3話 喧伝
トイレの個室の扉にもたれ、壁を眺める。何もない。何もないから、見ているだけで落ち着く。私はその何もない壁を、ただ見つめた。しばらくして、ふと、顔に違和感を覚え、頬を触れると、水分があった。そうして、やっと自分が涙を流していることに気づいた。いつから泣き始めたかはわからないが、フラッシュの眩しさにやられたのは確かである。目を瞑るとフラッシュの残像がまだ瞬いている。全ての身体症状がなくなるまで何も刺激を与えない方がいいだろう。
しばらくじっとしていて、腕時計を見ると、1時間ほど経っていた。私は写真を裏返して、落ち着いた事を確認するため、文章を音読する。
「『刺激のない個室に行くこと。そこで何度も深呼吸して、身体が落ち着くまで待つ。』」
普通に喋れることが分かると、昂ぶっていた興奮が急激に静まったことが分かった。身体の様々な異常もなくなっていた。
それに気づいてからも念のため1,2時間ほど経たせてから、私はトイレを出る。そして待機室へと向かった。黒崎があとは全部話すと言っていたから、私の仕事はもう終わっただろう。
待機室には、一人の男性がいた。彼は私に気づくなり文庫本を閉じ、私の方に座り直して眉をひそめた。
「あ……さっきの」
「名倉光です」
「名倉、ええっと、その……大丈夫、なのか?」
「はい。あれは一時的なものなので、個室で休憩したら落ち着きます」
私が言うと、彼は少し間を置いて、苦笑いをした。
「そっか。人には色々あるもんな」
「あなたは?」
「ん? ああ、俺はたいようとは違う栄養補給施設……『えがお』から引き抜かれて仕事を任された、村井って言うんだ。よろしく、名倉」
「よろしくおねがいします」
「ま、次の仕事が何なのかは知らんが、同僚として、これから仲良くやっていこうや」
村井は、それを言うなり、文庫本を取り出し、読み始めた。表紙には花束とネズミが書かれている。タイトルは見たことがあるが、私は小説を読まないから内容は知らない。
私は椅子に座って、目を瞑った。疲れていたらしく、私はすぐに眠った。
しばらく経って、目を覚ますと、待機室には黒崎がいた。村井は見当たらない。黒崎は私が目を覚ましたことに気づくと、笑顔で手を広げた。
「いつの間にそんなに成長したんだ? びっくりしたよ、コウちゃん。よくやったね」
自分が成長したことには同意するが、やり方が露悪的である、と言うと、黒崎は黙ったまま笑った。
「悪意で、このようなことをしたのですか?」眩しい光、ざわめく声、過度なスキンシップ、怒声。私が苦手なことを、ことごとく彼は行った。私が問うと、今度は高笑いをして話し始めた。
「はは。よく分かってるじゃないか。君の苦手なことはちゃんと聞いてたからね。……会見で君が暴れ回って、施設の当事者たちは訳も分からず暴れ回る危険な子たちだと思わせたら一番良かったんだけど。まぁ及第点だよ」
「もし私がそうしていたら、どうするつもりでしたか?」
「もちろん程よく暴れさせて被害を負わせてから、控えの職員達に取り押さえさせて、お前をどっかに閉じ込めて、実験体として使い潰していたさ」
「しかし、あなたの考えは失敗しました」
「いいよ、二度とあんなことはさせないし。あの子たち十分危険なヒトだってことを証明できたから。そして、君がちゃんと感情の制御ができる有能だとわかったから」
私には、彼の言うことが皮肉なのか、そうではないのかわからない。黒崎はいつも私に対して笑い混じりに言葉を伝えるので、他の人より分かりづらい。
「――ところで、あの記者会見、もうネタにされてるみたいだ。世間はいつも私の想定を上回ってくれるからびっくりするね」
所長はカラカラと笑って、私にSNSの投稿を見せた。
文字の投稿に、動画が添付されている。動画の中の彼は、両耳を抑え、人々をにらみ、口を開けている。そして、唸っている。しかも、眩しさにやられたのか、泣いている。だが、無表情は崩さない。
『号泣! たいようくん。突然の便意? アウアウ言ってトイレにダッシュ!』
『ちょっと記者に言われただけで大泣きとかw 男が情けなくワンワン泣くなや』
『だから施設行ってたんでしょ!(笑)配慮してあげなきゃ』
『施設に戻したほうがいいんじゃない?』
「つまらない投稿」
他の多くのものと同じように、見る価値がないから、感想をそのまま言った。所長はカラカラと笑った。
