第2話 偶然

「有里さん、どうしてここに」

「伸先生。あっ」

 僕はとりあえず膝の手当てを先に施した。

「ありがとうございます。大丈夫です、自分でできます」

「びっくりしました。有里さんは心肺蘇生法の講習を受けたことがあるんですね」

「あ、はい。実は私、看護師でして」

「看護師。それで手際が良かったんですね」

「伸先生の絵を見に行ってきた帰りだったんです」

 僕の絵の。

「居合わせたとはいえ、大変でしたね」

「いえ、私が勝手にやったことですから。伸先生、それよりもし良かったらお食事でもして帰りませんか?」

 素敵な女性から誘われて嬉しくない男などいまい。

「もちろん。同じことを言おうと思っていたんですよ。レストランにします?居酒屋?」

「居酒屋!」

「じゃあ大将の店に行こう」


 大将の店は相変わらず混んでいたが、気持ちよさそうに酔った中年男性たちが楽しそうに談笑している。

「おう、伸ちゃん、いらっしゃい!お連れさんも!」

「こんばんは」

 有里さんが丁寧に挨拶する。

「何にする?今日は活きのいいのが揃ってるよ!」

「じゃあ、私、お刺身!」

「僕も」

「あいよっ!」

 大将は嬉しそうに注文を取る。

「伸ちゃんが女の子を連れてくるなんて何年ぶりだろうか」

 お通しを吹き出しそうになった。

「ちょっと大将、そんな話いいでしょ、今でなくても」

「いやいや、俺は嬉しいんで。お連れさん聞いてくれよ」

「はい」

 有里さんはニコニコと楽しそうに答える。すでにビールを一本空けていた。

「有里さん、乾杯忘れてますよ」

「あらま」

 改めて乾杯をするが、大将の話は止まらない。

「伸ちゃんにはずーっと好きな女がいてね。けどその子には忘れられない男がいた。三角関係ってやつだ」

「あらぁ。世知辛いですねぇ」

「ようやく伸ちゃんが口説いたと思ったら、結局その男に持ってかれちまってよ。こいつ10年の恋に失恋したわけよ。慰めてやってくれ、姉ちゃん」

「まぁ。それは辛いですね」

 10年でなく14年だ。と、そんなことは今更どうでも良い。

「大将、もうやめてください。傷が疼きます」

 冗談ぽく抗議する。

「有里さんも、大将の話はあまり真面目に聞かないように」

「あら、ま。じゃあ代わりに伸先生の絵の話を聞かせてくださいな」

「それはもちろん。是非もなく」

 そのまま僕たちは絵画教室や塾の話題で盛り上がった。


 帰り道はもう夜もすっかり更けてしまっていた。

「有里さん、よければ近くの駅まで送って行こうか?」

「それじゃあ、お言葉に甘えて」

 夜の中心街は歓楽街に姿を変える。酔っ払いたちがフラフラし、座り込む者までいる。女性一人で歩かせるには不安だ。

 二人で歩いていると、有里さんは突然、こんなことを言い出した。

「伸先生の『セレーナ』、観てきました。先生、あのモデルの女性を愛してるんだなって、すごく伝わりました」

「どうしてそれを?」

「セレーナを観ていると、女神に愛されている気持ちになるんです。セレーナに愛してるって言われているみたいに。それって、伸先生が一番欲しかった言葉なんじゃないかって」

「……」

「きっと伸先生、その女性を深く愛してたんだなって伝わるくらい、セレーナはそういう作品です」

 痛いところを突かれた。美月への想いを思い出し、切ない感情が湧き上がる。

「有里さん。あなたは本質を見抜く力があるんですね」

「私が特別なわけじゃないですよ。セレーナはそれくらい傑作です。観た人誰もがそんな感情になるんです。伸先生の気持ちが強く表れているんです」

「恥ずかしいなぁ」

「恥ずかしがることないですよ。誰かを深く愛せるなんて素敵なことです。私も経験してみたい」

「そうですか。有里さんなら素敵な男性を捕まえられますよ」

 有里さんが僕をじっと見つめた。

「伸先生は、案外鈍いところがありますか?」

「えっ?」

「なんでもないです。あーあ。私も先生のモデルになってみたいなぁ」

 先生のモデルになりたいと言われるのはこれが初めてではない。幾人かの女性に言われてきたが、その度に丁寧に断ってきた。だが。

「有里さんなら大歓迎です。有里さんは着物が似合いそうですから、和装がいいかな」

 冗談ではなく、本気で答えた。

「和装。ふふ。ありがとうございます。冗談でも嬉しい」

「冗談では…」

「駅につきました。今日はここで」

「あ、はい。気を付けて帰ってください」

 そのまま有里さんは地下鉄のホームへ向かっていった。


「伸先輩?」

 ぼうっとしていると、美月が声をかけてきた。隣には彼氏。

「美月。美月も中心街に来ていたのかい?」

「うん。テルと一緒に」

 彼氏は僕をじろりと見た。彼女の隣でじろりと見てやるのが僕だったら良かったのに。

「先輩、さっきの女性は彼女さんですか?」

「えっ、いや違うよ。絵画教室の生徒さんだよ」

「そうなんですか。お二人、恋人みたいに見えました」

「ミツキ、その御仁はおまえに振られて傷心なんだ。あんまりいじめちゃ可哀想だ」

 彼の方が横槍を入れる。

「誰かさんに横から掠め取られたからね。誰かさんが現れなければ、美月の横に今いるのは僕だったかも知れないよ」

 攻撃には攻撃で返すのが僕の流儀だ。

「二人とも、それくらいにしてちょうだい」

 美月が止めるので僕は矛を収めることにした。

「でも先輩、さっきの女性と一緒にいて楽しそうでした。あんなに笑っている先輩、久しぶりに見ました」

 楽しそう。そう、確かに有里さんとの時間は楽しかった。

「そうか。美月にはそう見えたのか」

「はい」

 それなら僕も失恋の痛みから立ち直りかけているのかも知れない。

「テルさん、美月を借りてもいいかな?もう一杯飲みたい気分なんだ」

「ダメに決まってるだろう」

「君を出し抜いて美月を奪おうなんて不埒な考えはないよ。安心して預け給え」

「ダメと言ったらダメ。美月、帰るぞ」

「えっ。私、久しぶりに先輩と飲みたい!テルも一緒に来ればいいじゃない!」

「ええ…。俺、論文の締切が迫ってんだけど」

「それなら僕と美月の二人で飲むよ。ちゃんと家に送っていくから安心してくれ。」

「安心できるか。俺もついて行く!」

 二次会は行きつけのバーに決まった。

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