死ね!!! 死ね!!! 死ね!!!
「ボクも、首を縊るかね」独り言ちた。
蒲団近く、青いタオルが目についた。これで吊るか。玄関のドアノブでも使えばいい。与那、若時に色色あり、逡巡の果て、やはりタオルを用いて首を縊った。併し、
不図、未練が出来した。もう一本だけ、金ピースが吸いたい。言い訳つけて延命しているようで、みっともねえ。とあれ、一本だけ。せめてもの情け、てめえでてめえに餞別をくれてやらあ。莨に手を伸ばす。
俯いた与那の頭上、なにかの気配があった。同時、饐えた臭いが鼻を刺す。強烈な存在感。躰が凍りついた。聞覚えのある音が響く。記憶の糸を手繰る。在昔、港湾でVAN出しをしていた。往時、よく耳にした音。そうだ、これは、係留索の軋む音。なに、係留索だと。疑惧。茲は、部屋の裡だぜ。ロープが軋む音なんて。不覚、首を吊った老婆のことを連想。背筋が冷えた。怯える。併し、このままでは埒が明かねえ。鬼が出るか蛇が出るか。ゆっくりと、与那は天井を仰いだ。
ずず黒い裸足が一対、宙に揺れている。
惊叫とともに、与那は飛び退った。透かさず体勢を立て直す。危機に備えろ。臨戦態勢。サウスポーに拳を構える。状況を把握しろ。孤室への闖入者、視界に容れる。愕然。前方、一糸まとわぬ首吊り老婆が、孤室に揺れていた。天井の黒い染みから、絞索が垂れている。胴と足、黄ばんだ皮膚。足趾の爪、垢が溜まって黒い。有刺鉄線が胴にきつく巻きつけられ、皮膚に食い込み、黒濁たる血が滴り落ちる。顔は鬱血して暗紫赤色。額の血管が怒張、張り裂けんばかり。眼窩の極限まで剥かれた眼は、炎のように赤く、黒目には敵意の悪光りを走らせている。首吊り老婆は、与那を睨んでいた。
「おまえを殺す」首吊り老婆が叫んだ。
斯く異象はもとより、過日さんざ耳にした「おまえは死ぬ」という預言者的な叫びが、今では「おまえを殺す」との積極的な殺意表明へと変貌、それが明らかに、てめえへと向けられていることが、与那を惧怕に凍りつかせた。
空気が漏れるような音が響く。首吊り老婆の放屁だ。該音を号令とするかの如く、すかさず、老婆の股座から黄濁した液体と、黒味がかった泥状便が、止め処なく流れ出、それは胴から垂れる血と混じりつつ、首吊り老婆の脚を伝って、その真下に敷かれている与那の蒲団へと、ボタボタ、音を立てて落ちた。
「おまえを殺す」
躰の重みで、老婆の頸が伸長する。頸の皮膚に裂け目が入る。粘調な血が、溢れ出す。裂傷の裡、赤い肉、白色と褐色の脂肪が見える。傷が拡がる。嫌な音がして、頸の皮膚がすべて断ち切れた。勢いよく血が噴き出す。肉の間、頸椎が露出する。卒爾、えらい断裂音が響く。老婆の頸が断ち切れた。胴体が蒲団に落ちる。そのうえに遅れて落下した頭は跳ね上がり、部屋の隅に転がった。血管や肉の切れ端を断面からのぞかせ、いまだ赤黒く変色したままの老婆の頭、さながら蛸だ。
「おまえを殺す」老婆の頭が叫んだ。
蒲団のうえに倒れていた老婆の躰が、蠢動した。
「おまえを殺す」首の無い躰が、ムクリと起き上がる。「おまえを殺す」老婆の頭は叫び続ける。「おまえを殺す」老婆の叫びに呼応するが如く、首無しの躰は諸手を前に突き出し、与那に向かって来た。
ハナ呻きのような悲鳴を洩らし、吃驚した与那であったが、反射的に、老婆の顔面へ向け、右ジャブを放つ。「おまえを殺す」しまった、対手は頭がねえんだった。「おまえを殺す」拳が空を切る。「おまえを殺す」首無しの躰は距離を詰め、与那の喉頸に掴みかかった。「おまえを殺す」そのまま壁に押しつけられる。「おまえを殺す」与那、首無し躰の足を何度も踏みつけるが、一向に怯む気配無し。「おまえを殺す」手を解こうにもビクともしねえ。「おまえを殺す」化け物婆め、万力みてえだ。「おまえを殺す」ババアの胴を殴りつける。「おまえを殺す」効き目無し。「おまえを殺す」万事休すか。「おまえを殺す」視界が霞む。「おまえを殺す」全身から力が抜ける。「おまえを殺す」「おまえを殺す」「おまえを殺す」
<殺サレテタマルカ!!! ボクハ、生キテヤル!!!>
身の裡で號する。与那は力を振り絞り、藻掻いた。
<ボクハ、死ナネエゾ!!!>
突然、世界が暗転した。冥い。抵抗虚しく、殺されたか。
矢庭、なにやら騒がしい音が響き、次いで後頭部と背中に、衝撃があった。瞼を開く。暈けて、よく見えない。併し、ハナ暈けていた視界、漸漸と鮮明になる。天井が見えた。仰臥しているらしい。上体を起こした。うまく力が入らない。四囲を窺う。与那は玄関に倒れていた。ドアノブが銀鼠に光る。ほの昏いキッチンを挟み、向こうに明るい部屋が見える。俯くと、躰の横に、青いタオルが落ちていた。タオルを凝と見つめる。それを掴んで立ち上がった。明かりの点いた部屋を覗く。老婆の姿も、天井から垂れていた絞索も、無い。先だって老婆の排泄物に汚された
嘔気を催した。風呂場に駆け込む。3点式ユニットバス。便器に吐瀉する。暫く続いた。喘ぎつつ、バスタブに手をついて立ち上がる。風呂場の電気を点ける。鏡を見た。鏡裡のてめえ、楢喜八の描く死人めいたラツをしてやがる。頸部に、首吊りでもしたような薄紫色の跡。その周り、青いタオルの繊維が数本、付着している。
