無縁遺体 下

[4]

「チクショウ! どうしよう!」

 夜半。兵庫の鄙にあるボロアパート、その1Kの孤室にて、与那は煩悶した。どうにもならないことをどうにかしようとしても、結句どうにもならねえ。蛍光灯が拡げる莫とした薄灰色の下、金ピースをカマしつつ蒲団のうえに座り込み、憮然のラツで紫煙を燻らせる他、仕様が無い。煙充満、蛍光灯の明かりと混ざっては、安普請の室全体を白底翳そこひの如く濁らせ、与那の孤影を際立たせる。

「すべての人に対して善を図りなさい(ロマ書12章17節)」茲でいう善、生きているだけで迷惑な与那が死ぬこと。「手づから働きて善き業をなせ(エペソ書4章28節)」善き業とは、与那が自殺すること。「人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である(ヤコブ4章17節)」与那は死ぬべきであり、そのことをてめえでも自覚して居、然あれば、自殺しないというのは、良心の恣意的な怠慢に他ならず、罪。

 とっとと死ね!!! 生きているだけで迷惑なやつ!!! 死ね!!! 死んじまえ!!! てめえには生きる意味も、守るものも、なんにもねえんだろ!!! 死ね!!! 死ね!!! 死ね!!! これ以上、生きて迷惑をかけるな!!! この世に、おまえの居場所は無い!!! 死ね!!! 自殺しろ!!! 「今すぐ、あなたがなすべきことをなせ(ヨハネ福音書13章27節)」死ね!!! 死ね!!! 死ね!!!

 留置場に於ける思料の果て、てめえの存在の規矩、生きるに値せぬ余計者の歩みと定めてから、与那の脳裡、自殺念慮が絶えなかった。死ね!!! 死ね!!! 死ね!!! これ以上、社会に迷惑をかけるな。自殺しろ。それは、てめえの義務。死ね!!! 死ね!!! 死ね!!! 「我はわが中、すなわち我が肉のうちに善の宿らぬを知る(ロマ書7章18節)」死ね!!! 死ね!!! 死ね!!! 死んじまえ!!!

 今や汚濁中年、気力体力ともに剥落の一途。自己投企のための余力は無い。元来ができの悪い脳みそ、劣化するばかり。輓近、思惟が狂ってきたのが、てめえでも判る。死ね!!! 死ね!!! 死ね!!! 若時も、人生はロクなものじゃなかった。死んじまえ!!!そもそもが万年不平分子気質の与那、已往の十中九、不満足と悲嘆で費消した。して現況は、トースト。もう、小手先の弥縫策ではどうにもならぬ。破綻している。レイムダック。死ね!!! 死ね!!! 死ね!!! いつかてめえを飆風ひょうふうの如く訪れる確実な死、それに怯えて過す他、方途も無い。未来に対する野心と色気、ふとこりようもねえ。死ね!!! 死ね!!! 死ね!!! 一縷の希望に縋るか。いずれ一発逆転があると、根を持つことができると、居場所ができると、社会に溶け込めると、期待してやがるのか。絵空事だ、そんなもん。その薄汚え命と一緒に、打っちゃれ。死ね!!! 死ね!!! 死ね!!! そもそも、仮令希望があろうが、てめえは死ななきゃならねえ。死ね!!! 死ね!!! 死ね!!! 生きるに値しない与那。余計者の与那。とっとと自殺するのが、てめえの義務。死ね!!! 死ね!!! 死ね!!! どうでお先真っ暗、早いとこケリをつければ、無駄な苦しみもねえ。これ以上、娑婆に長っ尻するな。死ね!!! 死ね!!! 死ね!!! みんな喜ぶ。死んじまえ!!! ウィンウィンというワケで。死ね!!! 死ね!!! 死ね!!!

