無縁遺体

ぶざますぎる

無縁遺体 上

……死は最大の精神的悲惨を表わすことばであるが、しかも救済は、まさに死ぬことに、死んだもののように生きることにあるのである。

(中央公論社『世界の名著 40 キルケゴール』「死にいたる病」桝田啓三郎訳)



[1]

 夜半。兵庫のひなにあるボロアパート、その1Kの孤室にて、与那よな太潮たしおは輾転反側していた。闇、壁掛け時計の夜光塗料が光る。時針と分針、3時45分を示す。与那、臥床しつつそれを睨み、舌打ちを放った。

「チクショウ! どうしよう!」

 呻吟めいた悪態を吐き、与那は起き上がる。蒲団を離れ、壁のスイッチを押す。部屋の明かりを点ける。またぞろ蒲団に戻り、ドカッっと座り込む。手近に置かれた金ピースとライター、灰皿を手に取る。莨に火をつけ、吸い始めた。

「チクショウ! どうしよう!」再び悪態。

 輓近、与那は不眠続き。そもそもが情緒不安定な与那、已往、たびたび精神的に悪い周期へ入っては悩乱、不眠の憂き目を見た。ざっくばらんに叙せば、与那はメンヘラであり、此度の不眠も、つき合いの長い宿痾がまた、顔を覗かせたというワケで。

 併し、今般の悩乱、その激しさという点に於き、従前のものとは一線を画した。元来、不愉快ごとの多い与那の生活ではあるが、特にここ暫く、てめえの存在自体を嘆じたくなるようなバッド・ファクターに充ち充ちて居、斯く憤悶要素が悩乱の炎へと油を注いでは、これまでに無いほど、火柱を嵩ぜしめた。

 所以、与那は馬齢を累ね中年の域に達して居、てめえが青春、若さ、希望、栄光に満ちた世代から遠く隔てられ、今や一切の試行錯誤も利かぬ、一縷の希望すら消え失せた、惨めで哀れな汚濁中年になり果てたという現実を恒恒自覚、世俗に謳う、ミドルエイジ・クライシスに陥っていた。復、先だって与那、職籍を置いていた配電盤工場にて暴力沙汰を起こし、留置場へぶち込まれ暫時、籠鳥檻猿ろうちょうかんえんを強いられ、該工場も馘首せられた。斯有しかば、汚濁中年与那としては、もともと暗澹たるものであった未来像、ますます翳りを帯び、はて向後の展望といえば、一条の光も射さぬ、暗黒牢獄めいたヴィジョンの他、なにも描けない。

 中年の危機による鬱屈、該暴力事件での狂憤、留置場でふとこった思惟、諸諸。与那の身のうちで奇妙な琴瑟相和きんしつそうわを見せ、手を取り合っては与那の心機を乱した。而してメンヘラ汚濁中年与那、胸中錯綜しては連夜不眠と相成って、悩乱の度も甚だしかった。

「チクショウ! どうしよう!」

 再言した与那の脳裡のうり、配電盤工場での記憶が蘇った。


[2]

「与那さんは、元牧師なんだって」

 工場長は、工員たちに与那を紹介する際、そう言った。それは誤りで。実際、与那は元牧師でなく、神学校中退。工場長、履歴書の内容を誤記憶したか。併し、訂正するのも面倒。転帰、与那は「えへへ、どうも」と媚びるような口吻で言い、これ復、媚びるような緩頬をしただけで。

「アーメーン」

 工員のひとりが、嘲弄の意図明明とした声色で言った。若い男だ。寸見の限りでも、たちの悪い不良というのが丸わかりな面構えをしてやがる。新入りへのカマシのつもりか。後刻識ったことには、この男、齢27、姓は平田、過日教師の土手腹刺してネンショを経験、今では既婚子持ちの由。野郎、鄙のチンピラの定番ルートを歩んでいる。親父が金持ち。平生、親父の金で購めた赤フェアレディで通勤。その親父が、工場の社長と昵懇というワケで。典型的、悪ボンボン。ロクでもねえ。

