第2話:桜田愛理という女

 桜田さくらだ 愛理あいりはレジでカゴを受け取り、柔らかい笑顔を向けた。


「あら、拓海たくみさん。いらっしゃいませ!」


 拓海は一瞬だけ彼女の目を見たが、すぐに視線を外し、「こんにちは」と事務的な返事をした。


 彼はかつて、情熱的な油絵画家「フジイ・タクミ」だった。


 しかし、いつしか女性に対する欲望が自身をむしばみ、純粋な芸術を忘れた自己嫌悪から挫折ざせつしてしまった。それ以来、拓海は女性との関わりを避けるようになった。


 拓海はスーパーの店長である愛理にれているが、過去の自分をかえりみて、必死で彼女への特別な感情を抑えている。


 愛理は拓海のない態度に少し戸惑いながらも、


「今、チョコレートの新商品が出てるんです!もし気になったら手に取ってみてくださいね!」と照れたように言い、レジ前に積み上げられているチョコレートの山を指さした。


「はい、気になったら」と拓海は冷淡に答え、無表情のまま店を後にした。


 愛理は拓海の背中を見送りながら、心の中でため息をついた。


(私はどんな人でも笑顔にできるのに、なぜか拓海さんにだけは上手くいかないわ…。それに押し売りみたいなことまでしちゃって…)と一人で反省会を始めた。


 愛理は幼い頃、両親がカルト宗教にのめり込んでしまい、暴力まで振るわれていた。彼女は中学を卒業した時に親とえんを切り、それからは孤独に生きてきた。


 愛理はかつて、画家「フジイ・タクミ」の熱狂的なファンで、彼の絵に心を救われていた。


 毎週顔を合わせるようになった常連客の名前が藤井拓海だと知った時、


「もしかして、画家の方ですか…?」と彼に尋ねてみたが、


「ただの同姓同名ですよ。珍しい名前じゃありませんから」とている。


 愛理は唯一自分に対して心を開かない拓海に頭を悩ませているが、それが恋心だということに彼女自身は気づいていない。


 幼少期のトラウマから心を閉ざしてきた愛理は、20代後半になった今でも異性に興味を持った経験がなかったのだ。


菜摘なつみさんに相談してみようかしら…)


 隣のレジで暇を持て余していたアルバイトの美佐みさは、愛理たちの様子を興味深そうに眺めていた。


 拓海がレジを通り過ぎた後、美佐は何げなく愛理に話しかけた。


「店長、あの人のこと好きなんですか?」


 愛理は驚いて「えっ!?」と声を上げ、顔を真っ赤に染めた。


「な、何を言ってるの、美佐ちゃん!」と慌てて手を振りながら、目を泳がせた。


 美佐はニヤリと笑いながら追い打ちをかけた。


「だって、店長があんなにするのって、あの人と話してる時だけですよ」


 愛理はさらに慌てて、


「そ、そんなことないよ!私はいつでも自然に対応してるわ!」と必死に言い訳をするが、内心では図星を突かれたことに動揺していた。


 美佐はいたずらっぽく笑って、


「純粋な恋愛ができるのってうらやましいな…」とはかなげに言った。「私なんて、まだ大学生なのに冷めた付き合いばかりですから。今の彼氏にも飽きちゃってるし」


 愛理は美佐に共感できず、何と答えれば良いかわからなかった。


「ほら、手が空いてるなら他の仕事するよ!」と愛理はごまかすように美佐を叱り、仕事に戻らせた。


 美佐は去り際にもう一度振り返り、


「店長、赤くなってる顔も可愛いですね」と笑顔で言った。


 愛理はさらに顔を赤くし、心の中でため息をついた。それからは仕事中も美佐の言葉が頭から離れなかった。


(私って周りからはそう見えてるんだ…)


 愛理はこの日、生まれて初めて恋愛を意識した。


 その日の夕方、愛理は喫茶店の菜摘に相談することにした。




ーーーーーーーーーー




 影は自宅の部屋にもり、どっしりと椅子にかかっていた。


(光の反応を見て確信したぜ。奴は水面下で危険な仕事に携わっている…)


 窓の外には満開の桜が月明かりに照らされ、柔らかな風が影のした髪を揺らしている。部屋の中は薄暗く、唯一の明かりはモニターの冷たいブルーの光だけだった。


「全人類浄化計画」と影は呟いた。


 その声はとした部屋の中で反響して、やけにうるさく自分の耳に返ってきた。


(あの会話をしたことで、逆に光の方も俺のことを警戒し始めただろうな。あいつは思慮深い男だ)


 影はブラックコーヒーを一口飲み、タバコを吹かした。


 頭の中でハッキングの流れを確認し終えると、すぐにタバコの火を消した。影は首と指の骨をポキポキと鳴らし、「さて」と呟いた。


 影は慎重にキーボードを叩き始め、政府のデータベースにアクセスを試みた。モニターに映し出されるコードの列に目をらし、ミスに注意しながらも淡々と操作を続けた。


 じめじめした部屋の中にキーボードを打つ音だけが響き、影の緊張感は増していった。


 影は難解なセキュリティーを次々と突破していき、ついに“浄化”ファイルに辿り着いた。


 「失敗は許されない…」と自分に言い聞かせた。


 額に流れる汗をぬぐいながらハッキングを続けていくと、指紋しもんと瞳の虹彩こうさいによる生体認証画面が表示された。


(どうしてここまで厳重なロックをしてやがる…)


 影の中でますます嫌な予感が膨らんだ。


「指紋と虹彩は誰のもんなら通過できるんだ…」


 影は再びタバコに火をつけて思考を巡らせた。


(光、総理、側近、デジタル大臣…)


 しかし、どの生体情報もすぐには手に入れられないとわかり、影はため息をついた。


万事休ばんじきゅうすか…」


 影が認証を切り抜ける方法を考えていると、急にモニターの画面が切り替わり、文字が点滅し始めた。




『個人特定中…』

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