その黒猫は路地裏からこちらを見ている

藍田一青

第1話

「ねぇ、ねこさん。真朱のパンあげるからお話聞いてくれない?」


 今日は、天気の良い水曜日の午後三時半頃。

 路地裏にある青いポリバケツをベッドにして心地良いお昼寝タイムを過ごしていた一匹の黒猫は、ぴくりと耳を立てると邪魔をしてきた声の方へと重たい頭を上げた。

 こちらに向かってパンを差し出す少女を瞳には映すが、その顔はまだ夢の中だと言っても過言では無いほどしまりが無い。申し訳程度に耳を立てたまま、尻尾の先をぴくぴくと揺らす。


 猫もこんなに気の緩んだ顔をするのだと、真朱は感心した。


「…真朱ね、学校に行きたくないの」


 良いと言っていないのに話し出した少女を、段々と覚めてきた目で黒猫はじっと見つめた。

 ここ最近この路地裏で猫を相手によく話をしていく真朱は、猫達は聞く気が無ければその場を離れるものだと思っている。それ故、目の前の黒猫の反応を是だと解釈したのだ。真朱の話は続くが、表情はとても暗い。


「真朱は捨てられっ子だって、みんなが笑うの。確かにママもパパもいないし、おばあちゃんしかいないけど…。でも、おばあちゃんがいるもんって言ったら、おばあちゃんも真朱みたいな奴の面倒みるのなんて絶対嫌だって。本当はいらないと思ってるはずだって言うの」


 最近の子はなんて辛辣なことを言うのだと、黒猫は驚いた。それに加え、自分は寝起きに何を聞かされているのだとも思う。絶対に相談相手を間違えている。

 悩める猫たちの猫生相談にはのれるかもしれないが、人生相談にはほとほと自信が無い。黒猫は、困ったまま尻尾を右と左に振った。

 だが、一方的に始まった相談とはいえ、一度聞き始めたものを中断させるのも忍びない。良いアドバイスが出せるとも思わないか、とりあえず身体を横にしたままでは失礼かと、ゆっくりと座る体勢へと動く。

 尻尾の先がぴくぴくと揺れているのを、少女は興味ありげに見つめていた。


「他にもね、色々言われるの。声も顔も気持ちが悪いとか、うっとうしいとか…。真朱、そんなに気持ち悪いのかなぁ。何かしちゃったのかなぁ…」


 言われているときのことを思い出したのだろう。話している声が、どんどん震えていく。

 ぽつぽつと、足元のコンクリートにシミができた。黒猫は「今日は晴れだったはず」と、空を見上げた。だが、照りつける太陽に思わず目を細める。次に視線を戻したとき、少女の流した涙だったのだと気付いた。


 黒猫には、目の前で猫相手に悲痛な思いを吐露する愛らしい少女が、そんなことを言われるに値するような人間には到底見えなかった。


「真朱のおばあちゃんね、優しいの。大好き。だから、真朱のことで困らせてるならやだ」


 少女の涙は止まらず、顔をくしゃりと歪ませる。それに伴い、はらりはらりと涙は連なって落ちる。


「それにね、おばあちゃんに『友達と仲良くしてるかい?』って聞かれるたび、うんって答えてるの。優しいおばあちゃんに、真朱嘘ついてるの。おばあちゃん、嘘はだめだっていつも言ってるもん。嘘つき真朱だって知ったら、嫌われちゃう…!」


 震える声が大きくなる。それが、少女の悲しみの度合いを知らしめるようで、黒猫は目を反らすことが出来ないまま、言葉を吐き出し続ける少女を見つめた。

 

「だからね、学校に行きたくないし、おうちに帰るのも恐いの」


 少女が涙に濡れた瞼を、両手でごしごしと擦る。「擦ったらだめだ」と止めようしたが、咄嗟に持ち上げた小さい前足では到底役不足だった。


「真朱が素敵な大人だったら、おばあちゃんの役に立てるし、面倒にだってならないのに。あの子たちにだって、きっと負けずに言い返せるのに…。ううん、真朱が大人になったって、きっとこんな感じだよね」


 擦って赤くなった目元を細め、無理矢理に作った笑みで自虐的に笑う。あまりにも痛々しい姿に、黒猫の小さな心臓が音を立てる。


 そんな笑顔は似合わない。

 そんな風に笑うくらいなら、いっそ望み通りに。


 黒猫は、その金色の双眸で真っ直ぐに少女を見据えた。



「じゃあ、大人になってみるか?」




 少女の耳に届いたのは、少し低めの切なくなるような大人の男の人の声。

 聞き覚えが無いはずなのに、遠い昔を思い出させるような、どこか懐かしいとさえ感じる不思議な声。

 


 だが、そう認識したと同時に、突如現れた煙によって、少女の小さな体は丸ごと包まれることになったのだった。


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