 <ガキが、殺すぞ>

 平田の舐め腐った態度に、そもそもが病疾めいた癇癪体質の与那、心中怒罵する。業沸く。怒りが脳の大宗を成す。眼前のチンピラガキの首、へし折りそうになる。併し、漸うにして獲ち得た糊口のあて、働いて早早、てめえの短気で失いたくない。クソが。口中、軽ろき舌打ちを放つ。グッと堪えた。

 そもそもが骨惜しみにできて居、てんで労務者適性を持たぬ与那、已往、仕事が長続きしたためしがなかった。復、さきに叙した癇癖も相まって、若時より職籍転転し続け、どこにも根を持つこと能わず、烏兎匆匆うとそうそう、無駄に誕辰を累ね、気づけば汚濁中年。不景気の世、職歴ぼろぼろ汚濁中年を好んで雇う処なぞ無く、あったにしても、ロクな世過ぎは無い。それに、またぞろ就職活動するのは億劫。斯有しかば、折角と手に入れた工員の役割、固守したい。

「えへへ。アーメン、アーメン。ボク、電工やってたんですが、製造ときたら初めてなもんで。どうぞ、よろしくしてやっておくんなせえ。えへへ」

 転帰、与那は卑屈な御愛想を述べ、怒りを押し殺し、屈伏した。

 爾後、斯く与那の弱みを敏活に取意したものか、平田の野郎、こっちの足元を見腐って、たびたび挑発的言辞を弄してきやがった。与那はえらい血が騒ぎ、業腹な身の裡、<いじゃこじゃヌカしやがって。かちますぞ、ガキが> なぞと嚇怒。併し、曩に述べた弱み、実行できず。胸三寸に終わる。該チンピラガキ、新人イビリが趣味らしい。殴る蹴る罵倒、已往、えらい数の新入りを潰した由、与那は仄聞した。

 惨めな汚濁中年であるものの、与那は割合ガタイがよく、復、若時にアマチュア・ボクシングと岩間スタイルを齧って居、平田の如きチンピラガキ一匹、簡単にシバキあげる膂力があった。

 ためか平田の方、数日経ると、チンピラ特有の小賢しさと下卑た嗅覚を発揮したらしく、こと喧嘩では分が悪いと見繕ったか、はたまた与那がふとこる害意を揣摩したか、転帰、与那の反射的な暴力を誘発しかねない身体加害や、直接的な口撃は避け、他の工員との会話中、名指しこそせぬものの、与那への当てこすりであることが明らかな悪口厭味をおらびあげては、与那の方をチラチラと見遣り、勝ち誇ったようなラツで嗤笑するなど、実に妙を得た精神攻撃をするようになった。

「おれんちはよお、ガキが3人もいるからよお、大変なんだよお、マジでよお、でもよお、世の中にはよお、いい歳こいて独身のよお、人生終わってる社会のお荷物ジジイがいるらしいなあ、そういうジジイと違ってよお、こっちは社会の役に立ってるからよお、まあ、やりがいはあるわなあ、おれにはガキとスケがいるけどよお、孤独死確定の負け犬ジジイにはよお、愛してくれる人間なんてよお、ひとりも居やしねえんだからなあ、笑っちまうよなあ」

「芝九電機のとこがよお、新しく雇ったやつを見たかよ、ジジイだぜ、ジジイ、使えねえから流れてきたんだろうけどよお、実際、おこついたジジイだったんだけどよお、そんでよお、そのジジイはよお、前に電工やってたらしいけどよお、そんなもんよお、糞の役にも立たねえわなあ、大体よお、新人ジジイなんてのはよお、居るだけで邪魔なんだよ、そもそもよお、年寄りなんてのはよお、社会のお荷物なんだからよお、全員とっとと集団自決しろって話だよなあ」

「いい歳こいて独身のやつってよお、やっぱり異常だよなあ、そういうのってよお、なんかの障害者なんだろうなあ、誰にも愛されないってのはよお、あり得ねえだろ、普通に生きてたらよお、障害者と言えばよお、前に居ただろ、障雇の田中、あの根性無し、蹴り入れてやったら泣いてやがったろ、だっせえ、そのまま来なくなったけどよお、あいつも邪魔だったからよお、いい気味だぜ、今頃自殺でもしてんじゃねえのか、ああいう役立たずの障害者、安楽死させた方が世のためだよなあ、社会の足を引っ張るだけで、生産性ゼロの糞障害者なんて、存在そのものが迷惑なんだよ、ジジイと一緒でよお、生きてる価値なんかねえよ」

