第3話 人生という名の仕事


 仕事終わりに、安い酒を飲んでいた。仕事に心と身体を削りながら、重ね続けた夜だった。家では酒を、一滴も飲まない。だけれど、外に出ると浴びるように酒を飲んでしまうのはどうしてなのだろう。弱いからなのだろうか。何かから、逃げようとしている気がする。その何かが、何なのかは、分からない――

 仕事のことを、話す誰かがほしかった。でも、そんな相手はいない。どうしてだろう。こんなに仕事が好きなのに。微発泡酒の泡を見つめながら、私はぼんやりとグラスを傾けていた。好きなことを語らう誰かがいないことというのは、とても虚しいものだった。

 生きがいを仕事につぎ込み、もらった給料をまた仕事につぎ込んでいる気がする。でも、そんな人生に何の疑いもなかった。それが自分だ。それだけだった。最近まで、こんな疑問はなかったのだ。いつ気づいてしまったのだろう。仕事をするために、給料から誰も負担してくれない経費が発生していることに笑ってしまったのは。俺は、本当に――仕事が好きなのだろうか。そんなことを考えて、疑問を深めるうちに、夜が青くなっている。重たい夜と、頭の奥が痛い朝……

 酒は飲みたいけれど、酒場で過ごす時間と酒に使える金はそんなになかった。安い酒で、胃の中で蟠る感情を希釈しているのか、逆にアルコールで胃酸を濃密なものにしているのか、酷く曖昧だった。


「――此処、空いてる?」


 意識が遠い所に行っていたときだった。ふと、突然、隣から声が聞こえたのだ。誰の接近もなかったはずだったが、驚いて顔を上げると、そこには精悍な顔立ちの、背が高い青年が立っている。激しく波打つ銀色の長髪をひらりと払って、若者は限りなく色彩を欠いた水のような色の瞳に灰色の影を落とした。私の反応を見て、青年は返事を聞くこともせず隣に座っている。ダークスーツが似合う若者だった。肌の色がぞっとするくらい白い、長い銀髪は綺麗な銀糸のような男だった。咥え煙草を怠そうに、遠いところに焦点が合っている、そんな目をしていた。虚を突かれた私の反応から、隣が空いていると解釈したその青年は、私が飲んでいた安い微発泡酒を淡々と注文していた。隣に座られると、圧迫感が酷い。


「何してんの、ぼんやり、一番安い酒を飲んでる」


 青年、と表すには、何だか酷い違和感があった。選んでいる言葉は軽いのに、低い声の内側に、絶対に動かないであろう芯を感じる話し方だったのだ。何が訊きたいのだろう、そんな疑問が心の片隅に過ったけれども、話をしてみたくなった。


「君は、誰なのかな」

「名前はない。魔術師と、そう呼ばれてる」

「魔術師……?」

「名前がないから、呼ぶのに困る。だから、便宜上、そう呼ばれてて、そう呼ばせてる」

「魔法を使うのか?」

「別に。人の話を聞くのが好きなだけだから、強いて言うなら言葉が魔術かな」

「で、何が訊きたいんだ?」

「酒を飲んでる、理由、かな」


 私は答えた。急に素面みたいになっていた。


「仕事が、終わったんだ。だから、飲んでる」

「ふーん」


 魔術師は美味しい水でも飲んでいるみたいに酒を飲んでいた。何か含みを持たせながら、薄い唇の端を、持ち上げる。仕事が終わったと、ただ事実を伝えただけなのに、心の冷え切った部分から、冷えた心の表面よりも冷たいものがこみ上げてくる。仕事が終わった、その事実がどうしてこんなに冷たいのだろう。魔術師は、ふーん、と、気のない感嘆を舌先に乗せただけだった。なのに、私は仕事が終わった自分は、何かが終わっているような気がしていた。そんな自分から目をそらして、酒を飲んだ。先程までと、味が違う。安い酒だけれど、こんなに水っぽかっただろうか。舌が挙動不審だった。


「家では飲まないの?」

「飲まない、家だと……飲み過ぎるから」

「へえ、俺もそうだよ。理由も同じ」


 私は生返事をした。家では酒を飲まない理由が、苦い酩酊を誘っていた。


「仕事、嫌いなの?」


 魔術師は相変わらず、安酒を呷っていた。安価だけれど、この街の人間の疲労になじんでいる酒なのだ。仕事終わりの労働者は、皆、酒場に集まってこれを飲む。

 仕事が嫌いなのかと尋ねられるのが意外で、またぽかんとした顔になってしまう。魔術師はすかさずその顔を、目の中に捉えている。まるで、瞳の中で写真を撮っているみたいだった。


「仕事は好きだ」


 何かを誤魔化すような、言葉のうわずった感覚が、舌先を滑った。魔術師が少し、口角を上げている。


「確かに仕事に不満はなさそう」


 魔術師は何か考える顔をしたまま、持っていた煙草を口元に持ってくる。薫(くゆ)る紫煙が意思あるもののように、辺りの空気に溶けながら私に何か言っているような幻を見る。


「不満がないのに、虚しいのが不満かな。青年」

「そうなの?」

「強いて言うなら」


 私は酒を一息に飲み干した。薄い財布を出して、店の主に声を掛ける。飲み代をここに置いておくと言って、席を立つ。隣に来た美しい、だけれど微笑みの奥に禍々しいものがある魔術師が、怖かったのだろうか……

 できるだけ背後は気にしなかった。魔術師は此方を見送りながら、笑っていた。


***


 往還はまだに賑わっていた。人の流れに逆らって歩いていく。少し早足になってから、脚をもつれさせていた。身体が震えている。振り返ってはいけない。酒場から遠く離れて、やっと歩く速さを緩める。顧みた雑踏に、魔術師の姿はない――

