紅茶依存症
剣城かえで
第1話 止まない雨
「どうして、生き続けなければならないのか――苦しみながら、生きねばならないのか」
雨が降っていた。いつから降り出したのかを、どうしてか思い出せない雨だった。よく晴れた空を、見た記憶を探していた。広い砂浜で、無くしてしまった一粒の砂を探すような試みだった。見つけることを諦めながら光を探し続けないと、気休めがなかったのだ。だが、縋ることにも疲れていた。光の存在を、無いものだと決めつけることができないままで。
雨の街には枯れ葉のような色彩の、傘を持つ人々が往還を彷徨っている。彷徨っていると思ったのは、誰一人として、同じものを見ていなかったからだ。雑踏に、交わるものは何もない。すれ違う人々は、出会うことをしない。
気がつけば、逃げ込むように路地に曲がっていた。大通りの喧噪に耐えられなかった。喧噪と表すには並行する無言でしかない影々、その一つ一つが誰かを顧みることをしない。この街にはこんなにも大勢の人々が暮らして、行き来している。それでも、自分の悲しみに立ち止まる者は一人もいない。誰もいないのならば、誰の姿も目に入らない場所の方が、優しく思えた。一人でいられれば、誰に救いを求めなくてもいい。
誰もいない路地に、酷い安堵を覚えていた。いつ始まったのかを忘れた雨の中で、傘を持っていないことに気づいていなかった。雨はずっと降っていて、自分はこの冷たい雨の中に佇まなければならないと信じていた。雨から身を守る方法を、何も持っていなかった。雨を浴びて身体が冷えていく。それでも、暖かい場所へ行くという考えはなかった。暖かい場所に行ったら、死んでしまう気がした。生きながらえるために養い続けてきたものが、優しさに滅びる予感がしていたからだ。
雨が降り始めた日を、思い出そうとしていた。思い起こせた感情はなかった。遠い日だったことだけは、覚えている。愛していたものが、あったような気分が残る。何を愛していたのかは、もう分からなかった。愛していた事実を消し去りたかった。他の不遇のすべてを無条件で受け入れていたが、愛していたこと、その一点だけを拒んでいた。傷を負った愛は、上手く癒えなかった。だから今の自分は、此処で雨に冷えている。癒やされなかった愛は、憎悪に姿を変えていた。頑なに、暖かな場所へ行かない姿を、誰に見せようとしていたのか――顔も思い出したくない誰かに対して、動けない自分のことを、思い出してほしかった。自分は忘れたいのに、相手には思い出されたいという爪の立て方をしていた。
「よう」
声をかけてきた者があったのは、そのときだった。雨が目に入って、瞬いたときだった。濡れた睫毛を拭ってみると、すぐ側に人がいた。先刻まで、誰もいなかったはずだった。軽い口調で声をかけてきた人物は、奇妙な若者だった。見上げるほど背が高い、ダークスーツを着た人物は、怪傑というべき姿をしていた。激しく波打つ銀色の長い髪に、切れ長の目が印象的な顔は肌が白く見目麗しいと表してもよかったが、美しく装うためとは思えない派手な化粧が施されていた。薄い瞼には数色の青が塗り落とされて不気味な陰影を作っている。薄い唇には色味を消す化粧がされている。咥えた煙草に添えられた指先は、濃紺のエナメルが暗く光を撥ねていた。スーツと同じ色の帽子と、広い肩に羽織られた長外套が、その人の姿をこの世ならざる存在に幻視させた。纏う空気が、死神に見えたのである。
暫し言葉を失くしていた。銀髪の怪傑に誰何できたのは、長い沈黙の中でその姿を凝視した後だった。曖昧な尋ね方をしていた。
「……あなたは」
銀髪の若者は左手を煙草に添えながら、右手で傘を持っていた。怠そうな口元をしていた。此方の曖昧に、名を尋ねられていることを察したらしい。
「俺に名前は、ない。名前はないが、魔術師と言われてる」