 云云。

 与那は該厭がらせ、つまり、小癪なチンピラ特有の迂遠な侮蔑的示威をカマされる度、ハナ怒りのボルテージを高めていた。併し、日を経てる裡、そもそもが癇持ちの、極めて易怒性が強い与那の方でも、繰り返される平田の口撃に、漸漸と耐性の閾値も上がったというか、アラサーの男が、腕っぷしでは勝てねえもんで、負け惜しみ式、だっちもねえことを延々とコカしている態様、滑稽に思い始めた。チンピラガキの方では、印地のつもりか、実際は、蚊の一刺しにもならねえ。平気の平左だ。雑魚砂利が。稚気めいたマウンティングを真面に受け、いちいち赫怒するのも馬鹿馬鹿しい。転帰、与那は馬耳東風をカマした。

 斯く平然たる与那の態度に、平田は自らの口撃が徒爾に終わったことを認めたらしく、須臾の日数、索然としたラツを晒しては、ときたま妙な目つきを与那に向けた。それに対して与那が、「なんか要り用ですかい」なぞと応じると、平田はそれを無視、直ぐと目を逸らしては黙然。

 <どうやら、新人イビリには飽きたらしいな>

 与那は心中、結論したが、それは誤りで。平田の身の裡、憤懣が澱の如くであった。それは漸漸と醇化されては畢竟ひっきょう、与那に対する怒りとなり、エクスプロージョンを待った。

 人間は往往、他人へなにかしらの役割を期待し、他人がその役割通りに動くことを望む。あたぼう、そんな所期が叶うことなぞ、めったに無い。相手にも事情があらあな。耐えがたきを耐える。ほとんどの人間は、我慢する。併し、稀に我慢できないやつらがいる。こと平田、我慢できないやつだった。

 平田、与那に期待したのは「やられ役」で。平田のイビリに鞠躬如きっきゅうじょする、惨めなやられ役。憎悪をふとこりながら発露能わず、怯えと悔しさの滲む双眸に涙を溜め、一方では加害者へ慈悲を乞うような愁訴のラツをする、やられ役。平田の悪を一身に担う、やられ役。「こうして山羊は彼らのもろもろの悪を担って、人里離れた地に行くであろう。すなわち、その山羊を荒野に送らなければならない」レビ記16章22節。已往、平田の悪を担ったやられ役全員、山羊にせられ、転帰、恥辱をふとこりつつ工場を追い出され、荒野に送られた。

 併し、こと与那、山羊にならなかった。悪は移動せず、平田に溜まった。斯くして平田、挫折の不愉快とともにある種、面皮剥がれた。平田の胸裡、不気味な漣を拡げる。小さな波はやがて寄集まり、大波に変ずる。大波はいつしか狂濤へと変貌、己が身を岩礁に叩きつける。実際、平田は鯨波となり、与那へ押し寄せた。

 与那が勤め始めて、2か月目。突然、平田の野郎、与那の臀部を思い切り蹴りつけた。詰め所でのこと。偶然、そこには与那と平田の二人きり。詰所のコーヒーメーカの前、『善き力に守られて』の鼻歌カマしている与那の後ろから近づいた平田、暴力を揮った。

 与那、と胸を衝かれて振り返る。

「おい! ジジイ! てめえは! てめえは! なんなんだよ! 」怒りをかさのようにまとい、眦を裂いた平田が怒罵した「ふざけんじゃねえよ! てめえは! なんなんだよ! ジジイ! 」

 さて、方今研究によれば、烏賊にも少許たる自制心が確認されるらしい。その点、一応は動物界脊椎動物門、哺乳網霊長目、ヒト科ヒト属ホモサピエンスの類に入る与那にも、烏賊に劣らぬほどの自制心がある。ここまで馬鹿のひとつ覚えみたいに叙してきた通り、与那はそもそもが癇癪持ちであるが、高率で失敗するものの、それなりに自制の努力はしている。実際、与那は平田の口撃を耐えたワケで。まあ、いずれ別事で爆発したろうが。

