あなたが救ってくれたあの日の夜を私は一生忘れない
藤 ゆみ子
第1話
どうしてだろう。自分でもなんでこんなことになっているのかはわからない。
でも不思議と恐怖心はなかった。
繋がれた手は決して強引ではなく、私の引きずるような小さな歩幅に合わせて歩いてくれるお兄さんは誰よりも心地良い温かさがあった。
そして私はこれからこのお兄さんの家に行く。
約二時間前、母が仕事から帰ってきた二十二時。
私はお風呂に入った後、自分の部屋で勉強をしていた。
バタバタと階段を駆け上がってくる音がしたと思うと、勢いよく部屋の扉が開く。
「これ、どういうこと!」
頭に響くほど甲高く怒りを露にしたその声は、勉強中の私の体を震わせるには十分だった。
「高いお金払っていい塾に通わせてあげてるのに!」
母が手に持っていたのはこの前の模試の結果だ。
志望大学B判定のその結果は、母にとって受け入れ難いものがあったらしい。
でも私にとってはまずまずの結果だった。
夏休み前に急に志望校のレベルを上げろと言われ、本来ならもっと悪い結果が出ていたかもしれないところをB判定のレベルまで持っていった。
「私は頑張ったつもりだけど」
つもりなんかじゃない。寝る間も惜しんで勉強して、遊びにも行かず授業のない日だって自習をしに毎日塾に行っている。
自分なりに努力して出した結果だ。でも母にとっては納得のいかない結果だったのだろう。
「頑張れてないからこんな結果なんでしょう!」
「そう、だね」
たぶん、今何を言っても母の気持ちが収まることはない。
これ以上母の気持ちが激昂しないよう勉強を再開しようと机に向かおうとした時、母は私が手に持っていたスマホを叩きつけるように取り上げてきた。
「スマホばっかり見て! これは預かるから!!」
「別に遊んでたわけじゃ――」
「うるさい! あんたは勉強だけしてればいいのよ」
遊んでなんかない。わからないところを調べていただけなのに。ちゃんと勉強しているのに。
母は私のことなんて見てはいない。ペラペラの紙一枚で私の努力も、価値さえも全て推し量る。
もう、何のために勉強しているのか、なんでこんなに苦しい思いをしてまで頑張っているのかわからない。
「大学行くのやめたい」
――パチンッ
「っ……」
小さく呟いたそれを母は聞き逃さなかった。
さほど強くはない、それでも乾いた音とジンジンする頬に限界を迎えた。
勢い良く立ち上がると、開いたまま吊るされている学校の鞄に手を突っ込んで財布を掴む。
何か言っている母には目も向けず一目散に家を飛び出した。
慣れた道をひたすら走り駅に着くと適当に電車に乗る。
適当に電車を乗り継ぎ、適当な駅で降りてふらふらと歩き続けていた。
誰もいない静かな道。今歩いている橋の向こうにはコンビニや住宅街の灯りが見えていて、人もちらほら歩いている。
こんな時間に一人でふらふら歩いているのを見られたらどこかに連れて行かれたり、保護されたりするのだろうか。
向こう側にはいけないな。
私は大きな川に架かる、真っ直ぐな橋の真ん中で立ち止まり手すりに掴まる。
そして少しだけ身を乗り出し川を覗く。
「な、何してるの!?」
直ぐ後ろから声がした。少し浮いた足を地に着け、振り返る。
そこには月夜に照らされ瞳を揺らす綺麗な男性がいた。年は私より少し上くらいのお兄さんだ。
お兄さんは焦ったような、困惑しているような、それでいて穏やかな雰囲気を纏い私を見る。
「えっと……特には」
「そう、なの?」
お兄さんはそう言って肩を撫で下ろすと、私の隣に来て手すりにもたれる。
「こんな時間に一人で危ないよ?」
「いいんです。なんかもうどうでもいいので」
「何かあったの?」
お兄さんは目線を合わせ顔を覗き込んでくる。その表情は心配しているようにも見えるし、興味本意なようにも見える読めない表情だ。
「まあ、家に帰りたくない程度にはありましたかね」
初対面の男の人にこんなことを言うなんて自分でも危機感ないなと思う。けれどお兄さんの穏やかな話し方と、飛びして来た時の勢いがまだ残っているのかそんなことを言っていた。
本当にどうでも良くなっていたのかもしれない。
「でも、そんな格好で女の子が一人でいたら変な人に連れて行かれちゃうよ」
私はショートパンツにTシャツといういつも寝ている時の格好だ。何も考えず飛び出して来たので仕方ない。
「行くところもないですし、それでもいいかもしれませんね」
もう終電時間も過ぎているだろうしスマホだって持ってない。
