第2話 遠足

彼は自宅隣の駐車場で車内に座っていた。今朝は小雨が風に舞っている。車内から天井を叩く雨音を聞いていると、車に包まれているのか雨に包まれているのかわからなくなる。車を叩く音に加えて、雨が降る音さえ聞こえてくる気がしていた。


今日仕事はない。出かける用事もない。こんな日に朝から車を使うことはこれまでにはなかった。少し目覚めが悪く、このまま心地よい音色とともに眠ってしまいたかった。目を閉じれば半日は睡眠に消えるだろう。幸い外はまだ薄暗い。


目を開いていられるうちに、カーナビに行き先を設定した。昨日の朝に残されていた誰かの行き先だ。普段はカーナビの履歴は利用終了毎に初期化され残されない。利用者のプライバシーを守るための仕様だ。毎回リセットすれば管理が容易なのはどんなシステムでも同じだった。それでも時折前の設定が残っていることがある。初期化しきれていないのは、この車だけの問題なのだろうかと気になるが、大した問題とも思えないので運営に聞く手間を掛ける気にはならない。何度も利用する人は気づいているはずだが、誰も問題にしていないのだろう。運転する時間が増えれば支払う費用も増える状況で、ゆったりとカーナビの状態を確認する人も少ないのかもしれない。こういった車は淡々と目的地が設定され淡々と運転されるものなのだ。行先を設定するときに、入力していない候補地が出ていることなど気に留める者は少ない。それが予測変換によるものか、履歴によるものなど大した問題ではない。


履歴が他の使用者に漏洩しても、誰がそこへ行ったかは直ちにはわからない。その場所に本人はもはや居ないのであり鉢合わせることもない。張り込みやストーキングはできるかもしれないが、そこまで手間を掛ける人に対しては小手先の履歴消去などものの役に立たない。直接車を追跡すれば目的は達せられてしまう。プライバシーが問題になるのは、問題になるといわれたプライバシーに限るのだ。声を上げなければ問題とならない。車が利用できなくなることや、代替車が来るまで時間がかかるのは不便だから、このままで本当に良いと彼は思った。


そもそも、履歴を見ても特段面白くない。自家用車ではなく都度課金の車での行先といえば、たいていは病院、役所、ガソリンスタンドぐらいだ。自家用車を持つほど車を使用しない人の使い方など多少の距離を乗ってもその程度だった。一日中使用する人や日をまたいで使用する人は多くない。


短時間の使用者が多い中で、彼は長時間の使用も珍しくない。朝から夕方までの使用もしょっちゅうしている。彼の出発までの時間はゆったりしている。律儀に車内の様子を確認し、ボンネットも荷室も中を確認し、タイヤ周りも確認する。ここまで形式どおりにする人はいない。多少の問題なら後からでも保険で対応できる。それでも、彼は寝ぼけた頭を覚ますために丁寧な発進を心がけていた。慣れない車でもあるから、車を見渡すことで事故を防げると信じている。自分がまだ寝ていることには気付けない。手足を動かしていれば朝の涼しさも心地よくなってゆく。ひと段落ついてから車に乗り込み、駐車場に設置された標識に従って駐車場を左曲がりに出た。


彼には今日の目的地は当たりの匂いがしていた。片道およそ二百キロメートルだ。帰るまでに五百キロは運転することになるだろう。履歴に残されていたのは、海沿いまで出たところにある鉄道の駅だけだった。周辺の履歴はなかったが、駅から電車に乗り換えたのだろうか。それとも、ナビなど使わずにドライブを楽しんだのか。到着してから見えてくるのが楽しみだった。


都会から少し外れた自宅から海に出るにはざわついた都心部を通る。都会のごたついた道を運転していると彼は教習所で習ったことを思い出す。いわく、広い道を通れ、車間距離は広くとれ、煽られても気にするな、事故を起こさないことが一番偉い。彼は車を運転するたびに思い出していた。教官の顔も名前も思い出せないが、これまで事故を起こしたことがないのは教官のおかげだといつも思っている。当時は何が大切か知らずに聞いていたことも、ふとした時に思い出す。


