この関係には名前がない

ねじまきねずみ

6月。深夜1時。

とあるマンション。


——ガチャ、ガチャ


——ガチャガチャガチャ


あれ? おっかしいなぁ……


〝なぜか、自宅玄関のドアが開かない〟


不思議に思いながら必死に鍵穴に鍵をさして、ドアノブを回す。


——ガチャ、ガチャ


——ガ……

——カチャリ


突然、ドアがふわりとこちらに向かって開く。


あー良かった。これで眠れる。


「いい加減にしてくれません?」


苛ついたような低い声が頭の上から聞こえる。

「え? 誰?」

なんで人がいるの?

「私の部屋で何して——」

「俺の部屋ですけど?」

「え? そんなはずないです」

オートロックのエントランスを抜けて上がって来た、メゾンNNの5階。絶対に私の部屋。

私の部屋から出てきた男性は、大きなため息をついた。

「あんたの部屋、隣じゃない?」

そのひと言で、サーっと血の気が引いていく。

酩酊気味でぼーっとしていた脳みそも、一気に正気に戻っていく。

「す! すみませんでした!」

夜中に酔っ払ってひと様の家のドアをしつこく開けようとする……警察を呼ばれてもおかしくない事態だ。

「もういいよ。酔っ払ってんでしょ? 早く帰って寝なよ」

「あ、ありがとうございます」

「おやすみ」

そう言って、彼はドアを閉めた。


それがお隣さん、真下仁ましたじんくんとの、申し訳なさすぎる出会いだった。



8月。夜10時30分。

「案件残ってるなら、もうあと30分早く言ってよ〜って感じ」

「それでこの時間まで残業ですか」

「そ。やーっとゆっくり〝この子〟と過ごせる」

「この子って」

真下くんに苦笑いされながら私、木崎心きさきこころ・25歳はビールのタブを開けて「プシュッ」と音を鳴らす。

そしてそのままグビッ。

「あー生き返る〜! やっぱり私の味方は君だけだ〜好きー」

そう言って、ビールの缶にチュッとキスする。

〝この子〟こと冷蔵庫でキンキンに冷えているビールが、私の帰りを待っていてくれるパートナー。

「おつかれさま」

そう言って、真下くんがいつも飲んでる輸入ビールの瓶を傾ける。

あれから私たちは、家で乾杯するほど親しい間柄に——まではなっていない。

私たちがいるのはお互いの部屋のベランダ。

二人の間には白い仕切り板がある。

私たちは、ベランダで会話をしながら気まぐれに乾杯するくらいには親しいお隣さんになった。



あんなに迷惑なことをしてしまった翌土曜日の午後、近所のケーキ屋さんで焼き菓子を買って謝罪に行った。

『本当に申し訳ありませんでした!』

面倒そうでもドアを開けてくれた彼に深々と頭を下げる。

『もういいですよ、べつに何か被害があったわけでもないし』

『でも夜中に起こしてしまって』

『起きてたんで大丈夫です。それより気をつけた方がいいですよ、隣人が悪人って場合もあるんだし』

年下にしか見えない彼に、もっともな指摘をされてしまう。

『ですよね……こんなこと今までなかったんですけど……。本当に申し訳ありません』

『まあとりあえず何もなかったんだし、今回のことは大丈夫ですよ。俺も昨日は言葉がキツかったし。頭を上げてください』

しゅんとしている私を慰めるように言ってくれた。

『じゃああの、お隣さんということで、あらためて今後ともよろしくお願いします。木崎といいます』

『……真下です。よろしくお願いします』

真下さんが何か言いたげな顔をした気がしたけど、その場はそれでペコリと頭を下げて家に戻った。


それから6時間ほど経って、夜8時。

『え』

そんな声を発して驚きと若干の呆れを含んだ顔で私を見たのは、真下さん。

遭遇した場所が近所のコンビニのお酒売り場だったから。

しかもよりによって、冷蔵庫のドアを開けていつものビールに手をかけているところ。

『昨日の今日で』

何も言い返せずに黙ってしまった私の顔は、きっと恥ずかしさで赤らんでいたはずだ。

『……き、昨日の反省を生かして、しばらくは宅飲みオンリーにしようかと』

私の発言を聞いて、彼は『ブッ』と吹き出した。

『酒を控えようって発想にはならないんですね』

『あはは』と大きく笑われてしまった。

『すみません……』

『いや、べつに。失敗しなければいいんじゃないですか』

真下さんは輸入ビールのコーナーから水色のラベルが貼られた瓶を1本取り出すと、レジに向かっていった。

彼もお酒を、しかもビールを飲むんだな、という妙な親近感を覚える。

そして、なんとなく彼は良い人のような気がした。


お隣さんということもあって、そのコンビニやご近所の散歩中、ゴミ出しなどでよく顔を合わせるようになった。

それまでもきっと何度も遭遇していたはずだけど、お互いに気づくようになったというのが正しい。