 復、なにごとにも、例外がある。雄の雛は、父鳥を手本に囀りを学ぶ。血は争えぬもの、先考もなかなかの癇癪持ちであり、与那の幼時には生活で暴力行為が散発して居、さんざっぱら殴られ蹴られした。その影響もあってか、拳闘を齧ったくせして(というより、精神的防護のために齧ったフシがあるのだが)、そもそもが身体的ダメージに敏感な質であり、てめえが暴力を受けることに人並み以上の苦手意識を持っている与那、心構えができるならまだしも、不意の拍子に打擲されようものなら爆竹めいたパニックを起こし、平生の癇癪なぞ比にもならぬほどの狂悖暴戻きょうはいぼうれいをはたらいてしまう、誠にハタ迷惑な体質の、バーサーカー汚濁中年で。

 須臾の間、与那は茫乎たる表情を平田に向けた。

 ポカンと口を開けたまま、みじろぎひとつしない。

「ほわあああ」という妙な溜め息を吐き、ビクンと与那の躰が跳ねた。驚いた平田、同じ動きをする。またぞろ「ほわあああ」。

 与那、淋漓たる流汗をカマす。一瞬で汗みどろ。次いで与那の躰、痙攣し始める。徐徐と顫えが激しくなり、ガタガタ床を鳴らした。

「ほわあああ」

 与那の視界、平田が訝しげな目をこちらに向けている。視界に赤い靄が現れた。じわじわ、朱殷の領域を拡げる。転帰、与那の世界は真っ赤に。

 <痛イ! コノ男ガ、ボク二、攻撃ヲシタヨウダ! 何故ダロウ! 怖イ! コノ男ハ、誰ダ! アー、アー、アー!!! 怖イヨ!!! 痛イヨ!!! アー、アー、アー!!! ナンテ、ヒドイコトヲスルノダロウ!!! 帳尻ヲ、合ワセナケレバ!!! 怖イ!!! コノ男ハ、自由意志デモッテ、悪ヲ行ッタ!!! アー、アー、アー!!! 痛イヨ!!! 怖イヨ!!! 摂理ガ、乱レタ!!! 失ワレタ調和ヲ、回復シナクチャ!!! 暴力ヲ揮ッタコノ男ハ、同ジヨウニ、暴力ヲ受ケネバ!!! 剣ヲ取ルモノハ、剣ニヨッテ滅ビル!!! マタイ26章52節!!! >

 与那は金切声を上げ、平田に踊りかかった。

 平田、ハナ驚いた表情で棒立ちしていたが、ハッと我に返り、慌てて防遏ぼうあつのため、両手を前に突き出す。与那、それを躱すように踏み込み、平田の鳩尾を左拳で殴りつける。平田、呻きとともに上体を丸める。与那、右手で平田の奥襟を掴み、腹に追撃の膝をカマす。平田、糸の切れたマリオネットの態。与那、奥襟を掴んだまま平田のバックへ転換、そのまま裏岩石の要領、平田を床へ叩きつけ、直ぐと馬乗りになった。

「ぶもおおおん」与那、悍馬の如き咆哮。平田の顔面へ、頭突き。「ぶもおおおん」再度ヘッドバット。「ぶもおおおん」 発止、パチキ。「ぶもおおおん」

 平田が悲鳴を上げた。鼻血を出しながら哭泣している。裏切られた少年のような表情。

 駄目押しのヘッドバットのため、首を反らしていた与那、ぴたりと静止した。

<オヤ、少年。ナゼ、君ハ泣イテイルンダイ。 ナンデ、ボクノ下ニ、イルンダイ>

 暴力のなごりを全身に漂わせながら、与那は心中、なぜかてめえの下敷きになって泣いている少年へ、問い掛けた。

<誰カニ、苛メラレタノカイ。誰ガソンナ、ヒドイコトヲシタンダイ。悪イヤツガ、イタモンダネ。デモ、モウ大丈夫。ボクガ、マモッテアゲルヨ。君ノ名前ハ、ナントイウンダイ。ボクハ、与那ダヨ、与那太潮。君ノ名前ヲ、教エテオクレ。君ノ名前ヲ……キミノ名前……おめえは……平田だよ。そうか、おめえは、平田だ。平田? 誰? ああ、平田。なにやってんだ、おまえ。殴られたのか。大丈夫か。 誰にやられたんだよ。 ……いや……ボクが、おめえを泣かせたんだ。そうだった。おめえは泣いてるな。苦しいのか。……つまるところ、おめえの苦しみの責任は、ボクにあるってことか。……ボクに? ……ボクは、おめえを殴ったのか。ボクは……なんで……? ……復、やっちまったのか……ボク……ボクは……>