「チクショウ! どうしよう!」与那は叫んだ。

 深更、斯く大声しても、苦情は入らない。このボロアパートに逼塞している住人、与那ひとりで。かつて居た唯一の同荘人、与那の上階に室を取っていた。独り身の老婆。先だって与那が留置場に居た間、縊死した。遺体は暫く発見されず、室に垂れ下がり続けた。する裡に腐敗。首がちぎれた。体液がブチ撒けられ、床に染み込んだ。与那の住む孤室、天井に目を転ずれば、黒い染みができている。死して花は咲かず、染みだけが残った。引き取り手の無い老婆の骸、無縁遺体として荼毘だびされた。

 生前は因業な婆さんだった。骨と皮のみの羸痩るいそう、真っ白い蓬髪を振り乱しては、恒に炯炯たる血走り眼をかっぴらき、憤怒の形相で世界を睥睨していた。朝から晩まで路上を彷徨い、往き交う人間すべてに人差し指を突きつけ「おまえは死ぬ! 」と、怒罵喰らわす習性があった。近隣の迷惑者。疎まれ者。仄聞、曩時に逆さを見、夫にも先立たれた由。孤独な婆さん、世を怨んだか。まさに幽鬼、鬼婆の態。与那も、夕に鄙の寂路を歩いていると、道中よく、狂疾明らかな該老婆と遭遇しては、罵倒された。「おまえは死ぬ! 」薄明に響く声、確かに、死ぬような気がした。

 与那、この老婆を嫌いでなかった。むしろ、親狎の情をふとこった。世俗に溶け込めず、開き直るようにして狷介固陋の殻を閉ざし、口から出るのは呪詛ばかり。同士を見出したかの如き感慨。世のすべてを罵倒する老婆、与那の身の裡に、奇妙な情合いを惹起せしめた。

 老婆の矢叫びは信用できた。「お前は死ぬ! 」与那はそこに価値と真実を認めた。誰からも見棄てられた存在が、誰からの応えも期待せず吐いた言葉にだけ、価値と真実は宿る。それは本当のことだ。仮令老婆の台詞が異なったにせよ、同じことで。与那は、本当のことを愛する。本当のことを言わない連中、皆殺しにしたい。与那にとり、老婆は聖愚者に見えた。おお、聖ワシリイ。

 てめえの敬愛を示すため、与那はよく、老婆に話しかけた。

「おう。お婆さん。調子どうでい」

「おまえは死ぬ! 」

「ただいま、お婆さん。ボク、仕事やめたくなっちまったぜ」

「おまえは死ぬ!」

「おう。今日はパチンコで勝ったぜ。ほら、お菓子やるよ。食ってくんねえ」

「おまえは死ぬ!」

 てな塩梅で。

 与那が留置場に入って直ぐのこと、ボロアパート近くに縄張りカマしていた野良猫が、殺された。えらい老猫で、動きも鈍くなって居、ヨタヨタとアパート付近を散歩しては、餌と愛撫を恵えられていた。小学生のガキ連が、該猫を撲殺した。警戒心の欠缺した猫だった。蒼穹の高い、暖かな昼。陽光が優しい。猫、空き地に微睡んでいる。足音がした。猫がゆっくりと瞼を開く。ハナぼやけている猫の視界、徐徐と明確な形を捉える。薄笑いを浮かべたガキどもが、近づいて来る。なんだ、ガキか。ガキは餌を寄越さねえ。撫で方も雑でしつこい。まあ、適当に相手してやろう。ニャア。軽ろき挨拶をしてやる。ガキどもが周りにしゃがみ込む。複数の手が、ラフなやり方で撫でてくる。もっと優しくやってくれよ。ナオン。猫は鳴いて目を閉じる。横臥したまま伸びをする。ガキのひとり、最前より後ろ手したまま、猫を撫でていなかった。該ガキ、猫の瞑目を認めると、隠していた手を前に出した。掌大の石が握られている。すると、猫を撫でていた他の連中の手が、頓に暴力性を増し、猫を乱暴に地面へ押さえつけた。猫が悲鳴を上げる。猫の頸を掴んだ手は、扼殺せんばかりに力んでいる。なにをしやがる! 猫は藻掻くが、どうにもならぬ。猫のド頭に、石が振り下ろされた。一度では、死ななかった。次いで何発も、猫の頭蓋に石が叩きつけられた。脳梁が飛散する。血を浴びて、石を持ったガキ、恍惚げな表情を浮かべた。該ガキ、市議会議員の孫だったらしい。ためか本殺猫事件、大事にならなかった。ガキども、頭の潰れた猫を打っちゃって、帰った。