といっても、そんなときは決まって会釈をして『どうも』『それじゃあ』。


そんな関係に変化があったのは、7月に入った頃だった。

土曜の夜9時、家でぼーっとしていたら『カラカラ』と、お隣のベランダの窓が開く音がする。

続けて『シュポッ』という、瓶の栓を開ける音が聞こえてきた。

〝ひとりで晩酌のリラックスタイムかもしれないし〟

〝そもそも友だちでもないし〟

一瞬迷ったけど、我慢できるはずもなかった。

『カラカラ』と同じ音を鳴らして窓を開ける。

そして仕切り板越しに、ひょこっと顔を出してみる。

『こんばんは』

『……こんばんは』

予想通りビールを飲んでいた彼は、驚いた顔をしていた。

『栓抜きの音が聞こえちゃって。ご一緒させてもらえないかなーって』

ビールの缶を掲げて見せる。

『ほんと好きっすね、酒』

『お酒というか、ビールというか』

『何照れてるんですか、ほめてないですよ』

『えへへ』と笑った私に、するどいつっこみが入る。

その瞬間に〝この人とはウマが合う〟って気がした。

『いつもベランダで飲むんですか?』

『いや、梅雨も明けて風も気持ちいいから今日はここで飲もうかなって』

たしかに顔に当たる夜風が優しくて気持ちいい。

『そっちは? ベランダでもよく飲むんですか?』

ベランダ〝でも〟……キレのある的確な嫌味。

『私本当は外で飲む方が好きなんですけど、あれ以来宅飲みばっかりで。でもベランダで飲んだことはないです』

だからなんとなく、今日私がいる時間に真下さんがベランダの窓を開けてくれたのがうれしい。

『雨ばっかで居酒屋行くのがダルかったとか、そんな理由なんじゃないですか?』

『違います……反省してるんですよ、これでも』

しゅんとして、なぜか笑われる。


『とりあえず乾杯しませんか? 木崎さん』



その日を境に、タイミングと気分が合った日は二人でベランダ飲みをする関係が続いている。


気づけば〝真下さん〟は〝真下くん〟になっていた。


二人で話すのは、はじめのうちは自己紹介のようなことが多かった。

私がアパレル系の会社で広報の仕事をしていると教えたら、彼は21歳の理系大学の4年生だということを教えてくれた。

理学部で電子システム工学とかいうやつを勉強してるらしいけど、詳しいことは……というか、そのずいぶん手前で私の脳のキャパを超えて理解できなかった。

最近はその日のできごとだとか、ネットやニュースで見た関心ごとなんかを話すことが多い。

仕切り板を隔てて、顔とビールくらいしか見えない関係。

ときどきおつまみの交換なんかもするけど、たいていビール1本で解散だから、二人ともおつまみ無しってパターンが多い。


「最近の大学生ってSNS何見てるの?」

私は仕事柄、SNSでのプロモーションなんかにもよく携わっている。

「俺に聞きます?」

「まあ、それもそっか」

「だいたいそういうのって会社がマーケティングでリサーチしてるんじゃないんですか?」

ビールに口をつけながら、あまり興味なさそうに彼が聞く。

「んーまあそうなんだけど、身近な大学生の実態も知ってた方がリアルかなーって。じゃあさ、真下くんの彼女は?」

「彼女も同類なんで、SNSとか見ないんじゃないかな」

「二人して使えないなー」

私は眉を寄せてつぶやく。

「失礼だな。これだって身近な大学生の実態ですよ」


彼には同じ大学に彼女がいることも、話す中で自然に知った。

ちなみに私には付き合って2年の、そろそろ結婚も視野に入れている1つ歳上の彼氏がいる。彼の話もときどきする。

私の彼がたまに部屋に泊まりに来るように、彼の部屋にだって彼女が来ている日があるんだろう。


お互いの名前と住所は知っているけど、連絡先は知らない。

毎日のように顔を合わせるけど、タイミングと気分が合わなければベランダで乾杯することもない。

この関係は何だろう。

お隣さんではあるけど、彼以外の隣人とこんな風にお酒を酌み交わしたようなことは人生において一度もない。

友だちというにはあまりにも限定的な関係って感じだし。

飲み仲間? それもなんだかしっくりこない。


なんとも名付けにくい不思議な関係性。



10月。

「すみませんでした」

私は会社の他部署で上司と一緒に頭を下げている。

SNSに掲載していた靴の価格を、税込で表記すべきところを税抜の価格で記載してしまっていた。

「今後は気をつけてくださいね」

ミスの内容自体は珍しくもない。

幸い印刷物でもなく、メルマガで配信したわけでもなかったから影響も少なく済み、靴のブランドの担当部署への謝罪とSNS内に謝罪文を掲載するだけで事態はおさまった。もちろん間違った情報が社外に出てしまった以上、報告書などは書かなければいけないのだけれど。


