第3話

 次の日の朝、お兄さんと一緒にアパートから一番近くの駅まで歩く。

 昨日適当に降りた駅とは違っていて、住宅街を抜けたすぐ先に小さな駅があった。


「じゃあ、気をつけてね」


「はい。本当にありがとうございました」


 今朝目覚めた時、昨日の感情が嘘だったかのようにスッキリとしていた。

 それはきっと、何も知らない私のことを認めてくれて、大切にすると言ってくれたお兄さんがいたからだ。

 その優しさに包まれた目覚めは、私にこれからも頑張っていく気力をくれた。

 そんなお兄さんとの別れがひどく寂しい。


「流れていく時間の中で嬉しいな、楽しいな、頑張れたな、そういう瞬間が少しでもあれば生きていて良かったなって思えるよ。だから死のうなんて考えたらダメだよ」


「え?」


 お兄さんは真剣だった。真剣に私に死んではダメだと訴えている。それがなんだがおかしくて顔が緩んでしまう。


「え? 僕なんか変なこと言った?」


「いや、私別に死のうとかって考えてた訳ではないです」


「え!? そうなの? てっきりあの時橋から飛び降りるのかと思って」


 だからあんなに私を気にかけてくれていたんだ。初対面の女にあんなに親身になるなんて下心があるのかと思ったけど、そうではないし。

 でも、自殺志願者を止めようとしていたのなら納得がいく。


「お兄さんだって人を救える力を持ってますよ。自分のことを偽物だなんて言わないでくださいね」


「うん。そうだね。僕もユキちゃんに救われたよ。ありがとう」


 名残惜しく思いながらも、ホームに入ってきた電車に乗る。


 扉が閉まった後も見送ってくれるお兄さんに小さく手を振り、お互い見えなくなるまでずっと見つめ合っていた。


 駅が見えなくなると空いている席に座って景色を眺める。


 家を飛び出した時、死のうなんてことは考えていなかったが、もうどうなってもいいとは思っていた。

 ただただ、現実から逃げたかった。

 逃げた先に何があるのか、逃げた後どうなるのかなんて考えていなかった。

 けれど、こんな出会いがあるのなら逃げてみるのも間違いじゃないのかもしれない。

 そんなことを思いながら見慣れた景色の中へ戻ってきた。



 それからまた勉強ばかりの日々が続いた。

 相変わらず母はヒステリックに私を叱責することはあったけれど、以前ほど母の言葉が気にならなくなった。


 私は頑張っている。ちゃんと頑張れている。だから大丈夫。

 あのお兄さんのおかげでそう思えるようになったから。

 



 そして季節は巡り草木が芽吹き始める頃、私は今お兄さんのアパートの前に来ている。


 以前ここに来た時とは違い、しっかりとお洒落をして来た。フレアのロングスカートにニットのカーディガン、肩ほどの髪を緩く巻き、リボンの付いたハンドバッグを持つ。

 バッグの中には一通の手紙が入っている。大学の合格通知だ。

 お兄さんにまた会いたいと思っていた。会いに行く理由が欲しかった。

 だから絶対に志望校に合格するんだと頑張った。

 お兄さんのおかげで頑張ることができたんだと、お礼を言いに来られるように。


 大きく息を吐き、緊張した胸を落ち着かせるとインターホンを鳴らす。


 ブーと鈍い音が鳴った。

 中からドタドタと足音が聞こえてくる。

 そして玄関のドアが開いた。


「はい」


「え……」


 部屋から顔を覗かせたのはお兄さんではなかった。

 お兄さんよりも背が低く鋭い瞳の男性は私を見て首をかしげる。


「誰? なんか用?」


 男性の様子からしてここはこの人の部屋だ。

 お兄さんは引っ越したのだろうか。


「あの、以前ここに住んでいた人は……」


「以前? もう何年も俺が住んでるけど」


 何年も? だって私がここに来たのは半年前だ。二階の一番右端の部屋で間違っていないはず。お兄さんは僕の家って言ったのに。

 訳がわからずどうすることも出来ない私は、知らない男性の前でただ佇んでいた。


「もしかして、ユキちゃん?」


 お互いに少し気まずい沈黙が流れたあと、男性が私のことをユキちゃんと呼んだ。


「どうして名前を?」


「兄貴がユキちゃんって子が訪ねてくるかもしれないって言ってたから」


「お兄さんの、弟さん……」


 この部屋は元々弟さんの部屋で大学を休学していたお兄さんはここでしばらく生活をしていた。

 あの日はたまたま弟さんは夜勤で居らず私を泊めたらしい。

 そしてお兄さんはあれから数日後に大学に復学したそうだ。


「兄貴、ユキちゃんって子に会ってからなんかスッキリした顔してた。暫く置いてくれって来たときは廃人みたいだったのに」


 優しくて穏やかなお兄さんだったけれど、何かを抱えているような気がしていた。

 お兄さんも私と同じようにあの日の夜がきっかけで前を向けているのなら嬉しい。


「あの、お兄さんはどこの大学に行っているんですか? 県外ですか?」


「アメリカだよ」


「アメリカ?!」


 電車で行ける距離ならば会いに行きたいと思った。でも流石にアメリカには行けない。


「いつ戻ってくるとかはわかりますか?」


「さあどうだろ。両親もずっとあっちで医者してて兄貴もたぶんアメリカで外科医目指すんじゃないかな」


「そう、ですか」


 いつかまた会えると思っていた。会いに来ようと思っていた。会ってこの気持ちを伝えようと思っていたのに。


 合格通知の入ったバッグを持つ手に力が入る。


「あのさ、ユキちゃんて子が来たら伝えて欲しいって言われてることがあるんだけど」


「え、なんですか?」


「『あの日の夜のことは一生忘れない』だって」


「っ……」


 『一生忘れない』その言葉がどれだけ私を惑わせ、悲しませ、喜ばせるかお兄さんはわかっているのだろうか。

 お兄さんはずるい。本当にずるい。忘れない、という言葉が忘れさせてくれない言葉になる。

 

「あの、私もお兄さんに伝えて欲しいことがあります」


 バッグの中から手帳とペンを取り出し私の気持ちを綴る。

 書いたページを丁寧に破き、弟さんに渡した。


「よろしくお願いします」


「わかった」


「突然訪問してすみませんでした。それでは失礼します」


 弟さんに深く頭を下げてからアパートを後にする。

 来た道を戻り、電車に乗って慣れた場所へと戻っていく。


 私は座席に座り破いた手帳を開く。去年の八月のページはもうない。


 本当は書ききれないほどたくさん伝えたいことがあった。文字だけでは伝えきれない思いがあった。


 でも、きっとこれだけでいい。


 『私も、あの日の夜のことを一生忘れません』


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あなたが救ってくれたあの日の夜を私は一生忘れない 藤 ゆみ子 @ban77

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