蒼玉の骸

藍染三月

蒼玉の骸


 脈拍を失くした人体がサファイアのように青ばむ。そんな様を見たことがあるだろうか。


 決して、血の色が失せた肌を大げさに喩えたわけじゃあない。一般的に、亡骸なきがらの雪肌は真っ白。だがワタシが語る死体は、蒼天をも欺く芸術的な青を、その身に湛えていく。髪から爪先に至るまで、悲しいほど青やかに凍りつく。


 ラピスラズリの粉を用いた画家でさえ、屍の青は描けない。あの寝姿はさながら輝石を集めて作られた彫像だ。半透明に変色した肌から臓物が見えなければ──或いはその故人の生き様を知らなければ──芸術品にしか見えないだろう。


「つまり、ワタシが何を言いたいか……もうお分かりでしょう? 貴方が怪しいオークションに出そうとしていたその氷像は、氷像ではなく誰かの遺体なのです。死者への冒涜はやめて、ワタシにお譲りください」


 ワタシの目の前では、スーツ姿の男が狼狽えていた。


 ここは小暗い舞台裏で、ホリゾント幕の向こうから入札の声が響いてくる。相対するワタシ達の爪先は、白いワンピースを着た少女に向けられていた。


 少女が横たわる絨毯は赤い。血によるものではない。生地そのものの色だ。少女は血を流すことなく、青々と死んでいた。


「あ、あんたはなんなんだ……! 何を言っているんだ!? 何者だ!? 警察か!?」


 焦燥した顔で彼は返事を待ち、ワタシは返答に窮し。二つの影が静止画然として固まった。


 彼は人身売買を生業としている人間で、ワタシはワケあって死体を収集している紳士。ワタシがここに来た時、少女は既に息吹を絶やしていた。彼女を持ち帰ろうとした時に彼が現れ、今に至る。


 ワタシはぱちくりと睫毛を絡ませて、喜色満面のままコクコク頷いた。


「警察、ええ、ええ、警察ということにしておいてください。ワタシはフォルカー・ラウツェニング。警察です。美しい遺体を──いや、変わった遺体を集める担当でしてね?」


「……もしかして警察じゃないのか?」


「警察デスヨ」


「あ、怪しすぎる! そもそも俺はこの子を殺してなんかない! 開場前まで生きてたんだ! あんたが殺したんじゃないか!? 人を呼んでくるからそこで待って──」


 鈍い音を響かせたのは、踵を返した彼の靴と、彼の頭蓋だ。ワタシが手持ちの杖で彼の側頭部を殴ったのであった。


 言い訳をしておこう、殺そうとしたわけではない。ワタシは決して殺人者ではないのだ。それゆえ、横ざまに倒れ込んだ彼が、背中を丸めて呻いている姿にホッと安堵した。


「危ない、殺すところだった……。本当に警察を呼ばれる前に逃げないと……」


 拍手の雨が幕の向こうで篠突く。ワタシ宛てではない歓声を布越しに浴びながら、コントラバスのケースへ青い遺体を押し込んだ。青く染まった少女の痩身は冷たい。真冬の川に触れるような、それはもう、総毛立つ冷たさだった。


 ワタシはこの温度に、精神的には慣れてしまっている。それでも体が拒絶する。冷汗が吹きだす鳥肌をさすって、柔和な笑みを暗路に残して、ワタシは会場を後にした。


 舞台裏よりも日暮れ前の街路の方が明るい。夕紅に濡れた石畳を踏み鳴らす。楽器ケースはやや目立つが、遺体を運んでいるとは思われない。そう言い聞かせても緊張感は拭えず、鎮静するべく懐から錠剤を取り出して噛み砕いた。顰蹙するほどの苦味が、心音を落ち着かせていった。