 平田、呻きながら、逃れようと暴れる。与那は茫然自失の態、それでいて、無意識にバランスを取りながら、マウント・ポジションを保つ。平田が両腕を振り回し、与那の胴を殴りつける。その衝撃で与那、正気づいた。平田の顔を、じっと見つめる。

 平田、歯を食いしばりながら呻り、潤んだ目で与那を睨んでいる。

「助けてくれ! キチガイに殺される! 助けてくれ! 殺されちまう! 」

 平田が叫んだ。

<ごめんよ。ボクだって、こんなこと、やりたくないんだぜ。どうして、こうなっちまったんだろう。なんで、ボクはこうなんだろう。おめえ、むかし教師を刺したんだってな。その教師とも、もっとこう、いい関係を築けたんじゃねえのか。対話って大事だぜ。対話してるか、対話を。ボクらは、対話してなかったな。対話しないから、争いが起こるんだよ。悲しみとか苦しみとか、戦争とか飢餓とか、強盗とか差別とか、それに……気候変動とか誹謗中傷とか……あと芸能人のスキャンダルとか、あとほら……騒音トラブルとか。みんな対話をしないから、世界中、懸隔だらけなんだ。実際、暴力によって、ボクとおめえの間に、永遠の溝壑こうがくが生じちまった! ボクとおめえが、対話していたら!!! >

 ドタつく足音が響く。直ぐと数名の工員が詰所の入り口に現れた。皆、そこで立ち止まる。揃って、魂飛魄散こんひはくさんのラツ。

「助けてくれ! 殺される! こいつキチガイだった! このキチガイジジイ、いきなり襲ってきやがった! キチガイジジイに殺される! 助けてくれ! 」

 工員たちに向かい、平田は叫喚した。

 その声で我に返ったか、工員連、慌てて与那たちの方へやって来る。

「助けてくれ! 助けてくれ! キチガイジジイに殺される! 」

 平田の様子を見ていると、与那の身の裡、平田に対する哀れみの感情が出来した。復その声は、屠殺される動物たちの姿を与那に表象せしめた。思わず叩頭して赦しを乞いたくなる。与那の腹の底から、なにかが突き上げるような気配があった。目に涙が滲む。

「ごめんねえええ」与那は泣號、相変わらずてめえの真下で藻掻いている平田のことを、思い切り抱きしめた。そしてまたぞろ、「ごめんねえええ」と叫んだ。

「助けてくれえええ!!!」平田、絹を裂くような悲鳴を上げた。

 工員たちの方では、与那が裸締でも狙っていると勘違いしたものか、「てめえ、坊っちゃんから離れろ! 坊ちゃんを殺すな! 首は折るな! 」なぞと怒号。

 与那は工員たちに取り押さえられ、暫くすると、いつの間にやら現れたおまわり連がそれに加わり、転帰、国家権力特有のノーマーシーな制圧を喰らい、引っ立てられた。連行される与那に向かい、今や軒昂たる勝ち誇った表情を浮かべた平田、汹汹きょうきょうの罵声を放った。

「キチガイのサイコジジイが!!! とっとと死ね!!! ゴミキチガイジジイ!!! 生きてるだけで迷惑なんだよ、てめえみてえなやつは!!! 死ねよ!!! 死んじまえ!!! 死んだっていいだろ!!!キチガイ迷惑ジジイ!!! てめえには、生きる意味も、価値も、守るものも、なんにもねえんだから!!! キチガイジジイ!!!」

 確かに与那の生活、守るべきものも、生きる意味も、価値も、なにも無かった。だがそれでも、自分には守るべきものがあると、やたけたに號する必要がある。ぶざまで、みじめで、そのうえ極めて限定されている営為の裡、守るべきものがあるのだと、生きる意味が、価値があるのだと、無理にでも信じ込まなければ、それこそもう、死ぬ他無い。