「これだけじゃなく、他にも揶揄する投稿が大量にある。君はそういう人間なんだって、みんなが認識しているんだ」この投稿の返信欄も見なよ。酷いコラ画像ばかり。きっと訴えてくるなんて頭は働いてないんだろうなぁ。黒崎は、さまざまな露悪的な表現が使われた投稿を見せた。たいようくんの顔の画像が切り取られ、嘲笑されている。
「あなたは何を主張したいのですか? こんなものを私に見せて、何の意味がありますか? そもそも、偏ったインターネットの評価がどのようなものであれ、興味がないです」
「ただの雑談だよ。意味なんてない」
「雑談は苦手です」
「社会では苦手なことをしないと……」
「このような処遇になるということですか」
「よくわかってるね」
「もう外に出ていいですか?」荷物を持って立ち上がる。
「ああ。仕事はしばらくないから、連絡が来るまで自由にしといてくれ。もちろん、招集された時来なかったらどうなるか分かるな?」
私は黒崎の質問を無視して、待機室から出た。やっぱり罠だった。黒崎は私の弱点を熟知していて、私はまんまとその火に飛び入ってしまった。
まだ昼過ぎだったから、母校の大学の図書館に行った。大学図書館は、卒業生も利用できた。私はいつもの法学の本のコーナーに行き、目についた民法の新書をいくつか取って、椅子に座った。
「名倉先輩?」
本を読もうとしたら、突然後ろから私の名を呼ばれて、振り返る。名前は、確か神谷だったか。神谷は私が振り返ると、気づいたようで
「えっと、すみません、読書を始めようとしたところ……」
「どうしましたか?」
「話したいことだらけなんですが、読書が終わってからでも……どうですか?」
「いえ、今からでも話しましょう。これらは借りていくので」
「本当に申し訳ないです……」
「何がですか?」
私が問うと、神谷は首を振って笑顔になった。「何でもないですよっ! 行きましょう!」
我々はファミレスへ行った。
「法研、すごくスムーズに進んでいますよ! これも名倉先輩がマニュアルを作ってくれたおかげです!」
ファミレスは学生や家族連れが多く、賑わっている。神谷は私に笑顔で近況を話す。「最近新入生と模擬裁判を行って、傍聴人も結構きてくれましたし、とても充実しました!」
「うまく活用できているようです」
「はい! 学祭の時にまたやるので、良かったら先輩も傍聴人として来てくださいよ!」知り合いに宣伝もしといてください。そっちのほうが盛りあがるので。
「分かりました。直前になったらまた知らせてください」
私の食事が先に届いた。食事を目前にすると、途端に腹が減ってきたから、私はフォークを取り出し、食べた。一口食べたあと、食事が先に出てきたときは先に食べる事を断る必要があることに気づいた。
断りを入れるのはできるだけ早いほうが良いから、食べものを飲み込んで、神谷に聞く。
「先に食べていいですか」
「もう食べてるじゃないですかー!」
「先に食べています」
私が言うと、神谷は苦笑いをした。
「いや、もちろん、食べてていいですよ? そんなに僕に気を遣わなくてもいいですって。先輩の事情は知ってますし」私の診断については、できるだけ多くの人に知れわたるようにしている。だが、合理的配慮の要請は最小限にとどめている。
「最近、気遣いを始めました」
「そんな冷やし中華始めましたっていうような……」
「期間限定にする予定はないです」
「無理しないでくださいね」
「無理してそうなときは言ってください」
「もちろんです!」
しばらくして、神谷の分の食事も届いた。神谷が食べ始めると、私は雑談として話を振った。
「法曹の夢はどうなりましたか?」
「もちろん志していますよ。いまは法科大学院の勉強をしているところです。最近ますますモチベーションが上がりました」こんな世の中でも、まだ上手くいくって信じてますから。神谷は呟く。
神谷はコーヒーを飲んで、窓を見る。
「僕もいつそうなるか分からないですからね……」
「そうなる?」
私が言うと、神谷は私にむき直して補足した。
「ええっと、事故とかが起きて、いつあっち側に立たされるか分かりませんから、こんな社会じゃダメだってことです」
「事故が起きなかったらこの社会でいいということですか?」
「意地悪な質問しますねぇ、先輩は。事故うんぬんは単なる例え話です。こういう話のとき、事故の例えを使う人が多いでしょ? だからわかりやすいかなと思ったんです」神谷は半笑いをした。
