天使が死ぬには早すぎる

隣乃となり

天使が死ぬには早すぎる 1

その子を初めて見た時、こんな天使みたいな人が存在するんだと本気で驚いた。

毛穴なんかないんじゃないかってほどきめ細かい肌。完璧な幅の平行二重。自然にカールした長くて艶のある睫毛。鼻と口は形も配置も信じれないくらいに綺麗で、頬はほんのりピンクに色づいている。

本当に本当に、「完璧」としか言いようがなかった。手足は白くほっそりとしていて、髪は毛先までサラサラで、動くたびにふんわりといい匂いがした。それに何よりも、少し笑っただけで周りの人の疲れが全部吹き飛ぶような、華やかな愛嬌があった。

今までこんなに完璧な人に会ったことがない私は、美人に対する嫉妬なんてものを遥かに通り越して、天使のような彼女を崇拝しかけるまでになっていた。 


華やかな彼女はもちろん、私みたいな地味な女子とはほとんど関わることなく、同じように華やかな子たちと行動をともにしていた。いつも輪の中心にいて、他の子が言った冗談に楽しそうに、でもどこか上品に笑っている。私は自分の友達と話しながらも、そんな彼女の笑顔をちらちらと盗み見しては幸せな気持ちになっていた。

所属しているグループが違うのだから、当然話したことはあまりなく、彼女と話せたのは2、3回、それもほんの少しの時間しかない。名前を覚えられているかすら怪しい。きっとこれからも、話すことはほとんどないだろうと思っていた。


だから、散歩の途中で「天使」に会うなんて想像もしていなかった。


「あ。」

「え?」

お互い驚きのあまり、ぽかんと開いた口が塞がらなくなってしまった。

ここは家の近くの河川敷だ。私はここの景色が好きで、ほぼ毎日夕方に散歩に来ている。

ここは本当に綺麗な場所である。だけど、「天使」がいる場所にしては、少し地味すぎる気がした。


天使は、無造作に生い茂った草の上に体育座りをして、イヤホンで音楽を聴いていた。当たり前だが、周りに犬を散歩させている中年の男性や女性が多い中、この美少女だけが圧倒的に他と違うオーラを放っていた。少し気を抜くと、私を真っ直ぐ見つめる彼女のきらきらした瞳に、あっけなく吸い込まれてしまいそうだった。


詩織しおりちゃん、だよね?」

数秒の沈黙の後、彼女が口を開いた。

「あ、うん。」


名前、覚えててくれたんだ。

ぎこちない返事をしながら、私は密かに舞い上がっていた。彼女のような子に名前を覚えてもらえただなんて、ほとんど奇跡のようなものである。


そんなことを思っていると、とんとん、と彼女が自分の座っている場所の隣を軽く叩いて「座りなよ」と私に微笑みかけた。私はできるだけ冷静に見えるよう努めて、「うん」と返事をして彼女の隣に腰をおろした。座った時、彼女から石けんのようないい匂いがして、私は軽くめまいがした。

あの「天使」と、こんなに近い距離にいることができるなんて。


「やだな〜、明日の体育。」

不意に、天使がそんなことを言いだした。「ね。」と相槌を打ちながら、川を眺めている彼女の横顔をこっそりと盗み見る。こんなに近い距離で見ても、肌荒れの跡一つ無い滑らかな白い肌。完璧な曲線を描いている長いまつげ。彼女の美しさに、私は改めて息を呑んだ。


それから私たちは、普通のクラスメイト同士が交わすようなとりとめもない話をした。でも私にとっては、今までの人生の中で、これほどまでに甘美な時間を過ごしたことはないと思うくらい、幸せな時間だった。 



「え、もうこんな時間かあ。」

腕時計に目をやった彼女が言う。私もスマホを取り出して時間を見ると、六時半だった。確かここに来て彼女と会ったのが五時くらいだから、私たちは一時間半もここで話し込んでいたことになる。いつの間にこんなに時間が経っていたのか。

「たしかに、空だいぶ暗くなったかも。」

私は、夕焼けというには少し暗すぎる空を見回しながら言った。

「そろそろ帰るかー。」

よいしょ、と彼女が立ち上がった。

私も、「そうだね。」と言って同じように立ち上がる。そして、別れの前についでに、くらいの軽い気持ちで彼女に聞いた。

「そういえば、なんでここに来てたの?いつもはいないよね。」

言ってから、彼女の顔を見て、しまったと思った。さっきまで口元に微かな笑みを浮かべていたのに、急に真顔になって、目を伏せてしまったからだ。

何か聞いたらまずいことだったのだろうか。必死に弁明しようとあたふたしていたら、彼女がふっと顔を上げ、私の目を真っ直ぐに見つめた。


そして、言った。

「他の人には秘密だからね。実はわたし―――」




翌日。私はいつも通り退屈な授業を聴き流しながら、昨日河川敷で「天使」が言ったことを思い出していた。  


「実はわたし、死のうと思ってるんだよね、ここで。だから今日は、下見に来たの。」


「天使」は言った。

私は突然のことすぎて頭が追いつかず、え、と言ったまま口が閉じなくなった。

今のは幻聴だったのだろうか、と思ってもう一回記憶を手繰ってみたが、やはり彼女は言っていた。「死のうと思ってる」と。

やっと彼女の言葉の意味が理解できて、戦慄した。冗談だと思って笑い飛ばそうとしたけど、彼女の表情は本気だったので、できなかった。何か言いたかったけど、声が喉に絡んで何も口に出せなかった。

何も言えない私を見て、彼女は軽く肩をすくめた。とても、困った笑顔をしていた。困っているのは、私の方だっていうのに。

「なんで、」

やっとの思いで声を絞り出せた。

「なんで死のうだなんて思うの?」

美しすぎる彼女には、きっと悩み、ましてやコンプレックスなんて無いだろう。華やかな学校生活を送っていて、誰からも好かれていて、何一つ不自由のない人生を謳歌しているのに。

それなら、なぜ。

なぜ死にたいだなんて思うのか。

彼女は口元に指を当て、うーん、とわざとらしく考える素振りを見せて、そして、そんなこと大した事ではないとでも言うように軽く言った。

「もうこれから先、楽しいことなんか無さそうだなって思って。」

ガンッ、と殴られたみたいな衝撃が頭に走った。

何を言っているんだ。この人は。

これから先、楽しいことなんか無さそう?