「影響が小さく済んだなら良かったじゃないですか。なんでそんなに落ち込んでるんですか?」

夜7時。ベランダで手ぶらで突っ伏してたら真下くんに聞かれる。

「それはそうなんだけど、そういう問題じゃないんだよ。すごく初歩的なミスなんだもん」

何度も確認したのに。

複数のブランドのアイテムを、同じ日に数コーディネートずつアップしなくてはいけない案件だった。だけど今までこんなミス、したことがなかったのに。

「はあっ」って思わず大きなため息をついてしまった。

「誰にも怒られなかったの…… それがかえって苦しかった」

どうせなら、誰かに怒って責めて欲しかった。

「いい加減にしてくれません?」

「え……」

真下くんが急に苛立った声色になったから、心臓がギクリと音を鳴らす。

「って、木崎さんに最初に会った夜の一言目に言ったなって思って」

すぐにいつも通りの声。

「びっくりした。急に何」

「ほらやっぱり。嫌でしょ、怒られるの」

「え?」

「怒られなかったのは、普段の木崎さんがちゃんと仕事してるからだと思いますよ。過去の自分が貯めておいてくれた財産なんだから、受け取ればいいんですよ」

「財産……」

「落ち込むよりも、築いてきたものを大事にしないと簡単に無くなりますよ」

迷惑をかけた部署の人に『今後は気をつけてくださいね』と言われたことの重みを感じる。

「真下くんて、本当に21歳?」

心が少し軽くなって、思わず笑みがこぼれた。

「……ビール持ってこよっ」

「さすが」

ビールを取りに部屋に戻る背後で、真下くんが苦笑いしてるのがわかった。

再びベランダに出ようとした瞬間、〝ドンッ〟という鈍い音がどこからか聞こえる。

「え? 何?」

「花火ですよ。今日この部屋の反対の方向で季節外れの花火大会」

「え、何それ。こっち側は音だけってこと?」

彼がうなずく。

「普通こういうときって、花火が上がって〝これからも頑張ろう〟って前向きになるやつじゃないの?」

「まあいいじゃないですか。音だけでも」

そう言って、真下くんがビールの瓶をこちら側に差し出して傾ける。

缶ビールを「コツン」とぶつける。

「……ありがとね」

「俺も、木崎さんとのこの時間で救われたことあるんで」

「そうなの?」

予想外のことを言ってくれた仕切り板の向こうの彼は、無言で優しく笑っている。


励ましてくれる相手がいることがうれしい。


音だけの花火大会に、一緒に乾杯できる相手がいるのがうれしい。


今日このタイミングで真下くんがいてくれて、ベランダに出てきてくれてうれしい。


そんな風に思ってしまっている。


その頃から真下くんは卒業論文の準備期間に入って忙しいらしく、あまり家にいない日が続いた。

正直なところ、ホッとしていた。

気持ちに危険信号が灯っていることくらい、自覚しているから。

〝お隣さん〟が距離を縮めすぎた。それが私たちの関係。

このあたりで元に戻るべきなんだ。


それでもごくたまに合ってしまうタイミングに、胸を躍らせている自分がいる。



2月の終わり。外は随分春めいてきた。

真下くんは無事卒業が決まってお祝いの乾杯なんかもした。

4月からは大学と同じ敷地内の大学院に行くらしい。ということは、4月からも彼はお隣さんだ。

うれしいような、怖いような。

そんな気持ちを抱えながら、いつものコンビニに行く。

「仁がいつも飲んでるのってこれだっけ?」

『仁』という響きにすぐにはピンとこなかった。

「そ。でも箱で買ってあるから今日は買わん」

その声でなぜかギクッとして、ピンときた。

真下くんと、彼の恋人。

「あ、木崎さん」

二人が駅の方へ歩いていくのを遠目に見たことはあった。だけど、会うのは初めてだ。

「え? 誰?」

「お隣さん。こんばんは」

「……どうも」

彼女はペコリと頭を下げて、にっこり微笑む。

ショートカットで『彼女も同類なんで』って言った真下くんの言葉がよくわかる落ち着いた雰囲気の子だ。頭良さそう。

「それじゃあ」

私は笑顔を作って早々に退散することにした。


—— 『仁』

下の名前で呼ばれる真下くん。

—— 『そ。でも箱で買ってあるから今日は買わん』

敬語じゃない真下くん。


私にだっているのにね。そういう相手。

——『お隣さん』

それ以上でもそれ以下でもない、正しい説明。

ため息をつくようなことじゃないのに。



3月中旬。金曜深夜1時。


——ガチャ、ガチャ


——ガチャガチャガチャ


あれ……?


