第2話 淡くする魔術
酒が並ぶ棚の前で辺りを哨戒する人影があった。酒を買いに来た客が現れると棚を離れ、誰もいなくなると戻り、瓶を見ていた。小柄なその人はマントに体も顔も隠し、誰かの視線に触れられることを怖がっているかのような佇まいだった。居心地の悪さと良心とを天秤にかけて、酒瓶を一本、素早く掴み取る。マントの中に瓶をしまう。
しかし小柄なその人の動きは、何かを欺くには正直が過ぎていた。瓶を隠した姿は、嘘をつくには愛らしさが過ぎていた。
「おい、お前。今、何を隠した」
びくりとして顧みるとそこには背が高い、銀色の長い髪をしたダークスーツの若い男がいた。先刻まで誰もいなかったはずの場所に現れた目撃者に、影は足をすくませる。
激しく波打つ銀髪は祝福の冠めいた色の銀だったが、盗人の目には慈悲のない刃の色として映っていた。盗人は何か言おうとしたが、釈明の言葉が出てこなかった。二、三度、開閉された唇は何かを言う前に語るに落ちていた。
「さっきの瓶を貸せ、俺と来い」
盗人は悄然として、マントの中から瓶を出した。銀髪の男はその瓶を手に、棚から適当に焼き菓子の箱を掴んで、会計を済ませた。
「魔術師、珍しいものを買うな?」
(魔術師……?)
奇妙な呼ばれ方をしたその人物が、ついて来るように促したことが分かった。小さな盗人は、銀髪男について店を出た。
銀髪の魔術師は、ずっと無言でいた。海の青みが映える銀髪は、盗人の心に研かれた刃物を思わせた。盗人は、自分がこれから死んでしまうのかと思った。刃物の色をした髪に、ダークスーツといった魔術師の姿が、想像の世界に住う死神を思わせたのだった。
路地に入ると魔術師は立ち止まった。
「どうして酒を、盗ろうとした?」
魔術師は盗人のフードを無遠慮に剥がした。盗人──そこにあったのが、十歳ほどの少年の、震えて唇を噛む表情だったことに、別段虚を突かれた風情もない。魔術師は飄々と構えながら、少年が何か言うのを待って煙草を咥えている。煙草を吸っている魔術師は、この世の全てを怠いと思っているような表情だった。だが、魔術師が醸し出している、倦怠にしては乾いた雰囲気には少年を責めるつもりなど無さそうだった。少なくとも、優しさでも正しさでもない、何もない感情が煙と一緒にふわふわとしている。
「お父さんが、酒を買ってこいって言って……でも、もう家にお金がなくて」
少年は始めは話せていたが、次第に声を詰まらせた。言葉が、切らなくていいところで、切れていく。
「街がくれるお金も、なくなって、それ、で……」
少年は訥々と話し、うまく言えなくなった箇所で、言葉を止めた。魔術師は少年の語りに任せて、ぼんやりしていた。
「お父さんは、お酒がないと……ぼくを、叩いて、暴れて、それ、で……お酒があれば、お父さんは、ぼくに、優しく、て……」
少年の内で何かが焼き切れた。静かに短絡した感情の声を少年は聞いた──自分が泣いていることに気づくと、涙を止めようとした。試みは無駄に終わり、何を望んでいるのか分からないまま、少年は何かを望んで魔術師を見ていた。
魔術師は酒と一緒に買った焼き菓子の箱を開けている。味気なさそうなクッキーを一枚取り出すと、煙草を手の中で魔法のように燃やしてしまう。自分は一枚クッキーを咥えて、残りを箱ごと少年に押し付ける。
箱を渡された少年の手は震えていたが、少年はクッキーを一枚取って、確かめるように魔術師を見た。魔術師がしていたことといえば、クッキーに前歯を立てたことくらいだった。少年はクッキーを齧った。初めて自分に、許可を出した気分になる。
クッキーに味を感じたのは一口目だけだった。その味気ない味というのが、少年の心を妙になだめていた。
「……魔術師さんのお父さんは、どんな人?」
「分かんない。俺に父親はいないから」
魔術師は明日の天気を尋ねる口調で、少年に母親の所在を訊く。
「お前、母ちゃんは?」
少年は言葉では答えられなかった。首を横に振った。だが思うところがあって、結んだままでいた唇は微笑もうと努力していた。
「そうか、悪いこと、訊いたな」
魔術師はまた新しい煙草を咥えた。少年を見据えて、軽い口調の、気のない声だった。
「耐えろとは、言わない。でも、今はまだ、父親を殺したらいけない。何を、思うことがあってもだ」
「お前が父親を殺せる日は必ず来る。それが何日後かは、俺には言えないが」
「今殺したら、お前が生きていけなくなる。どの未来も、鎖される……お前のために、今は殺すな」
少年は濡れた睫毛を瞬いた。何が言われているのかを分かっていない自分だけしか、分からなかった。
少年の面上に俄かに影が煙り出した。得体の知れない想いを見つめて、直視できずに目を逸らした顔だった。見つめていても恐ろしいだけで、何の手も打てない不安の切れ端に、戯れのように知性が光を当てていた。少年の心の冷えた場所で沈黙していた感情が、光にさらされて何かに気づくことを拒んでいた。