 夜が近付いた公園は日中よりも寂としている。子供の数を片手で数えられるくらい、ものさびしい。木々の多い道を選んでいれば、目の前にボールが転がってきた。


 公園の方から転がってきたのだろうか。ふ、と足元を見下ろして、心臓が跳ねた。ひときわ大きく響いた鼓動は錯覚だったが、『大きな音』、それ自体は実際のものだった。


 足元のボール──もとい少女の生首──と密着するように、路傍から彼女の体が倒れてきたのだ。


 ワタシの視界で、首を失くした少女の躯幹が凍り付いていく。むき出しの肌は彼女が着ているワンピースよりも白くなり、不透明だった表皮は次第に青みを帯びて透き通る。隠れていた骨が、透過した皮膚によって暴かれる。しなやかな肢体の頼りなさが浮き彫りになっていた。


 原因不明の、青く染まる遺体。それが、今まさに目先で、神秘的な光景によって、形作られていた。


「……持ち、帰らないと」


 ワタシは込み上げる情感に抗うことなく、膝を突いて楽器ケースの蓋を開いた。


『何故突然、この少女が目の前に現れたのか』。『誰が彼女を殺したのか』。


 ワタシは極めて理性的な顔をしていたが、それらの疑問を考えられるほどの理性は、もはや消え去っていた。


 先刻回収した遺体を横目に、楽器ケースの空間を確認する。もう一人つめこむ余地はありそうだった。


 道端の少女に向き直ると、ワタシは生首を持ち上げた。赤らびいた夕照に、彼女の長い赤毛がよく映える。アカフウキンチョウの羽毛のような、ふわりとした赤茶の睫毛が上下した。


 まばたきをする。ワタシが、ではなく、生首の少女が。


「持ち去るのは、自分が殺した遺体じゃなくてもいいんだな」


 桜色の唇が開いて、少女はアルト声でそう言った。猫を思わせるツリ目がワタシに笑いかける。


「お前が殺人犯なのか、それとも死体愛好家なのか分からなかったんだが、死体愛好家が正解だろう? だって殺しが目的なら、既に斬首されている私を持ち帰ろうとしないはずだ」


「それは……」ワタシは上手く声を出せなかったが、引き攣った喉で続けた。「それは、何のお話でしょうか?」


「とぼけるなら、せめて楽器ケースを閉じてからにするんだな」


 少女の呆れ声に、思わず背後をかえりみる。開きっぱなしの楽器ケースの中で、青い遺体が夕焼けによって赤ばんでいた。


 ワタシの手の平では生首が身動ぎをする。その感触にゾワゾワしながら、物言いたげな生首に向き直った。


「私は、このあたりで頻発している少女の殺人事件と、遺体が失くなる事件について調べに来たんだ。まあ、簡単に容疑者が見つかるわけないか、と思いながらも、わざわざ『白いワンピース』を用意してね。白いワンピースは被害者の共通点だから、コレを着て歩き回っていれば、手掛かりが掴めると思ったのさ」


「そ、そうでしたか。いえ、ですがキミ。容疑者って……ワタシのことですか? ワタシがキミを殺したわけでも、攫う為にキミを尾行した覚えもないのですが……」


「それはそうだ。尾行していたのは私の方。私がこの格好で街を歩いていたら、人身売買の商品と間違われたんだよ。私はそいつに事情を訊いてオークションの会場に向かった。そこで、会場から出てきた怪しい音楽家──すなわちお前を見つけた。楽器ケースの紐を肩にかけず、引きずるような持ち方を見るに、楽器を弾く人間でないのは明らかだった。そしてその中身が、コントラバスより重い物であることも、ね」


 ぽっかりと口を開けて硬直しているワタシに、彼女は彼女のペースで続けていく。


「私が自分の首を切り落として、お前の眼前に飛び出したのは、お前の反応を見て犯人かどうか確かめる為だったが……うーん、やっぱりまだ正確な犯行が分からないな。お前はその子を殺したのか? 殺人犯から盗っただけ? 新聞にも載っている『フォルカー・ラウツェニング』という名は、お前の本名か?」