——ガチャ、ガチャ


——カチャリ


「何やってんですか」


「え……? 真下くん? なんで?」

「こっちは俺の部屋」

数か月ぶりにまたやってしまったらしい。

「あはは……やっちゃった。ごめんね……」

「大丈夫ですか?」

「うん、ひさびさに外で飲んではしゃぎすぎちゃった」

苦笑いでごまかす。

「本当にごめん。おやすみ」

真下くんの言う通りだ。

何やってるんだろう、私。

「……木崎さん、手ぶら?」

「え?」

真下くんの指摘で自分の手もとを見る。

「え!? なんで!?」

「その鍵も、なんか変じゃないですか?」

彼に言われて握りしめていたものをよく見ると、見覚えのない形の鍵にプレートが付いている。

足元は居酒屋のロゴ入りのサンダル。

またしても血の気が引いていく。

こういうときの酔いの醒める速さってなんなんだろう。

さっきまで飲んでた居酒屋にカバンごと忘れて、店の靴箱の鍵を握りしめて帰って来てしまったんだって理解して、一気に絶望的な気持ちになる。

「お店に戻っ——」

「待った待った」

焦ってくるっと向きを変えた私の腕を、真下くんがつかむ。

「もう1時ですよ? 店に着いても閉まってるんじゃないですか?」

たしかにそうだ。

「とりあえず電話だけして、荷物があるかどうか確認すればいいんじゃないですか?」

冷静な真下くんのアドバイスで、かろうじて持っていたスマホで店に電話した。

閉店直前のようだったけどなんとか繋がって、私のカバンと靴があることは確認できた。ホッと胸を撫で下ろす。

「木崎さん、今夜どうするんですか?」

「え……」

「良かったら、俺ん家で飲み直しません?」

スマホはあるんだから、連絡してタクシーででも彼氏の家に行けばいい。

なんなら近くのビジネスホテルに泊まったっていい。


だけど……



「テキトーに座ってて」

「え……これ、どうしたの」

彼に招かれて上がった部屋で、呆然と立ち尽くす。

そこにあったのは大量の段ボールと、ほとんど床の見えたがらんとした部屋だった。

「引っ越すんですよ」

「え……?」

「挨拶に行ったのに、最近木崎さんとタイミング合わなくて」

そう言って真下くんが差し出したギフトらしき何かを無言で受け取る。

「全然ベランダにも出てこないし」

「……忙しくて」


……嘘。


本当は、真下くんと彼女が一緒にいるのを見た日から彼を避けていた。

週末は後ろめたさと不安な気持ちを抱えたまま彼氏の家に泊まりに行っていたし、平日もベランダには出なかった。

そして今日、久しぶりに飲み会に参加したら感情がぐちゃぐちゃになってしまってこの体たらく。


「それ、中身はつまみセットです。木崎さん専用ご挨拶」

真下くんはいつもみたいに笑って言った。

「あれ? でも、4月からは院生なんでしょ? 引っ越さなくていいんじゃないの?」

「彼女と暮らすことにしたんですよ。向こうが就職して会いにくくなるからって」

「ふーん……そっか」

ごくごく普通の、よくある話。

「いつ? 引越し」


「明日」


「え、ずいぶん——」

急なのは私が避けてたからだ。

「だから、最後に木崎さんと飲んでおきたいなって思ったんですよ」


最後か。

バカだなぁ……大事な時間がラスいちになっちゃった。


「ビール、1種類しかないんですけどいいですか?」

コクリとうなずく。

彼がいつも飲んでる水色のラベルのビール。猫が描いてあるって今日初めて知った。

