第3話 秘められた想い

 バーは歓楽街から一区画離れた静かなオフィス街の地下にある。隠れ家のように経営しているので、客は少ない。ほとんどが常連客だ。だが驚いたことに、有里さんはバーにいた。

「有里さん、帰ったんじゃ…」

「もう一杯。一人で晩酌したくなっちゃって。あら?」

 有里さんが美月とテルの二人を眺める。

「お連れの方?」

「ええ、まぁ」

「『セレーナ』のモデルさんですよね。すぐにわかったわ」

「あ、はい。山岡美月と申します」

「山岡さん…。もしかしてウメザカヤ美術館に所蔵している山岡美月先生ですか?夜空の絵の!」

「あ、はい。有り難いことに、あの絵を入れてもらえることになって」

「じゃあ伸先生と同じ作家さん同士なんですね」

 有里は柔らかく、けれどどこか寂しそうに笑った。

「いいなぁ。私なんか芸術にはとんと無頓着だから、芸術家の感性に触れてスゴイって言っているだけなのよね。お互いに語り合えるものがあるって羨ましい」

「語り合うほど語ってませんよ」

 僕が笑って突っ込む。

「そうなんですか?」

「私たち、自分の制作に黙って打ち込むタイプなので。話込んだりとか、そういうことはあまりないですね。飲みに来たのも久しぶりですし」

 美月が補う。

「あら、意外と寡黙なんですね」

「はい」

 その後、有里さんは何か考え込むように黙りこくってしまった。

「私、そろそろ本当にお暇しますね」

 それなら送って行こうと立ち上がりかげた瞬間、

「今度こそ一人で帰れます」

 そう言って有里さんは颯爽と帰っていった。

 残された僕たちは顔を見合わせたが、

「なぁ。彼女、おまえさんに気があるんじゃねーの?」

 テルさんが唐突に言い出した。

「えっ」

 驚きはしたものの、妙に納得をした。

「テルってば、どうしてそう思うの?」

 美月が率直に聞く。

「勘だよ。俺の。あんたその気がねーんだったら、もう誘わないことだな。向こうさんも期待をする」

 僕は何も言えなかった。


 

 次の日曜日、有里さんは教室に来なかった。

「今日は有里ちゃん来ないわねぇ」

 老夫人が呟く。

「伸先生、何か聞いてないかい?」

「いえ。連絡は特にありませんし、お忙しいのではないでしょうか」

 有里さんは看護師だと言っていた。仕事が長引いているのかも知れない。

「寂しいのう」

 ご主人もそう呟いた。

 外は曇りだ。今日は肌寒い風が吹き付けている。街路樹が音を立ててなびく。

 結局、その日以降有里さんが来ることはなく、しばらく休むという連絡だけがあった。



 塾の職員室でお昼ごはんを掻き込んでいると美月がやってきた。

「先輩、言おうか悩んだんですけど…」

 言いにくそうに上目がちに僕に話しかける。

「なんだい?」

「実は、有里さん、今うちで預かっているんです」

「え?預かるって一体」

「私に絵を見てほしいって訪ねて来たんです」

「美月の所に?それで?」

「伸先生の所に通っているんじゃないのかと聞いたんですが、伸先生のところでは描けないからって」

「僕は嫌われたのかな」

「そういうことではなさそうです。私は生徒を取っていないと伝えたんですが、描いたものを見るだけでいいから、と。すごい熱意で。押し切られた形です」

 あの有里さんが情熱を傾けてまで描きたい絵とはどんなものか気になったが、どうやら僕は間に入ってはいけないらしい。

「美月、申し訳ないが彼女の申し出を聞いてやってくれないか。こう言うからには授業料は僕が出そう。頼む」

「授業料は有里さんがどうしてもというので、いただています。だから伸先輩は気にしないでください。ただ…」

「ただ?」

「出来上がるまで、先輩には会えない、と」

「会えない?どうして?」

「さぁ。実際のところ、私も全てを聞いているわけではないんです。ただ、絵を描いて、それを見てほしいとだけ」

「そうか。彼女なりの理由があるのかもしれない。僕は言われたとおりにするよ。会えないなら会いたくなるまで待つさ」

「あら、ふふ」

「どうした?」

「いえ、恋人を追いかけているみたいな台詞だなって」

「茶化さないでくれよ」

「でも、先輩まんざらでもないんじゃないですか?」

 そう聞かれて否とは答えられなかった。


 その後も美月は有里さんの近況を教えてくれた。絵の進捗状況は上々らしい。折々に聞く有里さんの話は次第に僕の楽しみになった。有里さんの腕はなかなか上達しないらしいが、個性があって楽しい作品だと美月は評価した。どんな絵を描いているのか聞いてみたが、それは秘密だという。そうして二ヶ月が経ち、短い梅雨が終わり初夏が訪れた頃。

 有里さんが美月とテルさんに伴われて僕のアトリエにやって来た。

「伸先生、絵を描いたんです。先生に見て欲しくて」

 有里さんは一枚の人物画を差し出した。

「これは?」

「太陽の神、アポロンです」

 有里さんの描いたアポロンはピカソの抽象画よろしく顔型が崩れ、身体もスケールがバラバラだった。

 ただどことなくその顔付きは僕に似ていた。

「先生の絵を描きました。私も伸先生のセレーナみたいに絵で好きな人を好きって表現したい」

このアポロンは僕らしい。

「私、伸先生が好きです。先生は私の下手な絵をちっともなじらないし、先生のモデルになりたいって言ったら和服が似合いそうって言ってくれた。嬉しかった。とても」

 有里さんは一気にしゃべって、少し息を切らしていた。

「ありがとう。有里さん。嬉しいです」

「伸先生…」

「ところで、その和装のモデルのお願いをしたいのだけど、どうだろう」

 有里さんは目を見開いて僕を見つめる。泣きそうだ。

「喜んで」

 だが笑顔で答えてくれた。


「良かったね、テル」

「うん、なぁ、ミツキ。なんであの男、モデルなんて回りくどいことをお願いしてんだ?直接口説けばいいのに」

「あら、テル。伸先輩がプロじゃない女性にモデルを申し込むのは口説いているのと同意義よ。」

「へー。ん?ちょっと待て。それじゃあおまえも口説かれてたのかよ!?『セレーナ』の時」

「どうかしら。うふふ」

「美月!!」


 月の女神セレーナが支配する夜が明け朝日が昇ったならば、女神の加護は届かない。僕はセレーナのいない新しい朝の生活をスタートしなければならない。

 これから先がどうなるかなんてわからない。わからないからこそ未来を楽しみに明日を迎えるのだろう。有里さんとの未来は僕にワクワクした気持ちを与えてくれる。こんな気持ちは久しぶりだった。

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朝日が昇ったなら 檀(マユミ) @mayumi01

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