第3話 挨拶

肌寒い朝が続く。彼が今日も運転する車は自分のものではない。使い始めたときは新鮮に感じられた車たちも、乗り慣れてくれば高揚感はなくなって久しかった。慣れはマンネリを生むが愛着も湧いてくる。体に馴染む安心感も手放せない。覗き込んでエンジンキー押すことはなくなったが、始動させることで力を借りる感覚は今日も感じていた。前回の使用者は誰だったのか、わずかに斜めに停車した車内からは駐車場の出口が別世界の入口に見えることを記憶にとどめていそいそと車を発進させた。


彼は走り出してからガソリン残量が心もとないことに気がついた。一割弱といったところだ。見慣れない記号が点灯していた。最近の車は燃費が良い。この車種もご多分にもれずその傾向が強い。日常的な車の貸し借りでは燃費が良い車がお互いに好まれる。大食感に乗りたければそういったサービスを使えば良いがここに居場所はない。車の航続距離からすると走れる距離は残り約百キロメートルだ。目盛りが零になってもしばらく走れるがリスクはとりたくない。ガソリンスタンドが見つけられれば入ることにした。


ここまで余裕なく返車されることは珍しかった。次の利用者が気付かずにガス欠になれば面倒なことになる。自分が給油の手間を省ければよいというチキンレースを選んでいるのか、ただ面倒なだけなのか、警告が出てから入れる人だったのか。彼は車が使えればそれで良かった。多少の汚れも気になったことはない。


よほど急いでいたのかもしれなかった。用事の日程がシビアであれば給油などしていられない。スピードメーターの隣には前回給油してからの実燃費が表示されている。見るとかなり良かった。彼がこれまで見た中でも最良の部類だ。高速道路を走り続けなければ出てこない数字だった。


彼は、先日海沿いの道の駅への行程は往復五百キロだったことを思い出したが、この燃料になるまで高速道路を走り続けば、往復で千キロ近くになったかもしれないと思い、どこまで行ったのかと想像したが片道後五百キロの土地勘はなかった。一日で往復したとすれば強行軍だ。車内を見回したがヒントはありそうになかった。


今朝、車は珍しく斜めに止められていた。前輪の向きはどうだったか。曲がっていたのではなかろうか。よほど急いでいたのか。行きも急ぎ、帰ってきても落ち着きがないとは尋常ではなかったのかもしれなかった。


土地勘はなくとも片道五百キロが近くないことはわかる。高速道路に乗れば利用料金も馬鹿にならない。電車でも飛行機でも行く方法はあるのにわざわざ車での弾丸行程だ。夜中に急に出発しなければならなくなり移動手段が車しかなかったのかもしれない。戻ってきてからの用事も欠かすことができずに夜中に往復しなければならなかったのかもしれない。もしかすると今朝戻ってきたばかりだったのかもしれない。最近の車はエンジン音も静かだし運転後に熱を帯びた空気も出してこない。車は効率が良くなりどんどん冷たくなってきている。


片道五百キロの根拠も脆弱だ。給油していれば距離は伸びるし、たまたま高速道路の利用者が連続したかもしれなかった。車を共有しているとはいえ次の利用者にわかるのはこの程度だ。カーナビの履歴もあてにならない。前回の行き先を記録する機能は搭載されていなかった。






普及したドライブレコーダーは彼が運転する車にも搭載されている。貸出車両を管理するためにも有用だ。車内は録画されていないがトライブレコーダーを嫌がる利用者もおり、定期的に運営元にオンオフの切り替えをできるようにしたいとの要望が届いているそうだ。利用者のためではなく運営のために搭載されていることをオブラートに包んだ回答が定期的に返送されていることだろう。要望の内容によっては要注意リストに登録されてもおかしくない。見られたくないことを伝えることは利用者には悪手でしかない。無難に他の一般利用者にまぎれることが最もサービスを効率的に利用する術だ。幸いにも彼は運営に言いたくなったことは皆無だった。ドライブレコーダーに記録さていることさえ、いつか優良ドライバーと認められれば良いと考えていた。


車の運転は、お互いの信頼がなければ不可能だ。車線変更や合流が難しく感じられるのは当然だ。相手がルールを守る前提でなければ円滑に運転はできるわけがない。その信頼を数秒の間にときには一秒に満たない間にしなければならない。この信頼関係を築かない人が事故を起こしている。お互いが少し思いやることで事故の芽は穏やかに枯れてゆく。






現場に到着するまでに家を出てから一時間が経っていた。予定時間には間に合っていた。今日の滞在時間は2時間を予定していて暗くなる前には家につける予定だ。順当に作業を続けていると予定外の予定が入った。遅くなってもいいから見てきて欲しい現場があるらしい。


「以前行ったことがありますが、確認と言われても現状はわかりませんよ。あそこは確か田中さんのところに引き継いでいませんでしたか。田中さん動けないのでしょうか」

大した手間ではないが、直前に追加の業務を求められれば状況を知りたかった。元請けからの依頼だが彼が行く必然性はなかった。一日分の日当は支払うからどうしても行って欲しい。問題ないはずだから本当に確認だけでいいからと頼み込まれた。最初から受けるつもりだったが困惑は伝えておいた。後から細かいことを言われたくなかった。とりあえずで良いから行って欲しいとの言質をもらい直ぐに車を発進させた。


彼は言われた確認だけを済ませて帰路についた。感謝の言葉も受け取って不満はなかった。不満があるとすれば日が落ちてから運転をしなければならなくなったことに対してだけだった。


夜道は視界が悪く周りの車の挙動も分かりづらい。彼は夜道の運転に苦手意識を持っていない人が不思議でならない。日中と同じ速度で走っている車は絶対に前方が見えない中で走っていると信じていた。危険な運転に付き合いたくなかった。


ライトが車の輪郭を照らしているが道路そのものの輪郭が見えなくなれば道を外れる恐れがある。運転手の顔も見えず次の挙動が予想できない。来るのか来ないのか迷っている間に状況は変わってしまう。ウインカーを出さない車がいつ事故を起こすのか楽しみだった。


夜中の運転の楽しみといえば、危険だからこそ運転手どうしで理解し合ったときの一体感だった。彼は自分の運転を汲み取ってもらえればよかった。サンキューハザードはいつから生まれたのだろう。一説によれば一九八〇年代に遡るという。その頃広まったのであれば、それ以前よりあったことだろう。車とはいえ主体は人である。ハザードやパッシングなど会話はできる。煽り行為もコミュニケーションだがもっと大切なものがあると思っている。サンキューハザードを焚かせる動きであればいくらでも仕掛けたかった。帰り道に二度成功させた彼は追加業務のことはもはや念頭になかった。

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