 夕暮れ、近隣の住民連が、放置された猫の無縁遺体を囲み、嘆息。ひどいことするもんだ。とりあえずどかそう。誰がやるんだ。私はやりたくない。汚いのはごめんだ。掃除も面倒だ。誰かが舌打ちを放った。迷惑な死に方しやがって。

 金切り声が響いた。皆が一斉に、そちらを向く。老婆が立っていた。住民連、惧怕ぐはくに凍りついた。老婆、斯く住民連の反応は意に介さず、爛爛とした目をかっ開き、猫の死骸に走り寄った。住民のひとり、制止のためか、老婆に手を差し出す。老婆、それを振り払い、返す刀で該住人を突き飛ばした。老婆以外、皆が息を呑む。突き飛ばされた者も、尻もちをついたまま動かない。老婆、足元の無縁遺体を凝と見つめたかと思うと、矢庭に泣號した。呆気にとられる住民連を余所、老婆は頽れる如く屈み込み、猫の躰を掻き抱いた。腕も服も血に汚れたが、構わなかった。地面へ座り込み、膝の上に猫を抱き、ピエタの如く、老婆は泣き続けた。暫後、老婆は不意と泣き止み、猫を元の場所へ戻した。立ち上がると、血に汚れた指を順順と住民連ひとりひとりに向け、「おまえは死ぬ! 」と、やはりひとりひとりに向かって號罵してから、駐車場を立ち去った。おそらくはその日の裡、老婆は首を縊った。転帰、無縁遺体だ。

 吸っていた金ピースが短くなった。灰皿に押しつける。ボヘミアのクリスタル。骨董品店で見つけ、タダ同然の値で購めた。店主曰く、もとは、さる窩主買いの持ち物だったが、そいつは刺殺されたらしい。過日職籍を置いた会社の事務所にも、同じものがあった。喫煙者が大手を振った時分、これがベタな贈答品で。社長はよく、これで部下を殴った。与那も、やられそうになった。やられる前に殴り倒してやった。後刻、手酷い制裁を喰らった。

「因業な婆さんだったが、最期はうまいことやったよ」

 生前の老婆を想起、与那は寥寥りょうりょうたる心機をふとこった。同士と思えた老婆の姿、与那の将来を暗示しているようで。殷鑑不遠いんかんふえん。絞索に頭を突っ込む際、老婆はなにを思ったか。死人に口なし。沈黙は美徳、か。与那もその裡、気がフれよう。今も、その兆しがある。暗然とした確信。否、一度でもてめえの思惟、安定したことがあるか。無い。已往、与那は錯乱し通しだった気がする。

 古バビロニアの神話に、Ekimmuという悪霊が登場する。こいつはすべての霊の裡、一等に悲惨な存在。生前、誰にも構われず、悲惨と孤独の裡に生涯を終え、弔いすらしてもらえず、誰からも忘れ去られ、屍は無縁遺体となり路傍に曝されたまま、腐るのを待つだけ。斯く人間の成れの果て、Ekimmu。該霊は冥界にも居場所を得られず、ただ孤独に地上を彷徨って居、人間を認めれば、怨嗟の叫喚とともに襲いかかる。死してなお、安息を得られないというワケで。与那、てめえと老婆のことを、該悪霊へ投影した。すると逆照射の如く、不意と自らの義務を表象せしめられた。死ね!!! 死ね!!! 死ね!!! そうだ、死ななきゃならねえ。死ね!!! 死ね!!! 死ね!!!