「なるほど」
「まあそういうことはいいんです。……えーっと、先輩の専攻って民法でしたっけ?」
「はい。ですが、他の分野でも聞かれれば答えます」
「実は、次のゼミの発表について、議論したいことがあって……」
発表の資料を渡され、それを読んだ。それから、気になる点についてを指摘し、その妥当性について議論した。食後のコーヒーを飲み終わるころには、一応の結論が出た。神谷はゼミの資料をしまい、気分良さそうにニコッと笑った。
「やっぱり先輩の意見は中立的でとても参考になります! 本当にありがとうございます……! もちろん僕は先輩の意見を尊重しますが、大学院に行くっていうのも、悪くないんじゃないですか?」
大学院については、選択肢の一つとして考えたが、両親に就職を勧められ、彼らの言う通り就職したから、大学院には行かなかった。だが、今から大学院に行くこともできる。私としては、どちらでもよかった。だが、母親から反対されたのだから、行くべきではないだろう。
「母親から反対されたので、あまり行く気はありません」
「母親の言うことなんてどうでもいいですよ! だって、もう僕たちはちゃんとした大人で、自立してますもん!」ちゃんとした大人、というのはツバサからも聞いた。私は何も返さなかった。
神谷は水を飲んでから、話を切りだした。
「……本題に移っていいですか? あの記者会見のことですが……」
「どうされましたか?」
「あれは……あれは、名倉先輩は悪くありませんよね? ただ、悪い人たちに使われていただけでしょう? 半年前、先輩が逮捕されたときも……本当は、悪くなかった、ですよね?」
良い悪いについてはよくわからない。一般に、人を殴ることは悪いことだから悪いのだと思う。
「ですよね、先輩?」神谷は見るからに焦った。
「悪かったら、どうしますか?」
「それは……それでも! 僕は先輩を非難しませんよ。あの人たちのようにはなりません。それに……」神谷は言った。「特性がそうさせているんですよね? ねえ、先輩?」
「そういう点もありますが、それだけではないかもしれません」
私はふと、神谷に聞いてみたくなって、言った。「あなたは私をどう思っていますか?」
神谷は苦笑いををした。
「ああ……はは、先輩は、尊敬していますよ。だって大変な症状を持っているのに、ひょうひょうとしてて、頑張っているじゃないですか。すごく頭もいいし、議論もスムーズに進むし……」
しばらく話をして、皿を戻されたとき、神谷は言った。
「――ああ、そろそろ行きましょうか。お時間を取ってくださり、ありがとうございました」神谷は財布を出した。
「このような時は、奢ったほうがいいのでしょうか」
「いやぁ、おごりますよ! 僕が誘ったんですから!」先輩だってお忙しいだろうに、わざわざ時間を割いてくださったんで、そのお礼です!
「じゃあ奢ってください」彼が奢りたいというのならそうさせるべきである。
「ああ、代わりってわけじゃないんですが……知り合いの人に大学の文化祭についてを宣伝しといてくださいよ」法研で色々出し物するんです。模擬裁判もしますよ。傍聴人を大募集してるので。神谷はチラシを一枚渡した。
「わかりました。宣伝しようと思います」
「ありがとうございます!」
我々はファミレスを出て、解散した。
栄養補給施設が利用者の一部を使って人肉利用をしていた、という事実は、世間の多数派に、驚くほど簡単に受け入れられた。彼らは自分が食べられる対象になるとは、誰も思っていなかった。神谷の主張でさえも、少数派だった。
SNSではたいようくんのコラージュ画像が出回り、彼が言った言葉を改変されている。彼の本名もいつの間にか公開された。施設に行く原因となった事件によって逮捕されたことをニュースに取りあげられたのだ。そうして動機も取りあげられた。「そこに人がいたから」――それをあたかも変わったものとして取りあげられた。
世間は、我々が思ったほど都合のいい道徳を持っていない。それに気づいたとき、たいようくんの名誉を毀損されたと訴える気力も無くした。
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道徳の氾濫 八百本 光闇 @cgs
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