「いつか、分かる。分からなければ、それはそれで、いいことだ」
魔術師は節と節の間隔が長い骨張った指先に煙草をとって、口元に手を添えた。意味自身が語りださないように、唇に鍵をかけるような静謐な動きだった。煙の紗幕、その向こうの薄い唇には、語り口に反して微笑みの類はない。
酒瓶を渡されるまで、少年は我に返れなかった。魔術師から瓶を受け取る。
「持っていけ。今のお前には、何かを渡せる俺よりも、飲んだくれの父親が必要だ」
少年は何かを言おうとして、迷い、その場に立ち尽くしていた。物言いたげにしてみると、魔術師は首を傾げる。
「行かないのか?」
「魔術師、さん……いつも、何処にいるの?」
「俺は路地の奥、海に出るあたりにいる……何で?」
少年はその場にいた。帰りたくなかった。それでも少年が立ち去ろうとしないからか、魔術師は素っ気なく、ひらりとそびらを向けている。長い銀髪が翻る。広い肩が、殺伐とした風を切った。咥えていた煙草を取ると、その煙が上っていく何もない場所を、呆っと見上げていた。
「世界は……家だけで、できてるわけじゃないからな」
そこに何かがあるような目をして、魔術師は紫煙の涯を眺めていた。少年には魔術師が何かを見ていることだけは分かったが、青い目線が追うものが何なのかまでは、正体までは分からなかった。
「何を、見ているの……?」
「何もないのを、見てたんだ」
魔術師が嘯くと、風が駆け抜けた。通り魔のような頃合いで、路地の湿った空気を吹きさらして過ぎる。浄らかだが透明でも白でもない色をした、死に近い淡さの煙で、魔術師は唇を湿していた。力無く笑い、笑うことさえ面倒だと両目の方が言葉よりも雄弁に愛想がなかった。
「じゃあな、少年」
少年の腕の中で、急に瓶が重く感じられた。自分は魔術師から何を渡されたのか。今手の中にあるものが酒と焼き菓子の箱ではないかも知れないと思って、少年は確かめる。酒は酒のままで、久々に食べた甘いものの哀愁(さび)しさが胃の中にあった。嘘も偽りもない。顔を上げたときに魔術師がもう何処にもいなかったことは、事実か虚構か不明だった。
少年が貧民窟の家に戻ると、父親は酒を飲んで眠っていた。だらしなく放られた財布は、少年が盗人になる前と違っていた。紙幣が入っていたのである。その枚数に、少年は胸の奥がざわざわするのを感じた。喉が一瞬、痙攣した。
今日は補助金が入る日だったのだろうか──何も、聞いていない。夕食を買うように命じる文言が紙切れにあった。硬貨が数枚、添えられていた。
眠る父親からは、腐臭が漂っていた。父が仕事をしていた頃を思い出すと、腐臭は強くなった。父はこのまま、生きたまま腐肉になってしまうのではないかと、奇妙な心配が少年の眉を下げていた。父が生きながら腐り落ちてしまう姿を、幻視する。きっと父は自分の体が朽ちたところで、自分から出ている悪臭など分からないのだ。何故自分の方がそのようなおぞましいことを知っているのだろう。
(今のお前には──飲んだくれの父親の方が必要だ)
酒臭い鼾をかいて寝ている父は、思い出が見放した死体だった。死者をずっと見つめて寄り添えるほど、少年は気丈ではなかった。愛していた者の亡骸が腐っていく様子をそばで見つめ続けねばならない恐怖に、少年の心の器は血を流していた。
少年は外へ飛び出した。菓子の箱も、持って出た。行く当てはなかった。誰とすれ違っているのかが分からない。にも拘らず、五感が捉えるのは温かい食事の店から溢れる談笑、手を繋いで歩く親子連れ──他のものとも交錯していたはずだった。
何もかも淡くなってしまえと思いながら少年は唇を噛み込んでいた。父親の存在が腐っていく日常も、温かい食卓と美味しい食事も。全てに色褪せて欲しかった。雑踏にはたくさんの人が行き来しているのに、誰一人として少年の心が裂けていく音を拾わない。悲しみの他人、その影々を縫って、少年は何処かへ行こうとした。走り疲れた時、憐れまれたい気持ちが、息切れを起こした。一瞬の心の虚ろに、響いた声があった。心の何もない場所に、突き放すような言葉がつけ込む。
(世界は家だけで、できているわけじゃない)
路地に駆け込んで、少年は菓子の箱を開けた。クッキーを引っ張り出して、夢中で齧った。魔術師にもらった時とは、違う味がした。久々に食べた甘い菓子が、全く甘くないことなんて問題ではなかった。これから先、何度でもこの味を思い出す自分を想像していた。そして何度でも救われる自分を知りながら、喉が枯れるまで少年は一人で過ごした。味のない味が、魔術師の言葉を連れてくるのだった。周りの全てが淡くなる。悲しい時の世界、少年はその彩度を自在に操る言葉を手に入れたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます