第3話:影が差す

『個人特定中…』



 パソコンの内蔵カメラとキーボードが青い光を放ち、影の顔と指紋を瞬時にとらえた。


「しまった!」


 影はすぐに個人特定を止めようとしたが、既に遅かった。彼のデータは即座に中央サーバーに送信されていたのだ。



『1分以内に生体認証が行われなかったため、不正アクセスとみなしました。30秒後に“実力行使”を開始します』



 警告が表示され、30秒のタイマーがスタートした。


「まさか“実力行使”のプログラムまで組み込まれていたとは!」


 影は冷静さを保とうとしたが、心臓は激しく鼓動し、冷や汗が額を伝った。


「光の奴が仕掛けやがったな!」


 タイマーは寸分の狂いもなく0に近づいていく。


「衛星監視システムに情報が送られちまえば一巻の終わりだ!」


 7秒が過ぎたころ、影は震える手でデスクのUSBメモリを拾い、パソコンに差し込んだ。


 影は不測の事態に備えてプログラムを用意していた。それは、データを別のPCに送信し、IPアドレスやアクセスログを抹消するというものだった。


「間に合え…!!」


 影のプログラムは起動した。残り19秒。



『データ移行中…』



 その表示と共に、警告のカウントダウンも進んでいく。



『送信完了』



 残り14秒。 


 

『抹消中』



 影は拳を強く握りしめ、モニターに注意を払いながら逃走の準備を始めた。


 ノートパソコン、スマートフォン、いくつかのハッキングツール、小道具など最低限の荷物だけをカバンに詰め込んだ。


 それからポケットに手を入れて、サバイバルナイフがあることも確認した。


 その後もカウントダウンは規則正しく進み、それを追いかけるようにデータ消去プログラムも順調に作動していた。


 影の心臓もまた鼓動を早めていった。


 残り5秒、4、3…と進み、残り2秒で画面がフリーズした。



『完全消去完了』



 ポップアップがモニターに表示されると、数秒後にパソコンの電源がぷつんと切れた。


 それを確認した影も緊張の糸が切れ、ほっとして息を吐き出し、腰を抜かしたようにその場に座り込んだ。


 影は額の汗を拭い、自分の呼吸が落ち着きを取り戻していくのを感じた。


「間に合ったか…」


 影はこの時代で最も高性能なデスクトップPCを購入し、さらに自ら改良を加えていた。その卓越した技術力とストイックさのおかげで、ひとまず自分の身を救うことができたのだ。


「やれやれ…」


 影はタバコを一口だけ吸うとすぐに火を消した。それからカップのコーヒーを勢いよく飲み干し、手の甲で口を拭い、カバンを肩にかけて立ち上がった。


「安心するにはまだ早い」と影は呟き、玄関に向かった。




ーーーーーーーーーー




「あら、愛理ちゃん。いらっしゃい」


 菜摘は笑顔で言った。


「こんばんは、菜摘さん」


 愛理は少し曇った笑顔で答え、ゆっくりとカウンターの席に座った。


 店内にはいつも通り程よい音量でジャズが流れていた。落ち着いた空間に、ほんのりとコーヒーの香りがただよっている。


「拓海さんのこと考えてるの?」


 菜摘はように愛理の顔をのぞき込んだ。


「ちょっと、勝手に決めつけないでくださいよ!」


 愛理は顔を赤らめながら怒り、水を一口飲んだ。「まあ、そうなんですけど…」


 菜摘は口元を手でおおいながらフフフと上品に笑った。


「注文は何にするかい?」


「じゃあ…」と愛理は言って、頭の中でメニュー表のページをめくった。


「ハンバーグ定食で!」


 菜摘は笑顔でうなずき、カウンターの奥にあるをくぐり、キッチンへと向かった。電気コンロのピロリンという音が調理の始まりを合図した。


 菜摘がハンバーグ定食を作っている間、愛理は両手で頬杖をつき、壁に飾られている菜の花畑の絵画をぼんやりと眺めていた。


 愛理はこの喫茶店で注文を待つ時間に、いつも過去に思いをせ、保健室の先生と過ごした日々を懐かしんでいた。



 愛理は小学生の頃、親がカルト宗教に入っているという理由から、学校でいじめを受けていた。


 先生たちの配慮により、生徒がいる時間は別室で過ごすことを認めてもらった。


 その中でも保健室で過ごす時間は愛理にとって特別で、先生を母親のように慕い、甘えていた。




~およそ20年前~




「はい」と先生は言って、小さなメモ用紙を手渡してくれた。そこには漫画のように繊細なタッチで私の似顔絵が描かれていた。


「すごい…」


 私は胸を打たれて、その絵に釘付けになっていた。


「先生が描いたの?」


「そうよ。お仕事をサボって今描いたの」と先生は言って、唇に指を当てた。「2人だけの秘密ね」


 私は彼女のことを先生としてだけでなく、母親のような存在としてもかれ、さらには恋愛感情すら抱いていた。


 私がこれまでの人生で恋愛感情を抱いたのは、たった一人、同性である保健室の先生だけだった。


 この喫茶店で菜摘さんと出会った時に、私は先生と同じ魅力を感じ、それから彼女のことを母親のように慕い始めた。




~現在~




 配膳ロボットがハンバーグ定食のお盆を運んできた。香ばしいデミグラスソースの香りと、ジュウという音が食欲をき立てる。


『お待たせしました』と菜摘は仰々ぎょうぎょうしく言いながら優しく微笑み、ハンバーグ定食のお盆を愛理の前に置いた。


 愛理の表情は一気に明るくなり、


「いただきます!」と元気よく言って、定食を頬張ほおばり始めた。


 菜摘は使い終わった調理道具を食洗機に入れ、自分用のカフェインレスコーヒーを持って愛理のとなりに座った。


 愛理はナプキンで口を拭き、菜摘の方に目をやりながらしていた。


 その様子を見た菜摘は、


「今日はやけに様子が変じゃないかい?」と不思議そうに尋ねた。


 愛理は「うーん」と小さくうなり、水を一口飲んだ。


「恋って何だと思いますか?」


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2024年7月3日 20:00
2024年7月6日 10:00

全人類浄化計画 道端の椿 @tsubaki_michibata

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