 荒波に勝る勢いで、滂沱たる質問が鼓膜に流れ込んできて頭を抱えた。彼女はようやく黙ったものの、首を左に傾げ、右に傾げ、落ち着きのない仕草で返事を待っていた。


「ええ……と、申し訳ありませんが『自剄じけいした生首と会話をしている』という、わけのわからない状況に思考が追い付かなくて、ですねぇ……?」


「あ、そうか。私の首の、切断面どうしをくっつけてくれ。それで治るから」


 今度はワタシが首をひねりながら、言われたとおりにした。すると切断面は線すら残らず無傷の様相で繋がった。蒼褪めていた体も熱せられるように色を取り戻す。


 立ち上がった少女が木陰に向かった為、その間ワタシは楽器ケースの蓋を閉じることにした。


 ガラガラと、車輪が石畳に転がる。少女は旅行鞄を引き摺って、斜陽を遮る位置に留まった。


「先程の質問ですが……ワタシは、フォルカー・ラウツェニング。青い氷像のような遺体を探しています。遺体の共通点は『白いワンピースを着た少女』であること。不思議な力を持つ犯人が、同じような少女を殺しているのだと思いましてね……ワタシ自身の妹も同じ姿にされたため、犯人を探すべく青い遺体を集めていたのです」


「ふむ……なるほど?」


「ですが、キミは本当に自分で首を切り落としたのですか? キミの体も、今しがた氷のように青く透き通っていきましたが」


 問いかけつつも、嫌な汗がうなじに流れた。この少女が犯人なのではないか、という疑念が発露していた。


 首が離れても死なない異常な少女、殺害した遺体を青く染める犯人。どちらも不可思議だ。遺体を盗んでいるワタシを、犯人が罰しに来たのではないか。


 少女はワタシの疑いを気取ることなく、生真面目な顔様で顎に手を添えていた。


「お前の話は、よく分からない部分も多いが……まあ、その犯人探しに協力しよう。これから帰るんだろう? 宿を探していたからちょうどいい、お前の家に泊まろうかな」


「つ、着いてくる気なんですか? そもそも本当にワタシの捜査に協力する気で? 警察でも大人でもない、キミのような子供が何故?」


 小さな花唇が穴を広げる。『私が犯人だから』。幻聴は夕烏の鳴き声に攫われていた。


「私は作家なんだ。アストリット・アーノルト。聞いたことは?」


「い、いえ、全く。自称作家で?」


「なんだと失敬な。事件の話で連日、戸を叩かれるほどの名の知れた作家だ。警察も私の知恵に縋りたいらしい。まあ、だから毎日煩わしくてね。早くこの件を解決したいんだよ」


 つまるところ、彼女はどうやら作家であり、探偵のような働きもしているみたいだ。とすれば、事件の関係者であるワタシを解放してくれることはないだろう。


 諦念から溜息を吐き出して、彼女に背を向けた。頭痛と吐き気を覚え、愛用している錠剤をじゃらじゃらと口に放り込んだ。


 煉瓦道を踏み鳴らす。X川に掛かる橋に踏み入れば、靴音とキャリーケースの車輪がうるさく響く。視界の端で、アストリットの衣服が揺れていた。


 ひらめくワンピース、欄干のない石橋から眺める水平線、川波とヒールの合奏。それはワタシに白昼夢を見せようとする。


 瞼の裏で妹が笑った。白布が揺れ動き、妹は楽しそうに踊る。真新しい金の靴は私がプレゼントしたものだ。実家にほど近いこの橋は、妹にとって幼い頃からステージで、ここでの彼女はワタシだけの踊子プリマだった。


     ◆


 アストリットはワタシの家に着くなり、「着替えるから部屋を貸せ」と言ってきた。渋々ワタシの部屋に通し、ワタシ自身は妹の部屋で遺体を眺めていた。


 暖かな室内にいるのに、妹だけが水底にいるような様子だった。ベッドのシーツは黄ばんだ白、その上で寝返りすら打たない彼女は、空気に溶けてしまいそうなほど、ただただ青い。枕元には遺品となった靴がひとつ、置かれていた。


