勝利の果実

上月祈 かみづきいのり

勝利の果実

 十二年前、まだ中学三年生だった頃。夏が終わり、冷気を孕み始めた風が昼休みの最中さなかの僕と裕也の間を通り抜けた。

「『勝利の果実』って、なんだろうね」

 彼は、そう口にした。

 教室の最後列の席に座る彼。その一つ前の席に座る僕。共に窓際の席に位置する僕ら。『アルジャーノンに花束を』を読んでいた僕は、本を手にしたまま後方に身体をよじった。

 ほおづえをつく彼は、窓の外の晴れた空を眺めていた。

 僕は本を机の上に丁寧に置いた。それから椅子の背もたれに自分の腹部をぴったりとくっつけるように座り、彼を正面から見据えた。

「なに? 岡野が言ってたこと、気にしてんの?」

 裕也は窓の外を見つめたまま、

「うん」

 と答えた。彼は続けて答えた。

「先生さ、言ってたじゃん。『勝利の果実をもぎ取れ』ってさ。それって、いったいどんなフルーツなんだろうね」

 岡野という担任の教師がそう言っていたのを確かに僕も聞いた。その日の朝、ホームルームで受験とその勉強の大切さを語り、先ほどの言葉を口にしたのだ。

「そんなのわからないよ」と僕はかぶりを振る仕草。

 彼は、

「『禁断の果実』はリンゴだって言われているんだけどねぇ」

 と短く溜息をついた。彼は進路で悩んでいるように見えた。少なくとも僕には。しかし何故、それほどまでに考え込むのか僕にはわからなかった。

 学業において、彼の右に出る者はこの中学校に存在しなかったからだ。僕は彼がよほどハイレベルな進学の悩みを抱えているのではないかと推し測った。

 かといって、彼の進路に口を挟むのはおせっかい以外の何物でもない。加えて、僕は彼の進路に意見ができるほど優秀ではなかった。

 話題を変えるべく、裕也に質問を投げかけることにした。

「『禁断の果実』って、なに?」

 彼は頬杖をついたまま視線をこちらへ向けた。そしてそのまま、

「アダムとイヴって聞いたことある?」

 と質問に質問で答えた。

 僕は「なんとなく」と返事をしておいた。

 すると彼は頬杖をつくのをやめ、僕を見据えた。

「『旧約聖書』っていう古い本に登場する人物なんだよ。二人は『禁断の果実』を食べて、それを理由にエデンという名の楽園を追放された。『禁断の果実』は知恵の実とも呼ばれ、これがリンゴのことだったんじゃないかって言われているんだ」