そんな風に仮名をつけたことはないけれども――銀髪の怪傑『魔術師』は呟いている。
魔術師は傘を差したまま、空を見上げていた。黒雲が低い、雨の空が何処までも続いている。
「傘、差さないのか?」
「持っていません……持たずに、此処にいたのです」
「いたって、いつからだ」
「思い出せないんです。それに……私は傘を、差したくない」
「ふーん」
質問をした割に、魔術師はどうでもよさそうな相槌を打った。魔術師の態度に、今までわざと触っては傷をつけていた自分の古傷を雑に扱われたような気分に陥る。触れては傷の治りを遅らせて、自分への言い訳と縋れることとして大切にしていた思いがあった。それを、どうでもよさそうにあしらわれたと感じた。
この際誰でもいいと思った。この魔術師なる人物には、自らの不運を嘆いてもらえばいい。この思いを雑に扱ったことが悪いのだ。魔術師が罰を受けることを正当だと見なしたかった。
「雨に降られている私を……見せていたい相手がいる。だから傘は、いりません」
「見せてどうするんだよ」
「それは……」
魔術師は、思っていたことの範疇になかったことを尋ねてきた。この路地の何処にも鏡はなかったが、自分の顔が引きつったことが分かった。自分を見せつけたら、そのあとにどうしたいのかを、何一つとして考えていなかったのだ。言葉がまた、なくなった。
「雨、止まないな」
言い淀んだまま俯いていると、魔術師はそう言った。魔術師は空ではなく、此方を見ていた。魔術師は無表情だったが、黒い囲み目の中心で、水のような青の瞳が笑っているように見えた。考えすぎだろう――そう思いたかった。
今まで感じていなかった雨の温度が、急にひやりとした。寒気がする。ずっと何も思わずに雨に当たっていたことが、不思議なくらいに冷たかった。
「忘れられたくないと思うのは……間違ったことなのでしょうか」
「どうだろうな」
魔術師は相変わらず、飄々とした口調で気のないことを返事にしていた。
「私には、こうして雨に当たり続けて凍えた姿をすることしか……忘れられないでいる方法が、思いつきません」
「そんなことしてたって、お前が風邪を引くだけだろ」
「お前がいたから今の自分がこの姿を強いられていると言いたいんです。私が悲しんで、憎んだ時間に報いがほしい」
魔術師は変わらず無表情だったが、煙草を咥えた薄い唇だけが、別の生き物のように笑っていた。報いがほしいという言葉の後に、時間の流れをため込んでいた。言葉のない寒々した雨の紗幕の中で、静謐が、何かを考えるように強いてくる。
「雨、止まないな」
魔術師は世間話のように呟く。雨が降っていても、煙草の煙は曇天に昇る。魔術師が言っている適当な言葉が、本当に世間話なのかが分からなくなっていた。どうして雨が、止まないのか――初めて、その理由を考えようという気持ちになっていた。
「雨、止まないですね……」
「今日は朝から、ずっと降ってるな」
「今日の朝から、ですか?」
魔術師の言葉に、自分が時間を忘れていたことを知った。今日の朝というのは、一体どれくらい前の話であろうか。少なくとも自分には、もっとずっと以前から、雨が降っていたように感じられたのだ。
自分は何を思われたくて、此処に雨と佇むのか……初めてよぎった、思いがあった。
「雨って、止む日は来るのでしょうか」
「まあ、いつかは止むだろう」
雨の降る空を見上げていた。何処を見つめていいのかも、曖昧な低い空。『いつか』という時間が何処からやってくるのかを思って雨の故郷を見つめていた。頬に落ちた雨粒が、泣いているみたいに流れていった。笑いがこみ上げる。泣き笑いのような顔に、表情は崩れていた。
「そんな日、来るのでしょうか……」
