他人を愛せなんていわないで

間川 レイ

第1話

「私、結婚するんですよ」


 なんて、よく話す職場の後輩に言われたのは、残業終わりの帰り道。駅へと向かう道すがらでのことだった。


 えええ、本当?すごいじゃない!なんてわざとらしく声を上げる。さも心底から喜んでいるように見えるように。でも、本当は私の心は凪いでいた。冗談みたいに凪いでいた。いや、正直に言うと馬鹿みたいと思っていた。


 何で結婚なんてわざわざしちゃうかな。結婚なんてしたところでいい事なんて何一つないのに、なんて。そんな苛立ちにも似た思いを抱えていた。それでいて、そんな反応を示す私の心が酷く醜いようなもののように思えた。よく話す後輩の晴れ舞台。それこそ友達に近いぐらい親しく話している子の一世一代の晴れ舞台。そんなめでたいことなのに、どうして素直に祝ってあげられないかな、なんて。


 私は結婚という言葉が大嫌いだった。結婚というシステムを憎んでいた。理由は簡単。結婚したカップルというものにいい思い出がなかったから。私の両親が典型例だ。ある程度関係性が改善された今ですら思う。子供のころの両親はろくでなしだった。


 私の両親は、世間一般に言う教育ママだった。教養を磨き、良い学校に行って、良い大学に行って、良い就職先に就職する。それが子供の幸せだと信じて疑わなかった。だから娘にはたくさんの習い事をさせた。たくさんの塾に行かせた。そこまではまあいいだろう。それはあくまで子供のためを思ってのことだったのだから。だけど、私の両親は苛烈に過ぎた。


 例えばピアノの発表会。練習はしていたものの、緊張のあまり碌な演奏ができなかった。何できちんと練習しないの、そのせいで恥をかいたじゃないと怒られた。例えば塾。自分なりに勉強はしていたけれど、成績が伸び悩んだ。お前はふざけてるのか、こんな成績でどこの大学に行くつもりだと力いっぱい顔面を殴られた。そんな話には枚挙にいとまがない。たくさん殴られたし、たくさん罵られた。成績が悪ければ、この屑、このボケと罵られ、礼儀作法ができていなかったら親に恥をかかすなと力いっぱい殴られた。そのほか寒風吹きすさぶ寒空の下、薄着一枚で放り出されたこともあったし、髪の毛をつかんで引きずりまわされたこともある。


 それでいて、家族仲はいつだって悪かった。父親は確かに優秀な人間だったが、優秀すぎて周りが馬鹿に見えて仕方がないと言う人間だったし、母親は母親でプライドの高い人間だったからいつだって我が家では喧嘩が絶えなかった。いつだってお互いに対する罵倒や悪口が飛び交っていた。そして、その悪口に迎合しないと露骨に機嫌が悪くなるものだから、愛想笑いの浮かべ方ばかりが上手くなっていった。


 そんな家が私の家だった。私にとって家とは束縛の代名詞だった。私は子供心に不思議だった。どうしてこの人たちは結婚したんだろうって。そんな家で育った私が、結婚なんてものに憧れを抱けるはずがない。


 でもそんな私の内心に気づくことなく後輩は惚気る。ありがとうございます。ちょっと内気なところもあるんですけど、そこが可愛くって。この間彼と一緒にランチ食べに行ったときなんて。どこが素敵でどこが可愛いか、そう話す後輩の瞳は幸せそうにとろんと蕩けていて。


 やめて。やめてよ。内心そう呟く。そんな幸せに浮かされたような顔をしないでよ。そんな他人を愛して愛されて幸せですみたいな顔をしないでよ。そんな顔をされたら、他人を好きになれない私が馬鹿みたいじゃない。他人を愛することができない私が、あんまりにも惨めじゃない。


 そう、私は他人を愛することができない。好きになることができない。異性から愛という感情を向けられるのが堪らなく気持ちが悪い。あのじっとりとした情念の込められた眼差しも、浮ついたような言葉も、すべてが気持ちが悪い。他人を好きになるという頭の回線が焼き切れているのかもしれない。


 それでも、好きな人について語る後輩の目はとてもキラキラとしていて。人生を満喫しているというような感じがする。そういう姿は素敵だなと思う。でも、私には他人を愛することも、愛されることもできないのだ。私にできない幸せを満喫している姿は、疎ましくて、羨ましくて、妬ましくも感じる。


 それに、そういう風に周りの人が結婚していくと、年も年だけに貴女は結婚しないのという眼差しを向けられているような心地になるのだ。現に彼氏はいないのと聞かれたりすることもある。そういう眼差しを受けるとき、私は頭を掻きむしり叫びたしたくなるのだ。ああ、うるさいうるさいうるさい。放っておいてよ。確かに私は他人を愛せない。人間としてどこかおかしいのかもしれない。人間として欠陥製品なのかもしれない。でもだからってそれを治そうとしないで。他人を愛せなんていわないで、と。そう、叫びたしたくなるのだ。


 だからこそ私はいろいろ入り混じった感情を飲み込んで後輩に言うのだ。ありったけの思いを込めて。


「おめでとう。末永くお幸せにね。」


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他人を愛せなんていわないで 間川 レイ @tsuyomasu0418

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