 また明日は、すぐ仕事なのだ。同僚の誰一人として、自分を気遣ってなどくれない、何かがあれば誰かが誰かに責任と問題をなすりつけるような職場で過ごす一日を、ただ重ねている。仕事は好きだ――平たく言えば、仕事で自分を安売りすることが、自分の価値を高くする一番の方法だった。好きであるはずの仕事によって、他の何か、もっと大切なものを失っていたのだ。でも、何を? 長い時間を掛けて失っているものがあることだけは理解していた。本当に自分が好きなものなんて、存在しているのだろうか。或いは、自分が本当に嫌っているものの影を、そっと踏みしめて、その正体に触れてしまったような気分だった。そうだ、私は――この人生を、仕事のために切り売りしているのだ。仕事なんて、好きなふりだ。

本来は好きであるはずの仕事を、嫌っているのだ。仕事よりも大切なものを、嫌っている自分が、きっとそうさせている。

 人通りが減ってきた通りを、細い路地に曲がった。よくこの辺りを歩いている人影とすれ違う。顔なじみなのに、何をしているどういった人物なのかは、何も知らない男だった。


「何が楽しくて、生きてる?」


 魔術師の声が背筋を撫でた。反射的に震えて背後を見る――先程すれ違った男がいるであろうはずの場所に、ダークスーツの魔術師が佇んでいた。心臓が震え上がり、電流のような衝撃が四肢の末端に走る。化け物でもみているような顔にならざるを得ない私を、魔術師はしれっとした顔をして見ている。


「お前、どうして……!」

「安い酒よりも、自分のことをこき使ってくれる仕事が欲しいんだろ? 安っぽい酔い方なんかじゃなくてさ」

「自分のことを傷つけてくる人間にばかり、気に入られようとしながら」

「傷つけられる道ばかり選んで、そのことに文句を言う酒のための仕事が必要なんだろ」

「…………何が言いたいんだ」


 私はげっそりした声で言った。魔術師は無表情だった。言いたいことなんて、何もないことだけは分かった。おれに何を、言わせたいのだろう――胸の中で、湿っぽい恐怖が重たくなって苦しい。

 魔術師は咥えた煙草に手を添えた。節と節の間隔が長く等しい、整った大きな手だった。


「からかっただけだ」


 湿っぽい感情が欠片もない微笑みを浮かべて、魔術師はゆらゆらと紫煙を吐き出している。眉宇のあたりに、お前が本当は嫌っているものを、戯れに喋らせたかったのだと口角だけが語っている。殺気立つ必要がないのに、私の心は毛羽立っている。毒気を抜かれて、強張っていただけの身体を支えるものが何もない。苦かったはずの酩酊が、得体の知れない恐怖の前に味を失っていた。

 魔術師はひらりと笑った。曖昧に口を開いたのだ。だが、言葉はなく、笑いを含んだ空白だけを吐息に乗せただけだった。

 そうだ、私は――仕事のことは好きなのに、私の人生が大嫌いだったのだ。

 仕事が好きなのに、人生を愛せない。それは、本当に、仕事が好きだと言えるのだろうか。 この人生を呪うための仕事をくれ。私は、喚いている。

 素晴らしいもののために捧げる労働がほしい。私は、本当は願っている。

 我に返ったとき、魔術師の姿は何処にもなかった。

 通り魔のような犯行だった。


 魔術師は別の酒場にいた。虚ろな胸の暗がりを、全身の神経で感じていた。安酒を傾けながら、なまじ酒が強いばかりに酔うまでに時間がかかる面倒な自分をよく知っていた。家では酒を飲まない理由が、外ではだらしなさにしかならないことに、苦すぎる理解をしていた。家では飲まないようにしているから、外で飲み過ぎていた。身も蓋もないめりはりの付け方に、遠回しな自傷の気配がしていることに目を閉じたままでいる。自分をいつか捨てるものにばかり、人生を切り売りしていたあの男を視ているうちに、話しかけていた。だが、戯れは徒労に終わっている。

 魔術師は自分の仕事を、人生を嫌わないために選んでいた。守れなかった美しさのために。魔術師は酒を飲み続けていた。酔いが訪れるまで、飲もうと思ったのだ。人生と仕事の両方を愛そうと思いながら、ふいにどちらもどうでもよくなることがある。自分が頓着していないことの正体に、心の冷え切った場所にある琴線が振れている。

 愛されるような仕事をしてはいけない。そう思うようになったのは、いつからだったのだろう。それでも、今は仕事で自分を高く売ることで、自分の心を研いている。一抹の虚しさは、あるけれども。人生は仕事でできているから、自分のことも仕事のことも、安物に貶めてはいけない。そうもいかない時代を踏みながら、乾いた今を重ね続けて、仕事と自分の価値を高めることをしていた。そんな時間は限りなく戦いだったが、その時間を走り続ける自分のことは好きだった。人の顔色は、読み取ることしかしなくなった。そこにある他者の主観に、不安にならなくなっていたのだ。

 斜に構えて街を見つめるのだ。雑踏の中の、表情にある、青白い影を視切(みき)るのである。虚無の青写真を透かし見る。その影に潜む疲労を読むことが好きだった。

 グラスを傾ける。魔術師に名はない。柩だけがある。名前は、死ぬために必要なのである。名前がないから、魔術師は柩に付ける名前を想っている。この仕事を引きずった、人生を美しく葬るために。戯れだ。魔術師の余生なのだ。今日も心を切り売りするために、寂しい誰かを探している。

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紅茶依存症 剣城かえで @xxtiffin

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