雨が、遮られる。魔術師は、持っていた傘を差しだしていた。自分は雨に濡れながら、何も気にする様子はない。傘に入れてもらったのに、壊れた笑いは悄然として消えていた。悲しくてこぼれる笑いには、雨に降られる悲愴が必要だったのだ。魔術師は覇気が匂い立つ化粧面に、煙草の煙を微睡ませていた。持っていた黒い傘を、掴ませられていた。紫煙の向こうで、長い銀髪が翻る。
「俺は先に行くよ」
「先……?」
譫言みたいな声で呟いていると、魔術師は長外套に雨を浴びながら、銀髪を一房耳にかけた。殆ど顧みてはおらず、長躯は前へ向けたまま、横顔だけで振り返る。
「少し先に行くと、喫茶店がある」
魔術師は傘を失ったことに何かを思うそぶりもなく、路地の先へと歩いて行った。長い脚が大股に遠ざかるのを、ただ見送った。魔術師は確かに雨が降る路地にいたはずなのに、遠くなる背中はすでに、雨が止んだ場所を歩いていた。
「……雨」
傘を差しながら、その場所にしゃがみ込んだ。雨はいつか止む。いつか。いつか。
心の中で何度も唱えた。唱えるほどに、立ち上がる力が脚から抜けていった。この悲しみと受けた痛みに報うことができるのは、一体あとどれくらいの時間が過ぎてからのことだろうと思って、目眩を感じた。この長雨が続く時間に自分の存在は、憎むべき相手の心から遠ざかっているのではないか――不気味に閃く燐光のような思い。背筋が凍る。この悲惨が無意味になろうというのか。顔を上げたとき、魔術師の姿はもう何処にもなかった。
「俺が傘を渡して雨に濡れてみたところで」
「あいつが、歩き出すことはない」
魔術師は長外套を脱いで、カウンター席に座っていた。席の向こうには、誰の姿もない。魔術師は温かい紅茶を飲みながら、長い脚を組んでぼんやりと過ごしていた。灰皿の縁に煙草を置いて、煙が細く伸びて淡く蟠るのを見つめる。角灯の灯りが、倦怠に巻かれている。
路地で雨降る場所をを探していた人物のことを思い返しながら、色味のない唇に薄笑いを乗せていた。整った歯列に垣間見えるのは嘲笑ではない。また、嗤笑とも違う。脱力した笑い方だった。魔術師はもう出会うことない誰かに嘯いている。
「お前が憎く思う相手は、今日も平和で幸せだ。憎悪なんて言葉は知らない。お前のことを忘れるどころか、最初から覚えてなんかいない。お前が見せしめになろうとしたところで、思い出すことなんか無い。お前の憎しみは、誰の思い出にもなってない。思い出にならないことを分かってるから、お前を苦しめることが平気でできる」
「何を愛してたのかなんて知らないが……憎むのは、愛してた自分を守りたいからだろ」
魔術師は紅茶に、傍らの小瓶から一匙、ラムダークのシロップを足した。さっと混ぜたティースプーンをぺろっと舐める。
「雨が止む日を迎えるのは、雨の中でも歩こうとした奴だけだ」
魔術師は誰もいない場所で呟いた。とてもいいことを、言った気分だったが誰もいない。魔術師は、誰かにいいことを伝える気持ちで生きてはいない。
「忘れろとは思わないが、自分の愛し方を間違えたら――朽ち果てるのはお前の方だ」
魔術師は紅茶を飲みながら、暫くの間、煙草をふかして過ごしていた。あの路地のことも、朝から降っていた雨が少し前に止んだことも、そして傘を渡した誰かのことも、甘苦い紅茶を飲むうちに何処かへ遠ざかっていた。こんなことを思えるのは、自分が誰のためにも生きていないからなのだろうかと、魔術師は考えた。自分のためにさえ、生きることをしていない自分。
「俺は、俺を思い出にしない奴のためには何も憎めない」
魔術師はもう、言葉を誰に宛てていたのかを忘れていた。残されたのは、思考。かすかに昇る煙草の煙が、忘れられるがままに、そっと灰になって消えていた。
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