二人で床に座って、積み重なった段ボールに寄りかかる。

「いつもこのビールだったね」

真下くんが栓を開けてくれたビールを受け取りながら、いつでも聞けた質問を今日初めてしてみる。

「これベルギービールで結構めずらしいのに、なぜかそこのコンビニで売ってるんですよ。だからつい」

「あそこの品揃えってちょっと変わってるからね。葉巻とか売ってるし」

二人で瓶を「コツン」とぶつける。

「苦っ」

「黒ビールです。苦手でした?」

「苦手っていうか、あんまり飲んだことないかも」

慣れれば好きになれそうな気がする。

「真下くんて、本当に大人びてるよね。考え方も好みも。21歳とは思えない」

「もう22歳になってますよ」

「そうなの? 誕生日いつ?」

「11月」

「言ってくれたら良かったのに」

「木崎さんは?」

「5月。だから私は25歳のままだよ」

こんな話も初めてしてる。

「そっか。3つしか違わなかったんですね」

「4つと3つで何か違う?」

「全然違いますよ、同じ大学にいたかもしれないじゃないですか」

彼の言葉に思わず「ふふっ」と笑う。

「その考え方、学生っぽい。社会人になったら変わらないよ、3つも4つも。だいたい留年とか浪人とかあるじゃない」

「急に年上ぶるんですね」

初めて見る真下くんの拗ねた顔がかわいい。

「おつまみ、開けちゃおっか。せっかくだし真下くんと食べたい」

さっきもらった包みをベリベリと躊躇なく開けてしまう私。

箱を開けると、銀色の文字が光る半透明な袋に入ったナッツやサラミのおつまみが6袋。

「おしゃれー」

彼女と選んだのかな、なんて考えがチラついてしまうけど。

「俺のおすすめは、このキャラメルシナモン風味のくるみ。このビールにめちゃくちゃ合うんですよ」

彼の言葉に渋い顔をしてしまう。

「ごめん、私シナモンだめなの」

私のひと言に、真下くんは少しがっかりした表情。

「じゃあこれは俺が食べよ」

私たちって本当にお互いのことを何も知らなかったんだ、ってまた気づく。


「あ、お詫びに木崎さんの好きそうなもの見せてあげます」

そう言って彼はゴソゴソと段ボールを漁り始めた。

もらったものに文句を言った失礼な人間に、お詫びもなにもないのに。

真下くんは地球儀にカクカクと面を作ったような形の多面体の黒い物を取り出した。

「俺が作ったテキトープラネタリウム」

「適当?」

〝?〟の浮かぶ私をよそに、真下くんは部屋の電気を消した。

そして彼が手元で「カチッ」とスイッチの音をさせると、幻想的な星空が部屋中に浮かび上がった。

「わ、きれい……」

ビールを飲みながら見上げる。

「花火が好きなら、こういうの好きだと思った」

そう。お互いのことをよく知らなくても、なんとなくわかることもある。

「理学部だったっけ? 星にも詳しいの? 星座とか」

「全然。研究分野と関係ないし」

「え?」

「言ったじゃん、〝テキトー〟って。この星、全部俺が適当に穴あけたの」

「何それ」

「宇宙の姿なんて本当のことは誰にもわからないし、星だって地球から見なかったらもっと違う形に見えるはずですよ」

彼はテキトーな星空を見上げながら笑う。

「星だって星座だって、勝手に名前がつけられて勝手に意味を持たされてさ、そんなもの無い方がいいことだってあると思う」

「せっかくなのに、ダンボールに映っちゃってもったいないね。元の真下くんの部屋の時に見たかったな……」