 斯く思惟を働かせつつ、与那は平田の方を見遣った。剥き出しの歯、かっ開かれた目。醜いラツしてやがる。見ていると、先だってのセンチメンタルな心機はどこへやら、怒りが込み上げてきた。

「なんだ、クソガキ!!! 守ってもらった途端、でけえ顔してんじゃねえやい!!! てめえも男ならよ、死ね、なんて他力本願な言い方してねえで、おれがおまえを殺す、くれえのことを言ってみたらどうなんだい!!! この腰抜けが!!! 」

 叫びながら、与那はパトに押し込まれた。而して夙に述べた通り、留置場にぶち込まれたワケで。


[3]

 留置場にいる間、与那の心中ずっと、平田の「生きているだけで迷惑」という罵倒がエコーした。洗面時、ステンレス製鏡を覗いた与那、鏡裡のてめえと目が合って、はしなくも「余計者」という語を想起。存在しない方がいい邪魔者、生きるに値しない者、というほどの意味であるが、その語は与那に、ある種の啓示的重みを直感させ、転帰「生きているだけで迷惑」との言いが案外、てめえの存在の肯綮こうけいをブチ抜いているように思わしめ、与那を鬱鬱とさせた。

 留置場での無聊を、与那は主に、てめえが生まれてから今に至るまでの軌跡を回顧することで潰したが、往き詰まった人間の大方がそうであるように、過去とは痛恨と憤りを呼び覚ますものに過ぎず、加えて、社会から排除されては留置場という限界状況にぶち込まれている事実が、「生きているだけで迷惑」という言表に正当性を恵えるようであり、与那が居らずとも、屋壁のあなたでは変わりなく社会が脈動し、むしろ与那の不在で、より円滑に営為が展開しているのではないか、して社会の側では、余計者たる与那が永久に隔離されることを望んで居、平田の罵倒に同調しては衆口一致「生きているだけで迷惑なやつ!!! 死ね!!! 死んじまえ!!!」と號罵、サツに対しても「殺してしまえ!!! 社会の邪魔者など、社会に馴染めない個体など、排除しろ!!! 殺せ!!! 殺せ!!! 殺せ!!! 」というシュプレヒコールを上げているのではないか、という稚気めいた被害妄想を与那に惹起せしめては、ハナ「余計者」という音素配列に感じていた暗澹たるイメージを、より一層と強いものにし、転帰、そもそもが情緒不安定であるメンヘラ汚濁中年の与那を、自己破滅的な苦衷へと導いた。

 世には生来のグレハマ気質というか、如何しても社会へ馴染むこと能わず、その一生を孤独と低迷の裡に終える人間が、男女今昔問わず一定数存在する。絶望的な感覚の悪さというか、コミュニケーション地肩の致命的な欠缺というか、良かれと思ってする挙措云為すべてが裏目に出、それが見事に他人様ひとさまの顰蹙を買い、ぶざまに周章狼狽しては巻き返しを図るも、それすらダダ滑りして不和軋轢のもとになる。てめえの一挙手一投足が他人様の忌諱ききに触れる、ヤクネタ。どこへ往こうと、人並みの人間関係すら構築できず、世俗へ孤立し続ける裡、学習性無気力めいた諦念をふとこり、負け惜しみ式、人間嫌いを気取りはじめるものの、心中、人恋しさに苦哀輾転。転帰、どうにもならぬ現状に発狂、狷介固陋の殻を閉ざしては、社会への呪詛罵倒を続け、じき、愛に餓えて死んで往く、グレハマ。与那自身、斯くグレハマ連と、類を同した。

 与那の場合、斯く気質の他にも、そもそもの稟性下劣であるとか、曩に叙した癇癖やらメンヘラがはたらき、往く先先で瞬間的に人間関係が瓦解。いっかな社会に溶け込めぬまま、放浪者富蔵を続ける仕儀と相成った。

