追憶の雨

大隅 スミヲ

第1話

 弟から父の死の知らせを受けたのは、蒸し暑い六月の日のことだった。

 その日は朝から雨が降っており、湿度が高く、シャツが肌に張り付くような不快な感触を覚えていた。父が入退院を繰り返しているという話は聞いていたが、まさかこんなにも早く逝ってしまうとは思いもしなかった。

 会社に忌引の申請を提出し、一週間の休みをもらった。実家は東京から車で三時間以上掛かる山間の村にあり、田舎だ。父は母の再婚相手であり、村の駐在さんだった。俺にとっては育ての親で、人生の様々なことを学んだ人だった。


 実の父親は俺が幼い頃に病死していた。実家は村の中でも大きい方であり、祖父の代では地区長を何年も勤めたりしていた家だった。父も祖父の後を継いで地区長になるのではないかと言われていたそうだ。

 父には三歳年下の弟がいた。俺にとって叔父にあたる人物であり、タカシさんといった。タカシさんは働くことはせず、昼間から酒を飲んだりフラフラとしているような人で、祖父の遺産を食いつぶしながら生きていた。


 時おり、そのタカシさんは我が家に顔を出していた。そういう時は大抵酔っ払っており、母のことを舐めるような目つきでじっと見ていた。祖母が健在だった頃は、そんなタカシさんのことを怒鳴りつけたりしていたものだったが、祖母が亡くなってからのタカシさんは歯止めが効かなくなり、村の中でもよく問題を起こしたりしていた。


 そんなタカシさんのことを諌められる唯一の人物がいた。それが村の駐在である義父だった。そのころは、まだ義父ではなく駐在さんと呼んでいた。義父はタカシさんと同級生であり、昔はよく一緒につるんでいたそうだ。タカシさんも義父の言うことを無下にはできず、いつもバツの悪そうな顔をして逃げていくのが印象的だった。


 それでも、タカシさんは酔っ払うと我が家を訪れることが多かった。

 母などは露骨に嫌な顔をしてみせたが、タカシさんはそんな母の顔色など気にせずにやって来ては長い時間我が家に居座っていた。タカシさんがやってくる名目は、祖父母の仏壇に線香をあげるということだった。不思議なことにどんなに酔っ払っていても、タカシさんは仏壇にだけはしっかりと手を合わせるのだ。


 俺はタカシさんのことが大嫌いだった。酒臭いし、言葉は乱暴だし、時には殴られたりもした。そして、タカシさんは夜中までうちに居座って、朝になるといつの間にかいなくなっているということが多かった。

 胸糞の悪い話ではあるが、おそらくタカシさんは母とヤッていたのだろう。

 その時の母の心情は今となってはわからないが、タカシさんが家に来た時の母の顔を思い出すと、嫌々だったのだろうということは想像できた。


 そんなタカシさんが死んだのは、一年に一度あるかどうかの大雨の日のことだった。

 その日は台風が日本列島を縦断するというとんでもないコースをたどっており、山間にある我が村でも、河川氾濫の警報が出るほどだった。地区の消防団が、川が溢れないように土のうを用意したり、消防車で村を巡回したりするなどして大騒ぎだったと記憶している。

 この年、俺はたしか中学生になったばかりだったはずだ。

 大雨のせいで停電となってしまったうちの地区では懐中電灯の灯りを頼りに、母と一緒に雑音混じりのラジオ放送を聞いていた。

 すると、玄関の戸を何度も叩く音が聞こえてきた。玄関の戸は風で飛ばされないように木の板で塞いでいたのだ。

 何事かと思い、玄関に出てみるとそこにはタカシさんがずぶ濡れになって立っていた。

 こんな時に何をしているんだという俺の問いに、タカシさんはニヤニヤと笑うだけだった。その息は酒臭くかなり飲んでいるということがわかった。

 雨に濡れたから風呂に入らせろ。タカシさんはそう言うと、俺のことを突き飛ばして家の中へと入っていった。タカシさんが歩いた廊下はびしょ濡れで俺は雑巾を持ってタカシさんの後を追いかけた。

 風呂から上がったタカシさんは、まるで自分の家にいるかのように振る舞い、居間で一升瓶を飲みはじめた。

 外は強い風と打ち付けるような雨が降っており、家の雨戸をガタガタと揺らしている。


 雑音混じりのラジオ放送もよく聞こえなくなってきた頃、タカシさんは畳の上で大の字となり、大いびきをかきながら眠ってしまった。

 そんなタカシさんのことを見た母はどこかホッとしたような顔をしていた気がする。


 しかし、深夜になり、突然タカシさんが目を覚まして、騒ぎ出した。

 雷鳴と打ち付けるような強い雨、そして強い風が吹きつけては家が軋むような音を立てている。

 そんな状況にもかかわらず、タカシさんは田んぼの様子を見に行く必要があると言い出した。

 この人は頭がおかしいのだ。俺はタカシさんの言葉を聞いてそう思った。

 大きな台風などが発生すると毎回「田んぼの様子を見に行く」といって死亡する人がいるのだ。なぜこのような死亡フラグが立つような真似をするのだろうか。俺は常々疑問に思っていた。

 俺はこの雨で外に出るのは無理だとタカシさんを止めた。

 しかし、俺の言う事などタカシさんが聞くわけもなく、タカシさんは俺のことを殴りつけた。この時、俺の前歯は折れ、家の土間に倒れ込んだ。

 タカシさんはその隙に家を飛び出し、大雨の降る中を駆けて行った。

 俺はタカシさんをひとりで行かせるわけにもいかず、慌ててタカシさんの後を追いかけた。

 叩きつけるような雨粒は痛いほどに強く、前が全然見えなかった。

 普段であれば、せせらぎ程度の川の水は濁流に変わっており、聞いたこともないような轟音を立てながら黒い水を溢れさせていた。

 そんな川を見ながら、タカシさんは大声で笑っていた。

 狂ってやがる。

 俺はタカシさんの後ろ姿を見ながら、そう思った。

 この狂人の面倒をこれからも見ていかなければならないのか。

 母はこの狂った男を受け入れているのだろうか。

 この狂人がいる限り、俺に明るい未来は無いのではないだろうか。

 様々な思いが頭の中を駆け巡る。

 俺はゆっくりとタカシさんに近づいていった。

 雨のせいなのか、タカシさんは俺が背後に立っていても気づくことはなかった。

 何か意味不明な言葉をタカシさんが叫んだ。

 こいつは、俺にとって害悪でしかない。こいつのせいで、俺の明るい未来は存在しないのだ。


 無防備な背中が俺の目の前にはあった。

 俺は思いっきり、その背中を両手で突き飛ばした。

 何かが川に落ちたような音が聞こえた。

 目の前にいたはずのタカシさんの姿はどこにもなかった。


 俺は震えた。

 そして、先ほどタカシさんが叫んでいたように、俺も同じように奇声を発しながら走った。

 向かう先は決まっていた。駐在さんのところだ。

 びしょ濡れの状態で駐在所に姿を現した俺のことを見た駐在さんは驚いた顔をしてみせた。

 俺は泣きながら、タカシさんが川に落ちたということを伝えた。

 駐在さんと消防団は雨の中、タカシさんのことを探すために川の周りを見て回ってくれた。

 しかし、タカシさんの姿を見つけることはできなかった。


 翌日、雨があがった。

 そして、タカシさんが川の近くの竹林の中で発見されたと、駐在さんから連絡があった。

 俺と母はいそいでその竹林へと向かったが、駐在さんに「見ないほうがいい」と言われてタカシさんを見ることは許されなかった。


 タカシさんの葬儀は、村を上げて行われた。タカシさんにとって、俺たちは唯一の身内だった。祖父が有力者であったことから葬儀は盛大に行われたはずだったが、俺の記憶は欠落している。


 俺がタカシさんを殺したのだ。

 無防備な背中を突き飛ばして、川の中に転落させて、殺したのだ。


 タカシさんがいなくなったことで村には平和が訪れた。

 それから数年後、母は駐在さんと再婚した。俺は駐在さんが自分の父親になってくれるということが嬉しくて仕方なかった。

 そして、弟も生まれ、幸せな生活が続いた。


 俺は大学に行くにあたり、家を出ることとなった。

 その夜、俺は義父である駐在さんと二人っきりで話をした。

 それはあの大雨の夜の告白だった。

 俺がタカシさんを突き飛ばして、殺した。

 そう義父に告げると、義父は首を横にふってみせた。

 お前は殺していないよ。

 つぶやくように義父は言うと、俺の頭をそっとなでてくれた。

 義父は優しい人だった。

 嘘だとわかっていても、その言葉が救いだった。

 

 大学卒業後、俺は東京で就職した。あまり実家に帰ることはなくなっていた。

 そして、母が亡くなり、義父も亡くなった。


 義父の葬儀を終えた後、実家で遺品の整理をしていると、義父の机から一通の手紙が出てきた。手紙は自分宛てのものであり、俺はその手紙を読み、震えた。


 手紙には、タカシさんの死の真相が書かれていたのだ。

 タカシさんの死因は、川で溺れたことによる溺死というわけではなかった。

 死因は、頭を鈍器のようなもので殴られたことによるショック死であり、溺れたことは直接の死因とは結びつかなかったそうだ。

 おそらく、タカシさんは川で溺れながらも、なんとか岸に這い上がって竹林で体力を回復させていたのだろう。

 そこを誰かが見つけ、タカシさんの頭に大きな岩を落とした。

 タカシさんは、顔の原型がわからなくなるほどに潰されていたそうだ。

 結局、捜査では誰がやったのかなどはわからなかったため、タカシさんは事故死という形で処理されたとのことだった。


「お前は殺してないよ」


 あの時、義父が口にした言葉は嘘ではなかったのだ。



(了)

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