「ボクも、首を縊るかね」独り言ちた。

 蒲団近く、青いタオルが目についた。これで吊るか。玄関のドアノブでも使えばいい。与那、若時に色色あり、逡巡の果て、やはりタオルを用いて首を縊った。併し、不間ぶまをカマした。転帰、閉鎖病棟に入った。あの時にくたばっていりゃあ、今の面倒も無かった。思わず舌打ちを放つ。「愚かなる者のおろかはただおろかなり(箴言14章24節)」つくづく、てめえの無能が憎い。

 不図、未練が出来した。もう一本だけ、金ピースが吸いたい。言い訳つけて延命しているようで、みっともねえ。とあれ、一本だけ。せめてもの情け、てめえでてめえに餞別をくれてやらあ。莨に手を伸ばす。

 俯いた与那の頭上、なにかの気配があった。同時、饐えた臭いが鼻を刺す。強烈な存在感。躰が凍りついた。聞覚えのある音が響く。記憶の糸を手繰る。在昔、港湾でVAN出しをしていた。往時、よく耳にした音。そうだ、これは、係留索の軋む音。なに、係留索だと。疑惧。茲は、部屋の裡だぜ。ロープが軋む音なんて。不覚、首を吊った老婆のことを連想。背筋が冷えた。怯える。併し、このままでは埒が明かねえ。鬼が出るか蛇が出るか。ゆっくりと、与那は天井を仰いだ。

 ずず黒い裸足が一対、宙に揺れている。

 惊叫とともに、与那は飛び退った。透かさず体勢を立て直す。危機に備えろ。臨戦態勢。サウスポーに拳を構える。状況を把握しろ。孤室への闖入者、視界に容れる。愕然。前方、一糸まとわぬ首吊り老婆が、孤室に揺れていた。天井の黒い染みから、絞索が垂れている。胴と足、黄ばんだ皮膚。足趾の爪、垢が溜まって黒い。有刺鉄線が胴にきつく巻きつけられ、皮膚に食い込み、黒濁たる血が滴り落ちる。顔は鬱血して暗紫赤色。額の血管が怒張、張り裂けんばかり。眼窩の極限まで剥かれた眼は、炎のように赤く、黒目には敵意の悪光りを走らせている。首吊り老婆は、与那を睨んでいた。

「おまえを殺す」首吊り老婆が叫んだ。

 斯く異象はもとより、過日さんざ耳にした「おまえは死ぬ」という預言者的な叫びが、今では「おまえを殺す」との積極的な殺意表明へと変貌、それが明らかに、てめえへと向けられていることが、与那を惧怕に凍りつかせた。

 空気が漏れるような音が響く。首吊り老婆の放屁だ。該音を号令とするかの如く、すかさず、老婆の股座から黄濁した液体と、黒味がかった泥状便が、止め処なく流れ出、それは胴から垂れる血と混じりつつ、首吊り老婆の脚を伝って、その真下に敷かれている与那の蒲団へと、ボタボタ、音を立てて落ちた。汚穢おわいに染められたてめえの蒲団を見、与那は反射的に <ボクの蒲団は、ペット用のトイレ・シーツじゃねえんだぞ> なぞと、場違いなことを思った。

「おまえを殺す」

 躰の重みで、老婆の頸が伸長する。頸の皮膚に裂け目が入る。粘調な血が、溢れ出す。裂傷の裡、赤い肉、白色と褐色の脂肪が見える。傷が拡がる。嫌な音がして、頸の皮膚がすべて断ち切れた。勢いよく血が噴き出す。肉の間、頸椎が露出する。卒爾、えらい断裂音が響く。老婆の頸が断ち切れた。胴体が蒲団に落ちる。そのうえに遅れて落下した頭は跳ね上がり、部屋の隅に転がった。血管や肉の切れ端を断面からのぞかせ、いまだ赤黒く変色したままの老婆の頭、さながら蛸だ。

