天使が死ぬには早すぎる 2

川で死ぬとしたらどこに行くだろう。

走りながら考えた。

当然浅瀬では死ねない。じゃあ、上流だろうか。

いや、でも上流に向かうには流れに逆らわなければいけないから、泳いでいくことは難しいだろう。それに、普通上流で死のうとは思わない。


―――河口だ。

彼女は、海で死のうとしている。



そこでハッとして、走るのをやめた。


いた。


後ろ姿しか見えないが、「天使」は裸足で、川に膝まで浸かっていた。

どんどん河口に向かって歩いていく。まだ私の存在には気づいていないらしい。

息を殺して静かに近づいた。ここで驚かれて足を滑らせたりしたら元も子もない。

細心の注意を払っていた―――はずだった。

「わっ!」

突然ハエが私の目の前に飛んできたので、びっくりして思わず声を上げてしまった。


しまった。

天使が声に気づいて後ろを振り返って、私の姿を見つけ、絶句した。

バレてしまってはもうどうしようもない。私が正直に、ここに来た理由を言おうとした―――その時だった。

天使が、突然走り出した。バシャバシャと激しい水音を立てながら、河口の方へ向かっている。

死ぬ気だ。私から逃げて、死のうとしている。

「待って!」

私は靴を脱ぐのも忘れてそのままバシャンと川に足を踏み入れ、天使を追いかけた。

見ると、天使はどんどん深くなっていく水に苦戦していて、スピードが遅くなっている。

私はやっとの思いで天使に追いつき、その細い手首を掴んだ。

「駄目だよ。帰ろう。」

振り向いた彼女の困惑した顔を見つめながら、私は言った。

「詩織ちゃん、なんで…」

彼女はそう言うと、大きく身をよじって私から逃げようとした。その思っていたよりも強い力に、彼女が天使なんかじゃなくてただの人間なんだということを実感する。

美織みおりちゃん!駄目だって!死なないでよ」

初めて彼女の名前を呼んだ。なおも暴れる彼女の腕を引っ張って、後ろから羽交い締めのようにする。彼女が暴れるせいで水の音がバシャバシャとうるさかった。

「離してよぉ!あんたには関係ないでしょ!」

顔の近くで彼女が叫ぶので耳が痛い。ぎゅっと目をつぶって耐えた。彼女の言葉は止まらない。むしろどんどん強くなっていく。

「そもそもなんでそんなにかまってくるんだよ!死なせろよ!死なせろって!」

彼女はもうほとんど泣き声だった。

「今だって、これからだって、楽しいことなんてないんだよぉ!もうここで終わらせてよ!離せって!」 


「じゃあっ!」


いつの間にか声が出ていた。こんな大声を出したのは久しぶりだ。喉がヒリヒリする。

「じゃあ、私が楽しくするから!私が、美織ちゃんの人生楽しくしてあげるから!だから、だから死なないでよ!ねえ!」


言いながら、馬鹿みたいだ、と思う。こんな意味不明なことを大声で喚いて、馬鹿みたい。


―――でも。


でも、なんだか楽しかった。久しぶりに大声を出してハイになっているのかもしれない。

顔にかかる冷たい水。もう服も髪もびしょびしょだ。気持ち悪かったけど、純粋に楽しいと思った。小さい頃に川遊びをしているような感覚。


いつの間にか、天使は暴れるのをやめていた。力が抜けて、その場にぺたんと座り込んだ。


「馬鹿みたい。」


俯いた彼女が言う。でも、その声はなんだか清々しかった。


「帰ろう。風邪引いちゃうよ。」

そう言って、濡れた服越しに、彼女の華奢な肩に触れた。温かくて、本当に生きてるなあと思った。死なないでくれて良かった、と心から思った。


「うん。」

振り向いた彼女の顔は、晴れ晴れとしていた。






「そういえばパジャマで来たの?馬鹿じゃん!なにしてんの。」

夜の河川敷を2人並んで歩いていると、天使みおりがビショビショになったパジャマ姿の私を見てふいに言った。いつもの上品な雰囲気は消え去り、口が悪くなっている。それも、すごく楽しいと思った。