そんなわけがないだろう。

私は急に、自分の目の前に立っている天使を、怖いと思ってしまった。

得体のしれないものに対する怖さ。この人は、私が理解できる範疇を超えている――。

死にたい、と思うからには、学校でいじめられてるから、親から虐待を受けているから、みたいな明確な理由があるものだと思っていた。少なくとも、私は。だから、彼女の曖昧とも受け取れる自殺の動機は、私にとって到底理解できるものではなかった。

止めなきゃ、と思った。こんな馬鹿みたいな理由で死んでほしくない。

「家族とか友達が悲しむよ。」

「生きてれば絶対楽しいことあるって。」

私は必死に言ったが、彼女の心には届いていなさそうだった。

言えば言うほど、彼女の心が遠のいていく気がして焦る。手応えが無さすぎる、と思った。どうしたら、彼女は自殺を思いとどまってくれるのだろう。

私が頭を抱えていると、突然彼女が「そうだよね。」と言った。

その顔は笑っていた。

「やっぱ親とかに迷惑かけちゃうし、やめるよ。」

驚くほど明るくそう言って、彼女は「じゃあね。また明日学校で。」と手を振ると、私が呼び止める暇もなくすたすたと歩いて行ってしまった。


感情が読めない後ろ姿を見送りながら、これでとりあえずは一件落着かな、と少し安心した。




キャハハ、という複数人の明るい笑い声で、回想から引き戻された。どうやらもう授業は終わっていて、今は休み時間らしい。ふと、ある美少女に目がとまった。

「天使」は教室の中央で、彼女の華やかな友人たちに囲まれ、談笑していた。下ネタなんかも含まれる、くだらない話で涙が出るほど笑っている彼女は、昨日私に死にたいと打ち明けたことがまるで嘘だったかのように、楽しそうだった。

しばらく彼女を遠目から見ていると、彼女が髪を結ぶために髪を束ねようとし、そして慌てて下ろすという不自然な瞬間を見てしまった。しかし私は彼女の不自然な動作よりも、髪を上げたときにあらわになったうなじの方に驚いた。

彼女のうなじに、掻き壊したような赤い跡があったからだ。白くてきめ細やかな彼女の肌に、掻き壊した跡があるというのが、なんというか、少しショックだった。「天使」、どこか人間離れしていると私が勝手に思っていた彼女にもところがあるというのが、本当に自分勝手な話ではあるが、ショックだった。大げさかもしれないが、自分の信仰している神が、ただの人間だと言われたような気分だ。

私は、無邪気に笑う彼女の後ろ姿を見て、複雑な気持ちになった。




家に帰ってから、日課の散歩をしにいつも通り河川敷に行ったが、今日は天使の姿はどこにも見当たらなかった。

どうやら、今のところ死ぬのはやめたらしい。

良かったと思いつつも、どこか不安が拭えないままだった。


散歩から帰った後も、漠然とした不安は消えなかった。もう彼女は大丈夫なんだから心配する必要はないと自分に言い聞かせても、逆に不安が増していった。夕飯を食べて、お風呂に入って、スマホを見て、布団に入る。できるだけ彼女のことを考えないようにするため、無心で行った。


仰向けになって目をつぶりながら、天使のことを考えていた。

天使のように綺麗で、可愛くて、みんなの人気者。いつも笑顔で、その笑顔がみんなを幸せにしていて、それで、それで。


『他の人には秘密だからね。』


ぎゅっと目をつぶった。だめだ、いつもの、可憐で綺麗な天使だけを思い浮かべなきゃ。

細い手足、くっきりと浮き出た鎖骨、すらりと高い背。揺れる髪。石けんの匂い。ほんのり色づいた唇。高くて澄んだ、愛らしい声。


あの子は、天使だ。

天使。天使。天使。天使。


――天使?


うなじの赤い掻きむしり跡。慌てて隠していた。

記憶の中の彼女の姿がぐにゃりと歪む。



『わたし、死のうと思ってるんだよね。』




気づいたら着替えてくるのも忘れて外に出ていて、無我夢中で走っていた。はあはあという自分の激しい呼吸音だけが暗闇に響いている。

父と母は気づいていないだろうか。心臓が信じられないくらい大きい音を立てていた。

走りながら、自分はなんでこんなことをしているのだろうと疑問に思って、そうだ、天使を止めに行くんだと思い出した。

彼女は、あの河川敷にいる。

確信があった。

でも彼女は、昨日と違って河川敷で体育座りなんかしていないだろう、死のうとしている、それも本気で。

なんでここまで彼女に死んでほしくないのか分からない。当たり前だが彼女の方がもっとわからないだろう。ほんの数回しか話したことがない地味なクラスメイトが、なんでこんなに自分のことを心配するのか。


夢中で地面を蹴っているうちに、河川敷が見えてきた。

必死に目を動かして彼女の姿を探す。草むらには見当たらなくてゾッとした。

もう、川に沈んでいるとしたら。

嫌な想像はどんどん大きくなった。私はかぶりを振って、川の方へ駆けていった。

 

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