「妹さん、埋葬してやらないのか」


 振り返ると、開けっぱなしの扉の前にアストリットが立っていた。長い髪を一まとめに結った彼女は、着用されているハーフパンツも相俟って少年のようだった。思い返せば、口調や振る舞いにも初めから淑女らしさはなかった。


 少年だったのか、と訊ねようとして、質問されているのが自分であったことを思い出した。


「妹は、この事件を解決するまで手放せません。青い遺体が存在する、という証明ですから」


 ふうん、と相槌を打った彼女──ないしは彼──が、ロングブーツを鳴らして妹に近付いていく。凍りついた青に浸る妹へ、憂わしげな眼差しが注がれる。遺体の脈拍を確かめるためか、繊指が蒼玉の胸元に触れていた。


 それを眺めるワタシは背筋を粟立てていた。判然としない嫌悪、或いは恐怖が、目に見えない虫となって心臓に絡みついたのだ。アストリットが念入りに胸骨をなぞる様を、見ていられなくなった。


 ワタシが一歩踏み出した時、アストリットは出し抜けに言った。


「とりあえず食事にしないか。私は空腹なんだが」


「え……ええ、分かりました。食堂で待っていてください。何か用意します」


「は? 食堂には他の少女の遺体があっただろう。お前は死体の腐敗臭が蔓延する中で飯を食うのか?」


「青い遺体は腐敗しません。この部屋も、なんの香りもしないでしょう?」


 アストリットは形のいい鼻を小さく動かして、眉根を寄せていた。香りの問題ではない、と言いたいのだろうか。だが結局、彼は前髪を掻きむしってから大息を吐き出した。


「あぁもう……分かった。食堂で待ってる」


 彼が先に退室して、ワタシもそれに続こうと思ったが、足は妹の方に進んだ。


 息を吐くことさえない美しい寝顔。蒼然たる肌は室内光を受け流してつやめく。人型の水面を見つめているようだった。耳鳴りが波紋を生み、ワタシはしばらく、さざめく波音を聴いていた。


 頭痛に瞼を持ち上げて、台所へ向かってから数刻。


 トーストを持って食堂に行くと、アストリットが着座することなく、食堂の端から端まで見めぐらしていた。細長いテーブルの奥には、青い少女が数人、仰向けに眠っている。その奥の、小棚の上に散乱している紙束や、部屋の隅にあるオーク材の本棚を、アストリットはまじまじ眺めていた。


「食事ですよ」とワタシが呼びかけて、ようやく彼は──紙束に伸ばしていた手を止めて──振り向いた。


「お前、役者だったのか?」


 アストリットは、椅子に腰かけながら問いかけてきた。


「皺だらけの戯曲ホンが何冊もあった。出会った時から、仕草も物言いも芝居がかっているとは思っていたが」


「はは、まさか。ワタシはただの、妹を亡くした兄ですよ。舞台に憧れていたのは妹です」


 ふうん、と零した彼は机上のトーストを銀器でつつく。トーストはハムと目玉焼きがのっているシンプルなものだ。なにを気にしているのか、彼はナイフで目玉焼きをめくって、ハムをめくって、『よし』といった顔で一口大に切り始めた。


 ワタシはその真向かいに座ると、薬が入った瓶を取り出す。銀色の蓋を捻り、手の平に出そうとしたが、アストリットの細腕に奪われていた。


「なんだこれ。お前、どこか悪いのか?」


「ただの精神安定剤の類ですよ。ワタシは心が弱くてねぇ」


「こんなものに頼るな。私といる間は没収だ。事件の捜査に、酒と薬は禁物だろう」


「警察でもない子供のくせに……」


 ワタシのささめきを、彼は聞き逃さなかった。柳眉をV字に歪めると、テーブルクロスに一発、握り拳を打ち付けていた。


「これでも若き天才作家なんだぞ。私の戯曲が上演されたこともたくさんある。『アストリット・アーノルト』、本当に知らないのか?」


 こくこく点頭するワタシに、長いため息が吐き捨てられる。呆れ顔の彼はワタシから奪った薬瓶を懐に仕舞い込む。すると、埃でも浮いていたのか、虚空を片手で払ってから、トーストの一片に口付けていた。