「おまえを殺す」老婆の頭が叫んだ。

 蒲団のうえに倒れていた老婆の躰が、蠢動した。

「おまえを殺す」首の無い躰が、ムクリと起き上がる。「おまえを殺す」老婆の頭は叫び続ける。「おまえを殺す」老婆の叫びに呼応するが如く、首無しの躰は諸手を前に突き出し、与那に向かって来た。

 ハナ呻きのような悲鳴を洩らし、吃驚した与那であったが、反射的に、老婆の顔面へ向け、右ジャブを放つ。「おまえを殺す」しまった、対手は頭がねえんだった。「おまえを殺す」拳が空を切る。「おまえを殺す」首無しの躰は距離を詰め、与那の喉頸に掴みかかった。「おまえを殺す」そのまま壁に押しつけられる。「おまえを殺す」与那、首無し躰の足を何度も踏みつけるが、一向に怯む気配無し。「おまえを殺す」手を解こうにもビクともしねえ。「おまえを殺す」化け物婆め、万力みてえだ。「おまえを殺す」ババアの胴を殴りつける。「おまえを殺す」効き目無し。「おまえを殺す」万事休すか。「おまえを殺す」視界が霞む。「おまえを殺す」全身から力が抜ける。「おまえを殺す」「おまえを殺す」「おまえを殺す」

 <殺サレテタマルカ!!! ボクハ、生キテヤル!!!>

 身の裡で號する。与那は力を振り絞り、藻掻いた。

 <ボクハ、死ナネエゾ!!!>

 突然、世界が暗転した。冥い。抵抗虚しく、殺されたか。黄泉比良坂よもつひらさかを越えたってワケだ。宣長に曰く、人は死候へば、善人も悪人もおしなべて、黄泉の国へ行事に候。はたまた、ここは地獄か。なにも見えず、音もしない。暗黒。

 矢庭、なにやら騒がしい音が響き、次いで後頭部と背中に、衝撃があった。瞼を開く。暈けて、よく見えない。併し、ハナ暈けていた視界、漸漸と鮮明になる。天井が見えた。仰臥しているらしい。上体を起こした。うまく力が入らない。四囲を窺う。与那は玄関に倒れていた。ドアノブが銀鼠に光る。ほの昏いキッチンを挟み、向こうに明るい部屋が見える。俯くと、躰の横に、青いタオルが落ちていた。タオルを凝と見つめる。それを掴んで立ち上がった。明かりの点いた部屋を覗く。老婆の姿も、天井から垂れていた絞索も、無い。先だって老婆の排泄物に汚されたしとねは、綺麗なままだ。

 嘔気を催した。風呂場に駆け込む。3点式ユニットバス。便器に吐瀉する。暫く続いた。喘ぎつつ、バスタブに手をついて立ち上がる。風呂場の電気を点ける。鏡を見た。鏡裡のてめえ、楢喜八の描く死人めいたラツをしてやがる。頸部に、首吊りでもしたような薄紫色の跡。その周り、青いタオルの繊維が数本、付着している。

「おめえは、死ぬことすら、まともにできねえんだな」

 耳元で、誰かが怒鳴った。次いで哄笑が起こる。死を求むとも見出さず、死なんと欲すとも死は逃げ去るべし。ヨハネ黙示録9章6節。

「どこにも根を持てず、みんなに嫌われ、果ては死にすら拒否される、惨めなやつ」

 風呂場に声が響く。そして復、洪水のような笑い。

「おめえに居場所は無いし、おめえには、なにもできない、邪魔者、余計者」

 堪らなくなった。青いタオルを握った左手で、鏡を殴りつける。鏡が割れ、破片が床に散乱する。風呂場を出る。部屋に戻り、金ピースとライター、携帯灰皿と財嚢を寝巻のポケットに入れる。鏡を殴った手が割れ、出血していた。知ったことか。手当はしない。玄関へ向かう。靴を履く。そのまま逃げるように、室を出た。