 一気に説明をした彼は大きく息を吸うと、長い溜息を吐いた。

「じゃあ、『勝利の果実』には何かそういう逸話があるの?」

 話の流れで尋ねると、

「詳しくは分からない。だけど、ギリシャ神話が関係しているって聞いたことはある。あんまり有名な話じゃない気がするけどね」

 と答えた。僕はギリシャ神話についてなんにも知らないので「そうなんだ」と相づちを打った。そのあとで僕は思いつきを話した。

「考えても分からないならもういっそのこと、自分で決めちゃえば?」

 今から思えばずいぶんといい加減なことを口にした。半分冗談のつもりだった。

 その言葉を聞いた裕也はしばらく視線を上に向けたまま考え込んでいた。やがて僕を見すえると、

「そうだね、いいアイディアかもしれない。でも俺には選べない。だからさ、お前が選んでくれないか?」

 と投げかけてきた。僕は二つ返事で了承した。返事を聞いた彼はニヤリと笑った。

「その代わりにさ、なんかおごってやるよ。お前にぴったりのフルーツを」

 彼が言い終わると同時に、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。

 放課後、僕らは学校から一番近いスーパーに向かった。

 青果売り場に来ると、実りの秋ということもあって様々なくだものが並んでいた。

 柿、梨、リンゴ、桃、キウイフルーツ、ぶどう、オレンジ、バナナ、などなど。

 一年中見かけるものもあれば、秋にしか見かけない物もある。

 僕は選ぶことに迷っているフリをした。本当のことをいうと、選ぶのを早々に諦めてしまっていた。

 僕にとってはどれもフルーツ。それ以外に何の意味合いもなかったからだ。

 しばらく考えるふりをして、一番近くにあったオレンジを手に取った。

「これじゃないかな?」

 裕也に差し出すと彼は手に取りしげしげと眺めた。

「なるほどね、『みかん』か。俺にぴったりだよ」

 と妙に納得した。

「『みかん』じゃなくて、『オレンジ』の間違いじゃないの? そもそも、ぴったりってなに?」

 僕の問いに彼はかぶりを振って答えた。

「なんだか、『みかん』っていう言葉のほうがしっくりくるんだ」

 彼が他にも買いたいものがある、と言うので僕は店の外で待つことにした。彼は何故、あんなことを言ったのか? 考えても考えても、僕のお粗末な脳みそでは答えをはじき出すことはできなかった。

 やがて裕也が店から出てきた。彼は僕に声をかけた。

「おまたせ」

「何を買ったの?」と聞いてみたのだが、彼は微笑んだだけ。少しだけ焦らしてから、

「あとでのお楽しみ。ねぇ、あそこの公園で少し休もうよ」

 と、はすむかいの場所を指さした。そして、さっさと歩きだしてしまった。

 仕方なく、僕は黙ってついていった。

 公園のベンチに座って、裕也は一つのオレンジをゆっくりと味わうように食べている。

 僕は彼からリンゴを受け取ったが口をつけず、手に持っていた。

「食べないの?」と裕也は尋ねたが、僕はとある疑問から口をつけなかった。だがしばらくしてから、その疑問を口にした。

「ねえ、どうしてリンゴなんだよ。さっき言ってたじゃないか。リンゴは『禁断の果実』だって」

 その時の僕は、いぶかるような表情をして彼に尋ねていたと思う。

 彼は、

「頭が良くなるから」

 と即答した。

「バカにしてんだろ」

 少し睨んだが、彼は気にする素振りを見せなかった。ただ寂しそうにうつむいて、

「頭が良くなって、俺の気持ちを感じ取ってほしかったんだ」

 と、それだけポツリ。

 僕は、どのような言葉をかければよいのか、どうしたらいいのか分からず、しばらく沈黙を貫いた。

 最初で最後の彼の弱音。僕の視線だけは、裕也に釘付けだった。

「今日お前と話したことの中に、一つだけ嘘が混じってるんだ」

 彼が唐突に切り出したので、

「えっ、どんな嘘?」

 と、ありきたりな驚きかたしか僕にはできなかった。

 彼はにこりと笑って、

「そのうち分かるようになるよ」

 と言ってベンチから立ち上がり、その場を後にした。

 彼がいなくなってしばらくした後で、僕はリンゴを一口かじった。

 十二年経って、僕は思う。

 裕也は『勝利の果実』について何か知っていたのではないか。

 ギリシャ神話に出てくる怪物テュポンは、ゼウスに勝つために運命の女神たちを脅し、『勝利の果実』を手にした。しかしそれは、決して望みの叶うことのない『無常の果実』だった。『無常の果実』を食したテュポンは後にゼウスに雷で滅ぼされた。

 裕也が『オレンジ』のことを『みかん』と言ったのは、

「俺の人生は未完で終わる」

 という、くだらないけど悲しい自虐だった。

 彼はあの日の夜、電車にはねられて死んだ。自殺か事故か、未だにわからない。

 ただ彼は親にネグレクトされていたという事実を後で聞いた。あくまでも推測だが、彼にとっての勝利は『自由を勝ち取る』ことだったのかもしれない。

 最後に僕の話。

 高校も、大学も、就職もみんながうらやむような一流の場所を通過してきた。

 しかし、家族とは大学生の頃から不仲になり、社会人になって間もなく完全に縁を切った。

 恋人はいない。それどころか友人さえ一人もいない。独りぼっちとはこのことだ。

 僕は楽園を追い出されたのかもしれない。

 裕也、『勝利の果実』はどんな味だったんだ?

 お前がくれた『禁断の果実』は甘かったよ。

 でも僕はいま、ほろ苦さを噛みしめているよ。

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