「とりあえず、お前の妹について教えてほしい。亡くなった状況とか」


「そうですね」ワタシは閉目して、眼裏の思い出をなぞった。


「妹は……河岸で亡くなっていました。ワタシが駆け付けた時にはもう、青い遺体になっていたのです。見たことがないほど真っ青で、恐ろしいほど血管が透けていて。ワタシはどうすればいいのか分からぬまま、ながらく彼女の傍に座り込んでいました。心音よりも、嗚咽よりも、水の音がかからめいていたのを、今でも覚えています。ワタシは……夕焼けが燃えつきて、黒々と炭化したような夜天に変わるまで、本当に、ずっと動けなかった。理外なほど青ばんだ、サファイアに似た妹を、じっと凝視みつめていました」


「……妹の死因は? 溺死したのち、岸に流れ着いた可能性もあるんじゃないか?」


「いいえ。妹は──臓物を潰されて亡くなったのですよ」


 星のない夜の川を、回想していた。


 街明かりも見えない一面の黒。半透明の妹が、そのまま透き通って消えてしまいそうで、そうなるのを恐れて、ワタシは華奢な体を抱き上げていた。そうして家まで走った。走っても走っても、川の音はどこまでもついてきた。


 自宅に逃げ込めば音は静まった。寂び返った部屋の中、涙ぐんだ目で青い妹を打ち守った。彼女は氷同然に冷たかった。甲高い無音が鼓膜を刺し、刺し、刺し続けた。


 やがてワタシは脱力し、妹をベッドへ横たえた。両足が妹に背を向けて、逃げ出そうとした。けれどよろめいて、壁に倒れかけた。


 ふ、と面を上げれば、壁掛け鏡に映ったワタシは亡霊みたいな面様だ。冷え切った己の手も、死人さながらに色を失くしていた。


 耳元で鈍い幻聴が木霊した。それは、とうに止んだはずの余韻。



 ぼきん、と、心が折れる音だった。


     ◆


 ワタシは、アストリットに思い出話を沢山聞かせた。よく笑う妹。よく踊る妹。歌いながら踊ることで、質素なワンピースでもドレスになるのだと、彼女は朗らかに語っていた。


 彼女は昔から御伽噺が好きだった。『貧乏な自分でもお姫様になれるかもしれない』と、そう言笑したのはシンデレラへの憧れからだろう。たびたび寸劇を始める彼女に、ワタシは王子の代わりをやらされた。


 そこまで語って、ワタシは一日の疲労感に負け、眠ることを提案した。アストリットがワタシの部屋を使い、ワタシは妹の部屋の地べたで眠った。


 夢の中でも、妹は踊っていた。華やいだ桃顔は、とても嬉しそうだった。妹の声は聞こえない。その代わり靴音が橋梁に響く。シンデレラと同じ金の靴が、石橋を叩いて跳ねる。ワタシからの贈り物が嬉しいのだと、軽快な足付きが物語っていた。


