第2話

「え、なになに!?こわい!」


 真朱の足元から突如煙が巻き上がり、一瞬の内に全身丸ごと包まれてしまう。驚いて思わず深く吸い込んでしまい、ごほごほっと激しくむせた。

 だが、驚いたのも束の間。むせている間に、先程の煙は夢だったのかと思うほどにすっかり姿を消してしまっていた。一体何だったのかと顔を前に上げると、そこには見知らぬ男性がいたのだった。

 たった今まで黒猫が座っていた、目の前にある青いポリバケツに、見知らぬ男性が腰掛けている。驚いてびくっと一度肩を震わせたが、すぐにその容貌に視線を奪われてしまった。

 濡れたような艶のある黒髪の、少し長めの前髪から覗く目元は切れ長で。長い睫毛に縁取られた瞳は黒曜石のよう。すっと通った鼻筋は美しいラインを描き、薄めで形の良い唇へと導いてくれるようだ。非常に美しい造形をしている。こんなに綺麗な人、見たことがない。

 人外の存在だと言われても納得してしまうくらい、目の前にいるこの人は大層美しかった。


 真朱の視線がずっと自分を捉えていることに気付いたのか、その人はにこっと笑って真朱に話しかけた。


「体はどう?違和感は?あぁ、急に動いたりしたらだめだよ。まだ体が慣れてないだろうから、きっと倒れてしまう」


 そうして真朱に近寄ろうとでもしたのか、すっと立ち上がると、前に一歩足を進めたのだ。

 そこで真朱は、自分が不躾に見つめたままなことに気がついた。「すみません!」と、慌てて視線を外そうとしたが、視線の高さが、いつもと違う。

 立っている成人男性を目の前にして、身長差がこれぐらいになる訳がないのだ。それに、先程何と言っていたか。「まだ体が慣れていないだろうから」とは、どういうことなのか。

 

 恐る恐ると、真朱は自らの右手を視線の前まで上げる。それは、記憶よりも長く、指先まですらっとしている。そのまま同じように左手も上げたが、右手と同様だった。

 持ち上げた両手で、今度は頬を包み込む。記憶よりも肉付きは薄く、やはり少しシャープになっている。

 居ても立っても居られないいられなくなり、辺りの建物の窓を探した。そして、一番近い窓へと手を伸ばし覗きこもうとする。だが、体を動かそうとした瞬間、体は大きく傾いた。真朱はそのまま倒れこむのを覚悟して、ぎゅっと固く目を瞑った。


「−−あっぶなかった。ほら、気をつけないと」


 くるはずだった衝撃の代わりに、感じたのは体を支えてくれる腕の感触と、焦った声色。瞼を開けると至近距離に男性の顔があり、思わず固まってしまった。

 改めて近くで見ると、本当に綺麗な顔をしている…。特に、瞳の色は黒だと思ったが、こうして近くで見ると僅かに金色が入っているようだ。

 綺麗な色だな、と少しぼうっと見入っていると、そのまま体を起こす形で立ち上がらせてもらった。


「あの、ありがとうございます」

「急に体を大きくしちゃったからね。ほら、姿を確認したかったんでしょう?」


 男性はそう言うと、指をついっと動かした。すると、覗き込もうとしていた窓が、まるで鏡のようにぴかぴかしたものへと変わったのだ。そのまま「ほら、見てみなよ」と、肩を支えながら真朱を前に立たせる。


「え−−」


 そこにいたのは、柔らかい黒色が胸あたりまである二十歳くらいの女性で。大きな瞳に小ぶりな鼻。形の良い小さめの唇と、紅を塗ったようにピンクに染まった白い頬。自分かもしれないという可能性を排除したならば、見惚れてしまっていたかもしれない。そう思えるほど、魅力的な女性がそこに映っていたのだった。


「ね、可愛いでしょう?」


 男性は、まるで自慢するかのような口調で胸を張る。その様子にぽかんとしてしまったが、男性がその雰囲気にそぐわず、良いことをしたので誉めてもらおうとしている子どもみたいに振る舞うので、毒気を抜かれてしまう。




「つまり、私はあなたの力で大人になったんですか?

「そう、大体二十歳くらいかな?多分身長は二十センチくらい伸びてるかもなぁ。急に体を大きくしたから、動くときの感覚がいつもと違うから気をつけなきゃだめだけど」

「確かに、なんだかいつもより体が長いというか…ぐいーんってしてる感じがします!」


 ここは路地裏。ひっそりとした空間の中、作戦会議のようにひそひそと会話をする男女が二人。女はポリバケツに腰掛け、男はその前に立ったまま会話をしている。


「そう言えば、真朱が大人になりたいって言ったのは猫さんになんですが、お兄さんが猫さんですか?」

「思ったより適応能力があって助かったと言うべきか…。そうです、俺が猫さんで、体を大きくしたやつです」


 見た目は麗しい二人だが、話している内容は当事者以外が聞けば、やばい奴認定まっしぐらである。


「せっかく大きくしてもらったのにあれなんですが…、このまま帰ってもおばあちゃん真朱だってわからないと思うんです…。元に戻すことはできますか?」


 そうか、人間は匂いで判断もできなかったかと男性は思い至る。成長しただけであって面影はそのままだが、そもそもそんなに急成長することが異常なのだ。戻すのは簡単だがなぁと考えたところで、一つの案を思いついた。


「戻すのはすぐできるよ。でも、せっかくだからその姿をちょっと楽しんでからにしない?絶対、安全に帰すから」


 戻れるのかという一番大きな疑念が晴れた後での提案は、非常に真朱の心を揺らした。それを読んでか否か、男性は畳み掛けてくる。


「確か、向こうにクレープ屋さんとかあったよね?可愛いお店もあったし、俺普段あんなお店とか入れないから、誰か一緒に行ってくれないかなぁ…」


 ちらりと、男性は真朱を見た。その目は「行きたい、行きたい」と訴えているようで、あまりの愛らしさに男性は吹き出した。

 真朱は自分がどんな顔をしていたのかなんて考えもせず、急に吹き出した男性を不思議そうに見る。



 うん、泣き顔なんかより、そっちの方がよっぽどいい——



 男性は口角を上げ、真朱の手を取る。さぁ、行こうというタイミングで、真朱は大事なことを聞いていなかったことを思い出した。


「あの、知っていると思いますが、私は真朱といいます。お兄さんの名前はなんですか?」


 一瞬、男性が息を詰めたのがわかった。その後、少し躊躇いながらも、口元が綻んでいくのがわかる。喜から怒、哀からの楽。表情の変化というのは様々あるが、こんなにも目が離せないものもあるのだと、真朱は初めて知った。


 まるで、蕾が花開いていくような。

 そんな、大切な瞬間を。



「俺は、玄っていうんだ。好きなように呼んで」

「——玄?素敵な名前だね」


 なんの変哲もない、ただの自己紹介の一文。それに、素直な感想を返しただけ。

 ただ、それを聞いた玄は、嬉しくて嬉しくて泣き出しそうな。そんな顔をしていた。

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その黒猫は路地裏からこちらを見ている 藍田一青 @issei_a

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