広い道は車のために整えられている部分が大きい。狭い道は周囲に気を使う分、気力も時間も余計に使う。車間距離は前の車が急停車しても対応できる分を開けておけとはいうものの、そんな車の方が少ないことはもう十分に知っている。それでも追突するのは恥ずかしかった。前の車が急停車しても止まれる制動距離を開けた運転をしていれば、煽られたり後ろを詰められたりすることも日常茶飯事だ。それでも彼は追突してきたら相手が悪いし、追突したら自分が悪いと思って運転していた。


すでに二百キロ走っていた。目的地が近づいてきた。助手席側には海しか見えない。走っている車の数も少ない。観光地だが今日は平日だった。彼は仕事からも自宅からも離れたこと以上の開放感を楽しんでいた。都会近場の観光地の本当の魅力はこの平日の開放感だ。


広い駐車場が目につき始めた。店舗併設のものもあれば、用途のわからないものもあった。道の駅もあるが、ただの区画分けされた空き地に見える場所もあった。広い空き地があった。駐車の誘導線は引かれているので車を止めてよさそうだったがそのまま通り過ぎた。車社会特有の空間だった。気づけば日は完全に落ちているが、止める場所に迷いながらカーナビの指示が終わるまで彼は車を運転し続けた。






太陽は天頂に昇りきっていた。周辺の車内には人影がちらほら見える。仮眠なのか座席を倒しきっている人もいた。カーナビの指示に従い運転しきった彼は広い道の駅の駐車場に到着した。平日午前中の駐車場は空きが目立つが入れ替わり立ち替わり車が出入りしていた。空き続けている場所はない。道の駅の特性どおり周りに民家は見当たらない。駐車場の奥には海が見えていた。彼は駐車を続けていると車には潮風が悪いそうだと思った。自分の車を運転していればこの日差しの中での駐車を躊躇したかもしれなかった。車の痛みを気にしなければ周りに騒がしい建物もなく半分が海に囲まれた道の駅で、動く個室の車の中にいることはとても心地よく、仮眠をとる気持ちがわかりすぎた。ここには個室の広大な群れが定住していた。


昼間こそ暖かさを感じるものの海水浴の季節にはほど遠い。海辺の人もまばらで騒いでいる人は居ない。誰もが一片の心地よさを手に入れている素晴らしさがあった。人目をはばかることもなく自分を謳歌できる人だけが醸し出す空気に溢れていた。言葉を発する必要もなく意識を集中させる必要もなかった。何も生み出す必要もなく何も消費する必要もない。車を走らせる気にもならない。しばらく前から音が煩わしくなっていたエンジンを切ると湿った空気が眠気を誘った。彼はここの履歴を残した人に感謝しつつ座席を倒した。






行先で快適に過ごしても帰り道で現実に戻される。家に帰るまでが遠足だといわれたのは彼が小学生の時だ。注意喚起のためだと思っていたが、家に帰るまで遠足の余韻を残してくれていた優しさだったのかもしれない。都心の道路は車線が多い。車線を増やせば通れる車の量が増え道路が混雑することがなくなるのは建前でしかない。道路は広げなければならないために広げられ、広げなければならないほどには広げられない。広い土地があるだけの場所では車線を広げられることはない。車線を広げれば事故の種類も増える。増えた車線を当たり前のものとして道路は広がっていき、右左折するだけにも数百メートル前から準備が必要になる。直前の標識を見ながら運転していてはクラクションを鳴らされ追突される。左車線を走行していれば安全だという甘えが許される場所はどこにもない。右折するためには複数回の車線変更が必要になり、直進したいだけでも左車線を走り続けることは許されない。法定速度を守っていれば後ろに渋滞を生み、安全に気を使えば自分が煽られる。車線をまっすぐに走っているだけでも右左折車を躱した隣車線から幅寄せされる。タクシーはどこでもいつでも急停車する。家に着く頃には出先の思い出は擦り切れて写真の中にしか残っていない。都心は車に向いていない。


車は人の特定に霞をかける。仮面を被ると人格が変わるように、車を運転することは社会的に許された複数人格の顕現の場を生み出す。旅の恥はかきすてであり車での傍若無人は他人事だ。周りの快適さを犠牲にして仮面を被った者は社会の摩擦を増やし続ける。


車が好きな人が、人を好きだとは限らない。隣の車を嫌うのであればその人が好きなのは車ではなく自分でしかない。車はただの凶器となり、できることならば排除され

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