「気づいたら外だったんだもん。着替えてる間に美織ちゃん死んじゃってるかもじゃん。」

私が抗議すると、彼女は「それもそうか」と真面目な顔になって、笑った。

彼女の目が少し腫れている。さっき泣いていたからだろう。その顔を見たら、なんだ、ちょっとはブサイクにもなれるじゃん。と思った。

天使なんかじゃない。美織は所詮ただの人間でしかないのだ。

失望はしなかった。むしろ、死ぬほど愛おしく思えた。

汚いところも醜いところもある、それでも、私は美織を美しいと思った。


「ちゃんと発言の責任は取ってもらうからね。」

突然、美織がそんなことを言い出した。

え?と彼女の方をみると、彼女はにやにやと笑っていた。

「さっき言ってたこと。私が楽しくするって言ったじゃん。」

「え、ああ…。」

そういえばそんなことを口走っていた。

あんな意味不明なことを言ってしまった恥ずかしさから、私は彼女から目をそらした。

「楽しくしてくれるんだよね。私の人生。」

彼女が言った。

天使にお願いされたら断ることなんてできない。もっとも、今の彼女は天使というよりは「小悪魔」だけど。

「頑張ります…。」

顔が赤くなっているのが自分でもわかった。



「うーん、じゃあさ、遊園地とかどう?」

割と真面目に考えて言ったのに、彼女はあまりお気に召さなかったようだ。えーと言いながら唇を尖らせている。

「嫌い?遊園地。」

「嫌いっていうか…行ったことない。」

思わずえー!と大げさに叫んでしまった。

「行ったことないの?遊園地。あんな楽しいのに?」

「もう、うっさいなあー!じゃあ付いていけばいいんでしょ。はいはい。」

彼女は不満そうにふいっと顔をそむけたが、ちゃんと喜んでいることが声で伝わった。

私は、この天使は随分子供っぽいところがあるなあと苦笑した。

でも、それでもいい、と思った。生きてくれるのなら。

「あーあ、親ブチギレてるだろうなあ。」

濡れた服を気持ち悪そうにつまんで、彼女が言った。

私も他人事ではない。真夜中にパジャマのままビショビショに濡れて帰ってきた娘を見て、事情を問い詰めない親はいないだろう。

この後のことを考えると憂鬱になったが、今は隣に美織がいてくれるのだ。その幸せに身を委ねないでどうする、と自分に言い聞かせて、堂々と歩いた。



「じゃあね。」

家の目の前で、美織が手を振った。

「ちゃんとシャワー浴びて、風邪引かないでよ。」

「うん。」

私は明るい声で返事をしながらも、美織と離れたくないと思ってしまった。

明日から、きっと私たちはまた別々になる。

それぞれ別のグループで、別の友達と学校生活を送る。それを当たり前だと受け入れられると思っていたのに。

彼女の心に、触れてしまった。一瞬だけ、友達になってしまった。

その甘美な幸せを知ってしまった私は、もう前の、天使を見ているだけで満足する生活には戻れないだろう。

今日ここで会って、怒鳴り合って、泣いて、笑ったことを、彼女が忘れてしまうのが怖かった。

忘れてほしくない。今日のことを。私のことを。


忘れないで。心の奥で、か細い声がこだまする。


俯いてしまった私を見て、天使は言った。

「遊園地、楽しみにしてるからね。」

え、と私が顔を上げると、天使が満面の笑みで私を見つめていた。

「連れてってくれるんでしょ。」

そう言って、私をぎゅっと抱きしめた。

彼女の濡れた髪、服、その向こうにある体温。

すべてが愛おしくて、鼻の奥がつんと痛んだ。


「ありがとう。」

彼女は小声でそう言って、私から身体を離した。


「じゃあ、今度こそ本当にバイバイ。」

彼女は身を翻し、暗闇の中に消えていった。


まだ残っている彼女の体温を感じながら、ありがとう、と思った。彼女は最後私に礼を言ったが、言いたいのは私の方だ。

あなたがいなければ、私はそれこそ、死んでいたかもしれない。

美織は「人生が楽しくない」と言ったが、私も美織の存在を知るまでは、日常を楽しいだなんて思えたことはなかった。美織を知ってから、たとえ直接話せなくたって、その姿や笑顔を見るだけで日々が輝いた。

憂鬱な日々に射した一筋の光。それが美織だった。私がかろうじて生に執着できていたのは美織がいたからだ。

こんなことを本人に言ったら、重いしキモいと引かれてしまうだろうか。―――でも。

ふふっと思わず笑みがこぼれた。 

言おう、と思った。このことを、美織に。

それを言える機会が、私にはあるのだ。それに比べたら、今から親に激怒されることなど大したことはない。


「連れてってくれるんでしょ。」

美織の声と、眩しい笑顔を思い出す。


―――うん、行こう。



確定している少し先の幸せに思いを馳せながら、私は家のドアに手をかけた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

天使が死ぬには早すぎる 隣乃となり @mizunoyurei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画