第2話


 コンビニのある路地を曲がり、車は通れないほどの狭い道を入った先のアパートがお兄さんの住居だった。


「狭い部屋だけど、どうぞ」


 鍵を開け、中に入るように促される。

 手当てをするためだと言っているが、入ってしまえば何をされても文句は言えない。

 それを覚悟の上でこの部屋に入る。


「お邪魔します」


 外観から察してはいたが思っていた以上に狭い。

 正方形の小さな玄関に入ってすぐのキッチン、その横にリビングがあるが、シングルのベッドと丸いローテーブルだけで部屋はいっぱいで、隅に小さなテレビと気持ちばかりのクローゼットが備わっているだけの部屋だ。 


 お兄さんは私の手を引きベッドに座らせてくれる。

 そしてクローゼットを開けると、普通の家庭に置いておくには大き過ぎるほどの救急箱を取り出してきた。


 救急箱を開け道具を準備すると、まずピンセットで丸綿を掴み消毒液を染み込ませる。


「足、触るね」


 親指の爪全体を消毒し、ニッパー型の爪切りで割れた爪を綺麗に切り取っていく。その後小さく切ったガーゼで親指を覆うとテーピングを巻いた。


「とりあえずこれで大丈夫かな」


 お兄さんはそっと私の足を床に置く。少し大げさな手当てのような気もするが、その手際の良さに驚いた。


「こういうの慣れてるんですか? 道具もちゃんと医療用っぽいですし」


「道具は昔からこれくらい揃ってるのが普通だったから。あと、一応僕医大生なんだ」


「そうなんですか?」


「といっても今は休学してふらふらしてるだけなんだけどね」


 そう言うお兄さんはなんだか苦しそうだった。

 何かを抱えている、そんな表情だ。

 自分ではどうしようもない、苦くもどかしい感情。私にはよくわかる。

 けれどお兄さんはすぐに表情を戻すと、立ち上がり私の手を取る。


「ユキちゃん、送っていくよ。家はこの辺?」


「いえ。家は遠いです。電車を何本も乗り継いでここまで来ました」


「そうなんだ。終電も過ぎてるし帰るのは難しいか」


 私はベッドに座ったままお兄さんの手をぎゅっと握る。


「帰りたくないです」


「え……」


「泊めてもらえませんか」


 お兄さんは困っている。悩んでいる。それもそうだ。私だって自分の言っていることが、知らない男の人の家に泊めてもらうことが、おかしいことだってわかっている。

 でも、家には帰りたくない。

 なりよりまだお兄さんと一緒にいたい。お兄さんのことを知りたい。

 この短い時間でそんなふうに思うようになっていた。


「……わかった」


 しぶしぶだが頷いてくれたお兄さんに安堵しながら強く握った手を離した。


「ありがとうございます」


「うん。お風呂、入る?」


 走って歩いて汗をかいてはいるけれど、さすがにお風呂に入るのは気が引ける。


「一応、入ってきてるので大丈夫です」


「そっか。じゃあ僕はシャワー浴びてくるから寝ててね」


 お兄さんは着替えを持って洗面所へ入っていく。

 微かにシャワーの音が響く中、壁に向かって寝転びベッドの端に寄る。

 寝ててと言われたが、本当に寝てしまってお兄さんは何もしてこないのだろうか。

 覚悟と不安が入り交じり、目をつむってはみるものの眠れそうにはない。


 今更になって一体何をしているのだろうと思えてくる。

 このままどうするのだろう。お兄さんと一夜を共にして朝になれば家に帰るのだろうか。

 そして今までと変わらない生活を送るのだろうか。


 そんなことを考えているとお兄さんがシャワーを浴びて出てきた。

 目をつむったまま寝たふりをする。

 するとお兄さんは私にタオルケットを掛け床に寝転んだ。


「そこで寝るんですか?!」


「ユキちゃん、起きてたんだ」


 体を起こし床に寝転んだお兄さんを覗き込む。