 跳び上がった彼女のワンピースが、裾を広げて円を描く。中空の彼女はまさにドレスを纏っているようだった。


 まばたきをした後。


 橋の上に、金の靴がひとつ、残されていた。もう片方は見当たらない。妹は橋の上にいない。妹は──。


 水泡とともに夢が弾けた。ワタシは重い瞼を持ち上げて、現実に焦点を合わせていった。ずいぶん深く眠っていた気がする。そのせいか、霧が晴れのいたように目覚めていた。


 鮮明な視界で妹のベッドを見上げる。眼路を蝿が横切った。その煩わしさと、つんと鼻を刺す臭いに顔を顰めて立ち上がった。


 妹を眼差して──ワタシは、目を瞠ることしか出来なかった。いや、無意識下で鼻と口を覆っていた。


 青々としていた人型の宝石は、土気色の遺体だった。小さな、たくさんの蛆が、妹の氷肌を這い回っていた。悪夢のような光景だった。まだ夢を見ているのだと、思いたかった。


「──薬は抜けたか?」


 アストリットの鮮やかな赤毛が、にじみのない現実の色でそこにある。黙然と立ち尽くし、彼の問いを反芻するワタシに、彼は涼しい顔で彼我の間隔を狭めていく。


 近付けば近付くほど、ワタシは二つの玲瓏玉から目を離せなくなっていた。鷹のそれとよく似た金目が、ワタシを身震いさせた。


「お前の名前を、もう一度教えてほしい」


「名前って……昨日も言ったでしょう。ワタシはフォルカー……」


「『フォルカー・ラウツェニング』は、私が書いた戯曲の登場人物だ」


 吐く息が痙攣する。耳障りな沈黙が単なる沈黙なのか、虫の羽音なのか、或いは耳鳴りなのか。それを思惟する時間を、彼は与えてくれない。


「お前が犯行の目撃者に『フォルカー・ラウツェニングだ』と名乗っているせいで、作者である私に『とばっちり』が来てたんだ。毎日記者と警察が押しかけて……まぁいい。お前の、本当の名前はなんだ」


「……ワタシは」


 己の口角が引き攣っていく感覚を、頬が痺れるくらい味わっていた。表情の作り方が分からなくなっていく。耳鳴りが甲走ってざらついていく。アストリットの声は、波打つ幻聴の向こうにあった。


「フォルカーは、私の本の中で悲劇の青年だった。暗闇の夜に妹を殺されて、毎夜、顔の分からぬ犯人を探し続けた。犯人と似た背格好の男を殺し回る殺人鬼となり、最後は父親を殺してしまって正気に戻る。……妹を亡くしたところはお前と似てるな。でも違う。お前の妹は、殺されたわけじゃない」


 存在しない波の音が、アストリットの声を追いかけていた。ワタシは脊髄を上ってくる寒気に、凍えていた。


「どうして……」


「お前の妹は溺死だ。この部屋に来た時、ちゃんとこの目で確かめた」


 冽々とした空気が見えない夜を連れてくる。息が詰まるほど恐ろしく、項垂れるほど重苦しい、一面の黒。耳殻では、止むことのない、波の音。


「ちがう、妹は、殺されて、青い遺体に……」


「青は、非物質的な色と言われている。どこまでも空虚で、物質を空気に紛れ込ませる。まるで鏡の向こうの色だ。お前はきっと『フォルカー・ラウツェニング』という虚像と入れ替わって、ずっと鏡の向こう側にいたんだ。お前は、フォルカーじゃない」


 現前で、夜と今が明滅する。見え隠れする黒に遮られながら、アストリットの片手が持ち上がるのを認めた。人差し指がワタシを、いや、ワタシの後背を、示していた。


「鏡を覗き込め。お前はどのくらいの間、鏡を見ていないんだ?」


 浅い息が、出来損ないの笛声てきせいのよう。ワタシは喘鳴を噛みしめて振り返った。壁掛け鏡にワタシが──やつれた男が、映っていた。


 ぼきん、と、鈍い音がした。



 覚えている。



 覚えている、覚えている。あの瞬間の音が木霊する。ぼきん、と、妹の骨が折れる音。妹の心が折れる音。繰り返し繰り返し、あの音が聴こえる。あの音。あの、音。


「ワタシは……、僕、は」


 ぼきん、と────妹の胸骨を、僕が圧し折った音。


 青い遺体。そんなものは、初めから無かった。燃え立つ晩照をも呑み込む川の青が、瞼にこびりついて離れなかった。水の冷たさが消えなかった。水中で見た妹の姿を、角膜が忘れなかった。