「おめえは、死ぬことすら、まともにできねえんだな」
耳元で、誰かが怒鳴った。次いで哄笑が起こる。死を求むとも見出さず、死なんと欲すとも死は逃げ去るべし。ヨハネ黙示録9章6節。
「どこにも根を持てず、みんなに嫌われ、果ては死にすら拒否される、惨めなやつ」
風呂場に声が響く。そして復、洪水のような笑い。
「おめえに居場所は無いし、おめえには、なにもできない、邪魔者、余計者」
堪らなくなった。青いタオルを握った左手で、鏡を殴りつける。鏡が割れ、破片が床に散乱する。風呂場を出る。部屋に戻り、金ピースとライター、携帯灰皿と財嚢を寝巻のポケットに入れる。鏡を殴った手が割れ、出血していた。知ったことか。手当はしない。玄関へ向かう。靴を履く。そのまま逃げるように、室を出た。
[5]
鄙の夜道、不気味に静かだ。誰も居ない。月は雲間に隠れ、死にかけの外灯のみが、
飲み終わった。缶を捨てる。外灯も自販機も、社会の産物。与那は、社会に寄生している。迷惑をかけるだけ。有害無益の寄生人間。疎まれ、蔑まれる、寄生人間。往来を歩く資格があるのか。死ぬこともできねえ。てめえのことが情けない。命よ、終われ。殺してくれ。終わってくれ。転帰、終わらねえ。これから、どうすればいい。紫煙をまき散らし、意味も無く、
どこかで、かすかな、ささやくような声が、聞こえた気がした。
顔を上げる。与那の目が、なにかを捉えた。道のあなた、闇の裡、暗幕に針を刺したかのような、極小のホワイト・ゴールドが一点、いつの間にやら、生じている。漸漸と、その点は拡大する。光だった。光が放射する。闇が割けた。ハナ、光は闇の裡にあった。光は輝きを増し、闇はこれに勝たなかった。光に照らされ、世界が、すべてを金色に染めて往く。夜が終わり、朝が来たのだった。
<世界ってのは、綺麗だなあ> 黄金色の世界を見、心中、間抜けに独り言ちる。
その世界に、てめえの居場所は無い。
悪人にも善人にも太陽は昇る。マタイ5章45節。悪人と善人で分ければ、間違いなく前者にクラシファイドされる与那、悪人たる自分にも太陽が昇ることを、衷心より、ありがたく思い、復、えらい悔恨の情も惹起せしめられた。罪人のわたしをおゆるしください。ルカ18章13節。
突然、左手に痛みが走る。クソが。今更になって、痛みが出てきやがった。血だらけの左手に、金ピースのソフトが握られている。何気なく、それを見る。金ピースの図柄、オリーブの枝を銜えた鳩が、気持ちよさそうに飛ぶ。その下に一言、PEACE(安かれ)と印字されている。
老婆との死闘を思い出した。与那は死闘の果て、<ボクハ、生キテヤル!!! > と叫んだ。斯く内白に込められた、逆捩じ式ではあるが、積極的に生存しようとするてめえの意志に、いまさらながらの自覚をする。死ぬ死ぬホザいておきながら、これだ。思わず苦笑した。万物は、てめえの有に固執する。自己保存したがる。向後の死路、ろくな展望もねえくせに、与那の実存は、保存されることを切望していた。生きようとしていた。藻掻いて、呼吸をした。思えば、躰は、ずっと息をしていた。工場に居た時も、留置場に居た時も、孤室に逼塞していた時も、已往、息をし続けていた。
朝日に照らされ、光に囲まれつつ、与那、てめえの呼吸を、強烈に意識した。而して、その意識が牽引したものか、旧約聖書集中、創世記のセンテンスが、与那の身の裡、黙示的な重みを伴って想起された。
「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」「見よ、それは極めて良かった」
朝、兵庫の鄙の路傍にて、光を
与那、存在するだけで迷惑な余計者であるが、それ以前にハナ、生きた者として世界にあった。てめえの世評に関係なく、心臓は、それ自体の完全性に則り、動き続け、肯定のリズムを刻んでいた。「おまえの命に価値は無い、おまえの命は邪魔なだけだ」と、弱い者やマージナルな存在に向かい、絶え間の無い罵声を放つ世上に於き、心臓は、黙黙と肯定の信号を送り続ける。悪と患難は強大だが、肯定のシグナルは、もっと強い。見よ、それは極めて良かった!
今や、決定契機だった。斯く肯定のシグナルを、信受するか、否か。転帰、与那は、信受する。てめえには、もう、これしか無いのだ。信受は決意であり、もっと言えば、賭けで。
生きるに値しない邪魔者、余計者、だからどうした。てめえの公益性なぞ、識ったことか。賭けを敢行する。やたけたに生存してやる。息をしてやる。生き続けてやる。在り続けてやる。
当て所も無く、与那は歩き出した。心拍。往け、往け、往け。前へ、前へ、前へ。Forward! Forward! Forward! 道の先、光輝く。
後日、恨みを抱えた平田が
いずれ与那、日満ちてくたばる。心臓が止まる。能事
あとは老婆と同じく無縁遺体として荼毘に付され、
<了>
無縁遺体 ぶざますぎる @buzamasugiru
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