「私、体は小さい方ですし、お兄さんも巨体って訳ではないですし、なのであの、一緒にベッドで寝ませんか」


 私が床で寝てもいいが、お兄さんはきっと譲らないだろう。

 それに一緒に寝て仮に何かあったとしても構わないとすら思っていた。


「だめだよ。そんなこと言ったら本当にそっちで寝るよ?」


「いいんです。私が一緒に寝たいんです」


 お兄さんは困ったように笑いながらも、何も言わずにベッドに入ってきた。


 私の方を向いて横になり、腕が腰に回される。つむじに息がかかるのを感じた。

 直接感じる体温に身構えながらもそれに気付かれないように息を潜める。


 お兄さんはそれ以上は動かなかった。

 

「何も、しないんですか?」

 

 まるで何かを期待していたかのような発言をしてしまったが、決してそんなつもりではない。純粋な疑問だった。


「何かするの?」


 とぼけたような返事をするお兄さんに、気が抜けた私は顔を上げる。


「何かしたいとか思わないんですか?」


「ユキちゃんは何かしたいことがあるの?」


 さっきから聞き返してばかりでずるい。

 私はお兄さんの頬に手を当てるとゆっくりと顔を近付けて行く。

 よく見ると本当に綺麗な顔をしている。

 吸い込まれそうなその瞳は真っ直ぐに私を捕え、閉じることなくただ受け入れようとしているのがわかる。


 鼻先が触れるか触れないかのところで頬から手を離し、枕を掴んで顔を隠した。

 何をやっているんだ。

 自己嫌悪に陥った私の頭を優しく撫でてくれるお兄さんは少し笑っているようだった。


「ユキちゃんは可愛いね」


「お兄さんはちょっと意地悪なんですね」


「さっき、誰かに大切にされたいって言ってたでしょ。僕はユキちゃんのこと大切にするよ。ユキちゃんが嫌だと思うことはしないし、ユキちゃんがしたいことはしてもいいよ」


 ずるい。お兄さんはずるい。きっと私が人の愛情に、温もりに飢えていることをわかっている。

 わかっていて全て私に委ねているのだ。


「ぎゅってしてください」


 なら、いっそのこと存分に甘えてしまおうと思った。

 自分から腕を回しお兄さんの胸に顔をうずめる。

 

「ほんと、可愛いね」


 そう言って右手で腰を引き寄せ左手で頭を包み込むように抱きしめてくれる。


「お兄さんはどうしてそんなに優しいんですか」


「僕は優しくなんてないよ。ただの偽善だよ。偽物なんだ」


 これが偽物の優しさだとしたら何が本当の優しさなんだ。

 知らない女の子に声をかけ手当てをして、言われるがまま家に泊めてくれる。手を出そうともしない。


「僕もユキちゃんと同じ。逃げて来たんだ。無理して誤魔化して、人の為とかいって自分を正しく見せているだけの中身のない空っぽの人間。そんな人間が医者になんてなれるわけない。向いてないんだよ」


 それはお兄さんが自分に言い聞かせているような、自分には無理なんだと自分で暗示をかけているような、そんな感じに聞こえた。


「たとえ自分の為だとしても、誰かの為に行動できるお兄さんは偽物なんかじゃないです。だって実際に私はお兄さんに救われました。それは嘘じゃないです。お兄さんが私の為にしてくれたこと、言ってくれた言葉は全て私にとって本物の優しさとして伝わってきました」


「ユキちゃん……」


「お兄さんは誰かを救うことのできるすごい人です」


「ありがとう」


 お兄さんの抱きしめる腕の力が強くなるのを感じる。

 小さく震えるその肩も、時折聞こえてくる鼻を啜るような音も気付かない振りをした。

 ただそっと背中に手を回し、お互いの体温を感じながら静かに目を閉じる。

 

 そしてお兄さんの胸に顔をうずめたまま眠りについた。



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