 白いワンピース姿の遺体が全て、あの日の妹に見えた。幾度となく幻視していたのは、果てのない青に包まれた、妹だった。


 泣き出しそうな虚像の僕を見つめる。僅かに視線を逸らすと、鏡越しにアストリットと目が合った。彼はどうしてか、優しい目をしていた。


「お前は『フォルカー』じゃない。現実逃避はお終いだ。お前の悲劇に、犯人はいなかったんだ。お前は胸骨圧迫をして妹を救おうとした。その最中、骨を折ったショックで手を止めたんだろう? だとしても、その間に妹が死んだのはお前が骨を折ったせいじゃない。殺人鬼フォルカーになりきって、無関係の人を殺す必要なんてなかっただろ」


 彼の慰めを咀嚼した。味は分からなかった。涙を拭うと、仮面が剥がれ落ちたような気がした。


 僕は、僕として、彼に向き直った。


「……名前を、聞いてくれただろ。僕は、ニクラス。ニクラス・レーヴェ。君の言う通りだ。事故だったんだ。妹は、橋で踊っていた時に、橋から落ちた。慌てて僕も川に飛び込んで、妹を引き上げたが……救えなかった。僕が、彼女の骨を折って殺してしまったのだと、思って」


「そんな現実を、認めたくなかったんだな」


「……僕のままじゃ、もう、立ち上がることすらままならなかった。だから、かつて演じた『フォルカー』として生きようとしたんだ。妹の為に犯人を捜す、強い兄になりたかった。


 そうしたら今度は『フォルカーの為に』犯人を作らなければならなかった。だから考えた。連続殺人には模倣犯が現れやすい。模倣犯を、フォルカーの復讐相手にしようと思った。


 白いワンピースの少女を殺す模倣犯が現れるまで待って、この手で少女を殺して、待って、殺して……壊れそうになるたびに薬物を飲んで。その幻覚も相俟って、僕を忘れていった。僕自身が、無関係の少女を殺した事実さえ、忘れていった……!」


 叫声の余響は、僕の心の虚しさを具象するようだった。泥に混じる雪のごとく、冷たくて、虚しかった。


「ニクラス。『フォルカー』は、犯人に似た男を殺し回った殺人者だ。けど、フォルカーは決して、妹に似た少女を殺しはしない。お前がしてきたことは、妹を何度も殺しているようなものだ。お前は少女を殺し続けた『酷い兄』のままでいいのか? 妹を喜ばせる主人公ヒーローになりたくて、役者をしていたんじゃないのか」


 生前の妹を、思いなだらむ。妹の喜ぶ顔が見たくて、役者になった。妹を笑顔にしたくて、溜め込んだ給料で金の靴を買った。彼女はあの日、確かに、誰よりも美しいシンデレラだった。僕が王子になれなかっただけだ。


 眠る妹を見遣った。枕元で金の靴が光る。それは片足だけ。もう片方は、きっと青に攫われた。


「……自首、するよ。ちゃんと、ニクラスとして、全部白状する。君の作品に泥を塗って、すまなかった」


「ああ。ただ、お前の妹にとっては、どの役でもなくお前自身がヒーローだったはずだ。妹を救う為に川へ飛び込んだ勇気も、必死に胸骨圧迫を試みたことも、お前は誇るべきなんだよ。お前は、立派な兄だった」


 彼は柔和に咲笑うと、打って変わって仏頂面で付け加えた。


「だが『フォルカー』をかたって犯した罪は別だからな」


 用は済んだ、と言わんばかりに廊下へ向かう彼。その背を、引き止めずにはいられなかった。


「アストリット」


 僕は、振り向いた彼に問いかけた。


「青い遺体は、幻覚だった。だが君は──あの時どうやって首を切り離し、生首で喋っていたんだ? あれも幻覚だったのか?」


 金のツリ目が、きょとんと気抜けていた。


 彼──ないし、彼女──は、ふっと悪戯っぽく笑った。


 謎めいた作家は嘘か真か分からぬことを言う。


「事実は小説よりも奇なり、ってやつさ」

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