第4話 遠征
今朝も彼にはまだ寒かった。温暖化が進んでいると聞いているが一年すべてが夏になるわけではない。前日の雨の影響が残っている車内は特別に冷たかった。エンジンをかけ暖房を入れた。ガソリン車はエンジンをかければ直ぐに暖気が届くのでありがたかった。エンジンをかけたつもりがバッテリー駆動を始める車を彼は好きになれない。
高速道路の強行軍後であろう車に乗ってから、彼は片道五百キロメートルの高速道路を何回も乗っている。北に南に東に西に。いまさら当時の行程がわかるわけはなかった。着いた先は海もあれば山もあった。それでも多くは街中で降りることになるだけだった。高速道路の出口は無数にある。限りはあるが数えきれない。既に当たりを引いているのかもしれなかったが彼にわかるはずもなかった。
彼は履歴を毎回残してきた。行き先で給油をしたときはルール違反の未清掃になるがレシートを車内に残したこともあった。誰かが気づいてくれることを祈りながら。気づいた人は何を思うのか。気づかれたら気味悪がられるのか、ただの偶然と思われるのか想像していた。
この小旅行を初めてから利用料も高速料金も嵩んでいた。仕事でないから経費にすることもできない。ただの趣味であり、ただの気晴らしだった。運営元にはなにも迷惑をかけていない。自家用車との費用対効果の分岐点を超えていた。よい客になっていた。彼はお金のかかる趣味だと思っていたが楽しんでいた。五百キロという制約が方向性を与えてくれた。
行き先が定まらない運転は楽しかった。どこに着いても良い。走行距離を見つつ走らせていたが、大まかには移動時間で考えた。二時間も走ればもはや知らない土地になる。四時間走ればこれまで何も縁がなかった土地になる。それでもときおり古い思い出の中の地名がでてくることが面白かった。初めの数回は律儀に往復していてが、高速道路を入ることにこだわらなければ道順は自由だった。自宅に近づけば見慣れた道を走ることになるが、それもせいぜい最後の一時間だった。
好きに車を走らせれば、知らない土地は広くとも頭の中の地名は有機的に結びついてきた。気づかずに見知った道をとおることもあった。人の記憶力は驚くべきものだ。道順は思い出せなくとも、その場の景色に刺激されると古い記憶を引き出してきてくれた。カーナビなど使わなければ、もっと必然的に道を覚えていっただろうと思った。
今の頻度で運転していれば自家用車を持つほうが維持費も含めて経済的だった。それでも彼が車を買わなかったのは、車を使わなくても良い今の状態が好きだったし、ふとしたきっかけで車が不要になるかもしれないこともわかっていたからだった。一年程の期間を見据えれば安い中古車であればこの趣味は続けられるだろう。それでも特定の車に縛られないことも快適だった。物を持ちたくない悪癖が現れていることも自覚していた。車を持ち駐車場を借りることの責任を避けていることも理解していた。のめり込みたくないだけだった。
彼はあんな突発的な車の利用に再現性があるとは思っていなかった。だからこそ気兼ねなく後追いできていた。借りられる車はありふれたもので、行き先で同車種を見かけたところで鉢合わせたとは思わかった。色が同じであればもしかしたらとは思っても特段珍しい色ではない。からかい気分のもしかしたらでしかなかった。
目的のないドライブでも、続けていれば車のクセも体に染み付いてきた。手足のようにとはいかないが運転に不安を感じることは思い出せなくなっていた。ときおり慣れない車種を運転すれば、日頃の慣れを思い出させることになった。
彼は何度目かわからない五百キロを走っていた。仕事でも相変わらず運転は続けているから、車を運転することに対する特別感はなくなっていた。一部では街中での運転が最も上手なのは営業者の運転手だといわれている。運転の量は少なからず質に変化していた。運転に慣れた頃に事故はおきそうなものだが、運転を楽しめる彼の中では運転の特別感が適度な緊張を維持していた。
彼は自宅を出てからこれまでで最も東へ到達していた。太陽に向かって走っても不思議と抵抗を感じなかった。太陽に惹きつけられ引き上げられる感覚を味わえたのは生まれた初めてだった。高速道路は高架を経て平地を走っていた。空を近くに感じることができた。運転の操作から開放されて移動の手段として彼と一体となった車にとって目的地のないドライブは自分を最大限に表現できる場になっていた。
カーナビには方角だけを設定する機能はついていなかった。彼は方角の代わりに後は千キロ東の地点を目的にして経路案内を開始していた。カーナビの指示に従って運転すれば、ときおり見失うことはあれども常に太陽が正面に現れた。不思議と眩しさのない日差しを浴び先を見つめるだけで過ごすことができていた。五百キロだろうが四時間だろうが限界を定めるものは失われていた。
今日は山沿いの道が多く海は見えなかった。都会のビルが切り取る空と異なり、山が切り取る空は閉じることがなく上方に開けていた。そんな空を見ながら、彼は空の奥行きを感じようと努力していた。切り取るのではなく、すくい上げるのだと懸命に右足を踏み込んだ。
喧騒を得られない騒がしさの中を車が滑り続けていた。周囲を走る他の車はおらず、建物の見当たらない山道を走っていた。それでも舗装された道路は続いており、車が走るために整えられた場所であることは明らかだった。いくつもの峠を超え僅かずつに空を広げていた。広げられる限界まで来たときに彼は車を降りた。目指していた太陽は雲の影に隠れていた。日差しが遮られた一瞬の寒さと湿り気を帯びた風が彼を現実に引き戻しつつあと僅かのところでその空間に溶け込ませ続けていた。
彼は腰を反らし両手を上げて背筋を伸ばした。眼前には鬱蒼とした森が見えていたが隙間から街を覗き見ることができた。不便さしかない場所だが眺める分にはいつまでも見ていられた。彼が荷物をすべて置いて車から離れることは滅多にない。仕事中は必要な資料はあるし、遊びでも道具は必要だし財布は手放せない。ただ車の外に出て、ただ歩くことがこれほど難しいことだとは今日まで思わなかった。
車を降りた彼は歩き続けた。舗装された道も歩いたし道がなくとも構わずに入り込んだ。彼は腕時計も車に置いてきていた。身につけているものは服だけだった。なぜここに来たのか、誰がここに連れてきたのか、自分が何をしているのかを考えることはできなかった。太陽は見えなくなっていた。
彼の自宅の隣の駐車場には、朝霧の中にいつもの車が駐められていた。今日もまた誰かを乗せて走り出すために。車の中には塵一つ見当たらなかった。
鎮車歌 オダクニオ @suzum
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