[5]

 鄙の夜道、不気味に静かだ。誰も居ない。月は雲間に隠れ、死にかけの外灯のみが、かそけき光を放つ。一帯に生気が無い。ここはサイレントヒルか。異世界に放り出されたか。化け物は御免だ。否、てめえ自身が、化け物やもしれぬ。蹣跚まんさんと歩き続ける。する裡、自販機を見つけた。自販機の光、外灯より明るい。ジュース缶を購める。自販機の明かりが、血まみれの左手を照射する。出血は止まっていた。痛みは無い。莨に火をつける。缶を開けた。金ピース吸いつつ、ジュース飲む。味がしない。

 飲み終わった。缶を捨てる。外灯も自販機も、社会の産物。与那は、社会に寄生している。迷惑をかけるだけ。有害無益の寄生人間。疎まれ、蔑まれる、寄生人間。往来を歩く資格があるのか。死ぬこともできねえ。てめえのことが情けない。命よ、終われ。殺してくれ。終わってくれ。転帰、終わらねえ。これから、どうすればいい。紫煙をまき散らし、意味も無く、左見右見とみこうみする。答えが欲しい。歩むべき道を、教えてくれ。莨が短くなった。誰も教えてくれない。携帯灰皿に突っ込む。どうしたらいい。悲来乎、悲来乎、李白。なにも見つからない。不覚の涙が零れた。深くこうべを垂れ、目を瞑る。歔欷きょき。助けてくれ。

 どこかで、かすかな、ささやくような声が、聞こえた気がした。

 顔を上げる。与那の目が、なにかを捉えた。道のあなた、闇の裡、暗幕に針を刺したかのような、極小のホワイト・ゴールドが一点、いつの間にやら、生じている。漸漸と、その点は拡大する。光だった。光が放射する。闇が割けた。ハナ、光は闇の裡にあった。光は輝きを増し、闇はこれに勝たなかった。光に照らされ、世界が、すべてを金色に染めて往く。夜が終わり、朝が来たのだった。

 <世界ってのは、綺麗だなあ> 黄金色の世界を見、心中、間抜けに独り言ちる。

 その世界に、てめえの居場所は無い。

 悪人にも善人にも太陽は昇る。マタイ5章45節。悪人と善人で分ければ、間違いなく前者にクラシファイドされる与那、悪人たる自分にも太陽が昇ることを、衷心より、ありがたく思い、復、えらい悔恨の情も惹起せしめられた。罪人のわたしをおゆるしください。ルカ18章13節。

 突然、左手に痛みが走る。クソが。今更になって、痛みが出てきやがった。血だらけの左手に、金ピースのソフトが握られている。何気なく、それを見る。金ピースの図柄、オリーブの枝を銜えた鳩が、気持ちよさそうに飛ぶ。その下に一言、PEACE(安かれ)と印字されている。

 老婆との死闘を思い出した。与那は死闘の果て、<ボクハ、生キテヤル!!! > と叫んだ。斯く内白に込められた、逆捩じ式ではあるが、積極的に生存しようとするてめえの意志に、いまさらながらの自覚をする。死ぬ死ぬホザいておきながら、これだ。思わず苦笑した。万物は、てめえの有に固執する。自己保存したがる。向後の死路、ろくな展望もねえくせに、与那の実存は、保存されることを切望していた。生きようとしていた。藻掻いて、呼吸をした。思えば、躰は、ずっと息をしていた。工場に居た時も、留置場に居た時も、孤室に逼塞していた時も、已往、息をし続けていた。

 朝日に照らされ、光に囲まれつつ、与那、てめえの呼吸を、強烈に意識した。而して、その意識が牽引したものか、旧約聖書集中、創世記のセンテンスが、与那の身の裡、黙示的な重みを伴って想起された。