 たとえば顔がいいとか、なにか一頭地抜けた才でもあれば、些少の人格的欠陥なぞ問題にならず、人並みどころか超VIP待遇の世間的帰属もできようが、こと与那という男、不細工かつ諸事不器用なガラクタ野郎で、そのうえ興味関心や能力の幅が極めて限定されて居、そこへ合致せぬものには労を取ること能わず、無理くり取ったにしても、役に立たぬどころか他人様の足を引っ張る始末、たびたび不興を買った。ときたま運良く、てめえと合致するサムシングにめぐり逢い、ハナ順調なプログレスを刻めたにしても、いずれはグレハマと癇癖がラツを出し、すべてを崩壊させた。夙に述べたアマチュア・ボクシング、岩間スタイル、神学校にしても、当初は希望、情熱、可能性に充溢、それなりの成果とともに、徐徐とてめえの生活全体も、ウェル・ビーイングなものへと変ずる気配を見せたが、黄粱一炊の夢、やはり転帰、人間関係に於き、致命的な失態をカマし、いっさいお釈迦と相成って、どっとはらい。逃げるように場を離れた。

 而して馬齢を累ね、気づけば与那、一縷の希望も無い、生き恥晒しの汚濁中年と成り果てた。今や落暉らっきの趣を呈し始めた生活の裡、後ろを振り向いてみると、其処にはなにも無い。なにひとつ、無い。友も、恋人も、繫累も無い。居場所が、無い。「良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ(マタイ7章17節)」とは言い条、与那には、実そのものが無い。ジューンドロップどころか、木が実を成さなかった。与那は完全に、人生を棒に振った。

 曩時に読んだ小説の「あの男もこの世に少なくとも一人は、自分を愛してくれる相手を持つことができたのだ (光文社『死の家の記録』望月哲男訳)」という一節が身の裡に蟠踞ばんきょし続け、与那を懊悩せしめた。与那は愛されたかった。永遠に沈黙する宇宙の歴史の裡、前後を無限の闇に囲まれながら、一瞬のみ発火して消えるのが人間ならば、せめてその発火、なるたけ強力なものにしたい。強烈に存在したい。仮令いずれは虚無に消える人の営みであっても、その一瞬、誰かにとって、ポジティブな意味を持つ発火でありたい。併しこと与那、線香花火ほどの光力すら持たず、それどころか、そもそもがまともに着火せぬ欠陥花火。誰も居ない森の中で木が倒れたら音はするのか、という有名な問いに倣えば、誰にも気づかれないという点に於き、火のつかぬ花火なぞ、存在しないも同じ。

 否、それは誤りか。ただ一人鬱鬱とし、誰にも識られず消え往くのならまだしも、既述の通り、与那は有害無益の汚濁中年で。つまるところ、与那の発火、他人様からその発生を疎まれ、蔑まれ、呪われ、果てはその消滅を喜ばれさえする、迷惑なもの。「生きているだけで迷惑なやつ!!! 死ね!!! 死んじまえ!!!」

 強烈に存在したい。ポジティヴなものとして、他人様の世界へ、てめえの存在を刻みたい。情合を、持ちつ持たれつしたい。併し実際、所期が叶わぬどころか、「生きているだけで迷惑」と評される始末。

 そもそもが与那、人生というものに向いていないのかもしれなかった。生来、歩いて歩いて「居るべき場所を尋ね(士師記17章8節)」てここまで来たものの、どこにも根を持つこと能わず、糅てて加えて、その軌跡の十中九が他人様への害。「火は彼らの前を焼き、炎は彼らの後に燃える。……来る前では、地はエデンの園のようであったが、その去った後は荒れ果てた野のようになる(ヨエル書2章3節 )」与那、至る所で、質の悪い災害か疫の如く振舞い、場を壊し、他人様を傷つけた。「その人は生れざりし方よかりしものを(マルコ福音書14章21節)」蓋し、与那は生きているだけで迷惑な存在、生きるに値せぬ余計者に相違無かった。幼時の記憶、母からよく言われた言葉の響きが、身の裡に生起する。「おまえみたいなでき損ない、産まれてこなければよかった」

 <ボクは、死んだほうがいいのかしら。否、死ぬべきなんだろうな。一刻も早く>

 転帰、斯く抱懐とともに、与那は釈放された。


<下に続く>


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