母は心配しているだろうか。心配していたとしても連絡をとるためのスマホは母が持っている。まさか私がこんなところでいるなんて思っていないだろう。
家を飛び出した時、何か言っていたが追いかけてこようとはしなかった。
せいぜい、友達の家にでも行っていると思っているはず。
だが、こんな時間に友達の家に行くことなんてできないし、できれば誰にも会いたくなかった。
だから私は今ここに居る。
「生きていればさ、嫌なこともあるかもしれないけど自分を大切にしないとだめだよ」
「私は、自分で自分を大切にするより誰かに大切にされたいです」
「確かに、それはわかるかも」
橋の真ん中、フェンスにもたれた私たちはただぼーっと月を見上げた。
「ねえ、名前なんて言うの」
「秘密です」
「ええ。じゃあ家出少女って呼ぼうかな」
家出少女てまんまじゃないか。確かに家を出てきた少女ではあるけれど、そんな不良じみたニュアンスで言われるのは嫌だ。
「ユキです」
「へえ、ユキちゃんって言うんだ。可愛い名前だね」
本当の名前は幸奈だ。でも本名を言うほど不用意なわけではない。
「ユキちゃんはどうして家に帰りたくないの? 家族となんかあったとか?」
私は月を見上げたまま何も言わなかった。
勉強のことで親と喧嘩して家を飛び出したなんて他人からすれば些細なことだろう。
きっと、直ぐに帰ったほうがいいと言われる。
何も言わないでいると「家出してきたんだからそうだよね」と自己完結してしまったお兄さんはそっと私の頭に手を乗せるとポンポンと優しく撫でた。
「そういう時もあるよね」
深くは聞いてこないお兄さんに安心しながらも、もっと聞いてほしかったかも、というあまりにも矛盾した感情が湧いてくる。
「何のために頑張ってるかわからなくなったんですよね。何のために、誰のためにこんなことしてるのかって。そう思ったら何もかも投げ捨てて逃げたくなりました」
「そっか。逃げ出すのって勇気がいるよね。ユキちゃんは強いね」
「っ……」
そんなことを言われると思っていなかった。
ただ日頃の積もり積もったものに、些細なきっかけが加わり感情に身を任せ飛び出しただけなのに。
「頑張るっていうのはさすごく曖昧な言葉で、応援する頑張れと叱責する頑張れでは大きな違いがあるし、頑張ってるかどうかなんて他人が決めることではないんだよね」
「でも、逃げ出したいと思っている時点で私は頑張れていないんだと思います」
「自分が頑張れる分だけ、頑張りたい分だけ頑張ったらいいんだよ。他人の頑張るに合わせる必要なんてない。ユキちゃんは十分頑張ってるんだよ。じゃないとそんなふうに思ったりしない」
お兄さんの言葉が嬉しかった。でも苦しかった。きっとそんな簡単には自分のことを十分頑張ってるなんて認めることはできないと思うから。
気づけば涙が流れていた。どれだけ母に叱責されても、叩かれても泣かなかったのに。
お兄さんは私の頬に優しく触れ、親指で涙を拭う。
「なんでも聞くから、なんでも言っていいよ」
お兄さんの優しさが沁みる。我慢していた涙が溢れ出るほどに心を解かされていた。でもまだ全てさらけ出す気にはなれなかった。
「足が痛いです」
誤魔化すようにそんなことを言った。実際、右足の親指がかなり痛い。
家を飛び出す時、靴ではなくクロッグサンダルを履いて来てしまった。
無我夢中で走り、ひたすら歩き、たぶん爪が割れている。
「足? どこ? 見せて」
言われるがままサンダルを脱ぎ足を出す。少し屈み、自分でも確認するとやはり親指の爪先の白い部分は割れて爪甲から血が滲んでいた。
「これは痛そうだね」
しゃがみ込んだお兄さんは私の足をまじまじと見ながら「うーん」と何か悩んでいる。
「このままじゃ歩くのも辛いだろうし、ユキちゃんがいいなら僕の家で手当てするけど……」
自然と頷いていた。出会ったばかりの男の人の家に行くなんてどうかしている。
でも不思議と恐怖心はなかった。
もしかしたらそれが本当に悪い人の手口なのかもしれない。それでもこの人になら騙されてもいいと思えるくらい絆されていた。
お兄さんは私の手を取り橋を渡って住宅街の方へ歩いて行く。
繋がれた手は決して強引ではなく、私の引きずるような小さな歩幅に合わせて歩いてくれるお兄さんは誰よりも心地良い温かさがあった。
そして私はこれからこのお兄さんの家に行く。
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