「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」「見よ、それは極めて良かった」

 朝、兵庫の鄙の路傍にて、光をたる与那、深く息を吸い込んだ。身の裡に空気が溜まる。心臓が鼓動する。脈動。心拍を感じる。この感覚が、てめえに恵えられた指路なのかもしれなかった。斯く鼓動が、ひたすらにすがるべき、唯一のもの。この鼓動が、てめえの根。この鼓動こそが、てめえの所属。鼓動は、肯定そのものだった。存在する、存在する、存在する、然り、然り、然り、生きる、生きる、生きる、よし、よし、よし。確かに、与那は生きていた。息をしていた。心臓が動いている。鼓動している。出生し、恵えられた心臓が鳴り始めた瞬間から、与那の身の裡、肯定が充溢していた。患難も、苦難も、迫害も、すべての外的要因も、心臓が放つ肯定の信号を、否定できない。見よ、それは極めて良かった!

 与那、存在するだけで迷惑な余計者であるが、それ以前にハナ、生きた者として世界にあった。てめえの世評に関係なく、心臓は、それ自体の完全性に則り、動き続け、肯定のリズムを刻んでいた。「おまえの命に価値は無い、おまえの命は邪魔なだけだ」と、弱い者やマージナルな存在に向かい、絶え間の無い罵声を放つ世上に於き、心臓は、黙黙と肯定の信号を送り続ける。悪と患難は強大だが、肯定のシグナルは、もっと強い。見よ、それは極めて良かった! 

 今や、決定契機だった。斯く肯定のシグナルを、信受するか、否か。転帰、与那は、信受する。てめえには、もう、これしか無いのだ。信受は決意であり、もっと言えば、賭けで。

 生きるに値しない邪魔者、余計者、だからどうした。てめえの公益性なぞ、識ったことか。賭けを敢行する。やたけたに生存してやる。息をしてやる。生き続けてやる。在り続けてやる。

 当て所も無く、与那は歩き出した。心拍。往け、往け、往け。前へ、前へ、前へ。Forward! Forward! Forward! 道の先、光輝く。まばゆいほどの黄金色。我は方舟、心臓を運ぶ。見よ、それは極めて良かった!

 後日、恨みを抱えた平田が悪筋わるすじの仲間を引き連れて来、与那は拉致され、半殺しにされ、着物すべて引ん剝かれ、全裸で土下座せしめられ、その姿を写真に撮られ、唾きせられ、頭上より小便を浴びせかけられた。併し平田の野郎、与那を殺せず仕舞だ。こちとら、まだ息をしてるぜ。見よ、それは極めて良かった!向後も、しぶとく生きてやる。息を続けてやる。ダウンしたが、カウント10は取られなかった。ファイティング・ポーズ。試合再開。負けは確定。生憎と、客にも嫌われている。ブーイングの嵐。怒号が飛び交う。とりあえず、判定まで持ち込む。会場が冷え切ろうが、識ったことか。クズの開き直りだ。だからどうした。ざまあみやがれ。

 いずれ与那、日満ちてくたばる。心臓が止まる。能事おわれり。やることはやった。おそらく、今際いまわきわにも独りであろう与那、どこぞの室で、誰にも看取られず、孤独死するに相違無い。 而して後刻、腐敗が進行した状態で発見された与那の遺体、与那太潮という個人の軌跡には一切の関心を持たぬ他人の手により、迷惑極り無いという表情とともに、無数の舌打ちをぶつけられながら、誰にも悲しみを惹起させず、手間のかかる生ゴミとして片づけられる。どうもお世話様、立つ鳥跡を濁さしてもらうぜ。

 あとは老婆と同じく無縁遺体として荼毘に付され、ちりに返るだけだ。


<了>

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無縁遺体 ぶざますぎる @buzamasugiru

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