来てみたかった。真下くんの暮らしてた部屋。

「……」

急に黙ったかと思ったら、彼は「はあっ」とため息をついた。

「はじめから思ってましたけど、木崎さんてすげー無防備ですよね」

思わず顔を見る。

「あんな風に酔っ払って、男の部屋のドア開けさせて」

返す言葉もない。

「隣人のよく知らない男に簡単に『よろしく』なんて笑顔で言っちゃうし」

「え……」

でもそれは……。

「こうやって、俺の部屋に簡単に上がっちゃうし、元の部屋に来てみたかったみたいな顔するし。だいたい今日だって、またやったし」

手持ち無沙汰なのか、ペリペリと、ビールのラベルを剥がしている。

「俺の後に、悪い男が引っ越してきたらどうするんですか?」

「それは……」

言葉に詰まった瞬間に、額にペタッとラベルを貼り付けられる。

「え」

「自分の部屋のドアに目印でも貼っといたらいいんじゃないですか? 酒のラベルなら酔っ払った木崎さんでもまっすぐ帰れそうですよね」

「目印って、おでこに貼られたらお札みた——」


ペラって、ラベルが剥がれて、その瞬間に——真下くんと目が合う。


「無防備」


酔いのせいか、スローモーションみたいな、一瞬みたいな不思議な感覚で、彼の唇が私の唇に触れる。


少し離れて、また、目が合う。唇が触れる。


「ん……っ」

キスが、熱を帯びていく。

苦味が、甘くなっていく。

「……っ——」

彼の手が、ブラウスの裾から肌に触れる。


——『そんなもの無い方がいいことだってある』


この数か月のことが、一気に頭の中を駆けめぐる。

「ストップ!」

目を瞑って、グイッと彼を押し退ける。

「だめだよ」

「なんで」

「……だって、私たちの関係に……名前がついちゃう」


——〝浮気相手〟って。


「真下くんとは、良くない関係に、なりたくない……」

彼は黙ってしまった。

どこかその気で部屋に上がったくせに勝手な言い分だと思う。

「はあっ」

また大きなため息。

「なんだかんだいっても大人ですね。俺より全然」

「……ごめん」

「止めてくれて良かった」

そう言って、彼は切なげにくしゃっと笑った。

「あの夜の次の日『よろしく』って言ったのは、真下くんだからだよ」

彼の目を見る。

「あの夜、あんなに失礼だったのに『おやすみ』って言ってくれたから。次の日も、笑ってくれたから。絶対良い人だって思ったの」

「何それ。危なっかしいカンだな」

「でも大正解だったでしょ?」

涙が滲んだ目で笑う。そしたら真下くんも笑ってくれた。

「飲も!」

それから、仕切り直しの乾杯をした。

「たしかにこのビールにはシナモン合うね」

「キスで味見しないでくださいよ」


それからその夜は、バカみたいに何度も何度も、キスの代わりに瓶を傾け合った。



3月の終わりには、もう次の入居者が元真下くんの家に住み始めていた。

真下くんは〝悪い男〟なんて心配してたけど、次の住人は可愛らしい女の子だった。


「心、ちょっと前から気になってたんだけど、ドアの外の水色のやつ何?」

私の家にやってきた彼氏が不思議そうな顔で尋ねる。

「んー……魔除けのお札?」

彼はますます不思議そうな顔をする。

その顔を見て「好きだよ」って笑ってキスをする。


fin.

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