朝日が昇ったなら

檀(マユミ)

第1話 新しい生活

 長い間、片思いしていた女性ひとに恋人ができた。どうしても欲しくて口説いてもみたけれど、無駄だった。彼女には彼しかいなかった。僕の入り込む隙はなかった。僕は振られてしまった。


 年度始め、四月も中旬になると桜は散って新緑となり、暖かな気候は人々をのどかにさせるようだ。

 僕の勤める塾では新たな生徒を迎い入れた。残念ながら志望校に落ちてしまい、やむなく浪人する塾生も含め、忙しなかった三月とは打って変わって生徒たちはのんびりとそれぞれの制作に向かっている。

 僕はというと、四月から新たに個人で絵画教室を開くことにした。といっても週一回日曜日だけの試験運転だ。塾の方も相変わらず勤めている。

 そんなに働いて過労死しないのかと同僚の山岡美月先生に言われたが(ちなみに山岡美月先生は僕の元想い人だ)、働くことが好きなので問題ない。

 絵画教室は新しく借りているアトリエの一階を充てた。二階は僕のアトリエ兼寝泊まり所だ。家は別にあるが、ほとんどここにいることが多い。


 日曜日の午後。絵画教室の生徒たちがやってくる。ここは塾と違って年齢層が高い。ベテラン主婦に定年退職後の趣味として始めた高年男性、絵を描くことが趣味の老夫婦。その中でも浜池有里はまいけゆりさんは目立って若いので、生徒の内で娘のように可愛がられている。20代後半くらいであろうか。

 有里さんはずば抜けて絵が下手だ。大胆なデッサンをする。明らかな初心者である。ここに通ってくる生徒は腕に自信のあるものが多いから、珍しい。もちろん上手い下手で差別はしないので歓迎だが、疑問に思ったから聞いてみた。

「有里さんはどうして絵を始めようと思ったんですか?」

「私、仕事と職場の往復ばかりで。日常にない世界に触れてみたくて」

「そうなんですね。ここを楽しんでもらえるといいな」

「楽しいですよ。絵を描くこともですが、皆さんの絵を眺めることも」

「おや、嬉しいことを言ってくれるね!」

 老夫人が答える。

「私らの絵よりも、伸先生の絵を見るといいよ。先生の絵は逸品ばかりだ。勉強になる」

「特に『セレーナ』ね。あれは傑作さね」

 と、旦那さん。

「セレーナ?」

「月の女神だよ。一度見にいくといい。ウメザカヤの美術館が所蔵している」

「中心街のウメザカヤですか?」

「そうそう」

「それなら今度、寄ってみますね」

 素直なところがこの女性の美点だろう。有里さんは少しふっくらとした手に絵筆を取り、りんごの絵の続きをする。着物が似合いそうだな、とふと思った。このひとに着物を着せて髪を結い、和傘を持たせたら絵になるだろう。

 はっと気づいて苦笑いをする。日常で出会う人をモデルに空想するのは僕の悪い癖だ。

「ありがとう。僕も自信の作だと思っているんだ。是非見て欲しい」

「それなら尚更興味が湧いてきました!」

 有里さんが笑う。方えくぼが魅力的な人だと思った。


 翌日、塾に出勤すると持田紗也が自主課題を持ってやってきた。

「伸センセ、課題やったから見てえ」

 相変わらずおっとりというかねっとりというかした口調だ。持田紗也は芸大の現役合格が叶わなかったので浪人することにしたらしい。

 どれどれとスケッチブックをめくる。

「おや、上達したね。デッサンの狂いが減ったし、構図の取り方も上手い」

「だって、私ちゃんと勉強したもんー。ところでセンセ、美月先生を追っかけるのは諦めたのかしら。」

 痛い所をついてくる。

「それは君には関係ないでしょ。勉強に戻りなさい」

「はぁい。ゴメンナサイ」

 大人しく自席に戻って行った。

 山岡美月は僕の同僚で、僕の元想い人だ。もう14年も恋をしていた。失恋してから半年が過ぎた。彼女が特定の男性と付き合うまでは諦めるつもりはなかった。いや、自分が彼女を射止めるつもりでいた。それが往年の幼馴染とくっついてしまった。

「僕も恋人欲しいなぁ」

 心の中でつぶやいたつもりが声に出てしまっていたらしい。

 生徒の幾人かが怪訝な顔をしてこちらを見た。たまたま聞いていたらしい美月先生までも、含んだ笑顔でこちらを見つめてきた。

「ゴホン」

 いかんいかん、職務中だぞ。僕は咳払いして職員室へ向かった。


 職員室で生徒の課題を添削する。手のデッサンだ。色々な手がある。大きい手、小さい手、角張った手、節だらけの手、丸い手。

 ふと有里さんの手を思い出した。包み込むような手。

 有里さんは僕の作品を見てくれただろうか。芸術初心者の有里さんはどんな感想を持っただろう。今度の日曜日が楽しみだ。

「立花先生」

 同僚の屋島先生だ。彼は油絵学科の講師だ。ちなみに僕は日本画学科。

「先生、聞きましたよ。彼女募集中なんだとか」

「どっ、どんな噂ですか。どこでそんなことを」

「え?生徒が聞いたって。彼女欲しいって」

「……」

 なぜ噂はこうも早く広まるのか。

「今度合コンしませんか?知り合いの女の子呼びますよ」

「いや、あの。そのですね…」

 彼女が欲しいのは本心だが、人にお膳立てされるのはどうにも不本意である。

「伸先輩、合コンするんですか?」

 職員室に戻ってきた美月が聞く。

「いや、しないよ。全然」

 しどろもどろになりながら僕は答える。美月までなんてことを言うんだ。

「あれっ?さっき屋島先生が合コンって」

「屋島先生が早とちりしたみたいだ」

「ええ?そうなんですか?」

 二人が同時に聞き返す。

「とにかく、職務中だから二人とも仕事に戻ろうね」

 二人はすごすごと各々の持ち場へ戻って行った。


 帰り道、中心街に出て画材屋に寄る。自分の制作用と、絵画教室で用意する分を購入した。食事でもして帰ろう。大通りを渡ろうとしたその時。

 車がブレーキを踏む大きな音と、バーンという人とぶつかる音。振り向くと、車と歩行者が衝突していた。

 すぐさま119番に連絡を入れる。野次馬の中から若い女性が駆け寄って被害者に救命措置を施している。運転手が警察も呼んだようだ。程なくして救急車が到着し、被害者を乗せて病院へ向かって行った。若い女性が警察に事情聴取されていたが、解放されたようだ。心肺蘇生法を施していたために膝がアスファルトに擦って血だらけである。

 彼女の元に駆け寄って清潔なハンカチを差し出した。と、

「伸先生?」

 呼ばれて、彼女をよく見る。有里さんだった。

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