草創章 068 10/13 012

 エルナがフィリアの腕を捉えてぐい、と引っ張ったので、フィリアは前へつんのめりそうになった。エルナが走り出すとフィリアもしゃにむに足を動かす。姉さん、痛い、と訴えてもエルナは手の力を緩めたりしなかった。それが、フィリアには嬉しかった。

黒い人影が姉妹の目の前を曲がって現れた。ぶつかる、と思う間もなくエルナの身体は黒套を着た横腹にうずまっていた。慌てて身を引こうとした拍子に勢いがフィリアに伝わって、体制を崩したフィリアはぺたりと尻餅をついた。

「これは失礼、お怪我はありませんか」

フィリアに伸べられた手と、裏表のなさそうな爽やかな表情とをエルナは交互に見比べた。黒套の青年は皇国の訛りで不体裁を詫びた。

「私の不注意なのです。申し訳ないことをしました」

いえ、と言ってフィリアが立ち上がろうとしたとき、青年の目が不審な閃きをみせたような気がした。

「君たち、養生所の子でしょう」

姉妹の視線は彼の顔のある一点に留まったまま、固まりついてしまった。自分の言葉が思いがけず劇薬のように作用したことに気づいたのか、青年は僅かに眦を吊り上げて、またすぐに相合を崩した。

「咎め立てはしませんよ。ここでは私たちも同じようなものだし、言ってみただけです、言ってみただけ」

ひらひらと顔の前で手を振って、すれ違い去る。あまり突然物事がはこんだのに動転して、フィリアはエルナの袖を無意識のうちに団子に纏めて握りしめていた。そのためエルナが身をかえそうとすると彼女のほうへ寄せられて、二人は自然向かい合う格好になった。ぽかんと呆けた顔を見合わせた後で、姉妹は共犯者の笑みを交わした。

 ディズィートリたちが庁舎の前のベンチに集まっているのをみとめたとき、エルナはほっと体の力が抜けるのを感じた。遅いぞ、とイラハが文句を言った。面を伏していたリセとマートが今起きたとばかりに腫れぼったい瞼を擦る。

「見ろよ」ディズィートリが顎でしゃくる。「月が出てる」

みんな彼に倣って空を見上げる。天球のほとんど頂上だけ藍がおちて、滲ませたような青がしんと冴えていた。海から巻き上がった粒子は気流にのっていつか天にまで達する。それで空に形あるものは悉く存在を暈されて、地上からは朧にしか捉えられないのだ。

「隠れてただけで、出てたんだな。今日は雲が多いから」

とマートが言った。

エルナとイラハはフィリアを連れてひと足先に養生所に帰っていることにした。レモードたちの剣幕を恐れてか、この決定に難色を示す者はなかった。ディズィートリやリセ、マートと別れて人数が減ると雰囲気が急にしんみりして、一人ひとりが一段と粒だって感じられた。イラハがエルナたちに目もくれずに行ってしまおうとするので、エルナはフィリアを引いて遅れじと彼の後を追った。通い慣れた山道が月の光に白んで、子どもたちの帰りを一筋に示していた。


 森へ吸い込まれた月の青は土から昇る冷え冷えした湿り気に纏わりつき絆され統合して見渡せる隈隈まで地面を濡らし、そこへ立てるものの側面をある定まった方向から判じ分けていった。黒ぼうしが背伸びをして、少しばかり頭の上へ張り出して、その勢いを乱さんとする風の一抹も現れない、静物の夜。山にひしめく葉も枝も、何もかも影絵のように一繋がりに見える。彼らの間を抜けてゆく、ただそこにだけ動ける仄白い影。少年と姉妹は青く引き締まった土壌を足の裏に感じながら、巡礼者のように黙々と歩く。ざく、ざく、ざく、ざく。それで、エルナのほうが耐えられなくなった。

「あの、イラハ。レネトー先生との読み合わせ、どうだった」

イラハの背中が静かに上下している。返事はない。

「私は今日作文が返ってきたんだけど、私、古体語得意なのに酷くて。イラハはやっぱり院文を目指すの。でも数理もよくできるから―」

最後まで言い切れなかった。苦し紛れに繋ごうとした言葉は尻切れに終わって、エルナはひゅうとっ短い息を呑んだ。首だけを回してエルナを見返すイラハの目つきは触れれば傷つく程に鋭かった。暫く見つめ合う時間がお互いの間にあった。

「お前、俺のこと好きじゃないだろ」

―どうして―

そんなことを言うの、と切り返すつもりだった。然しエルナがそれを口にするより先に、彼女が見せた刹那の戸惑いはイラハにある種の回答を与えたようであった。

「お前はうまくやるだろうさ、院に行っても、どこへ行こうとも」

エルナは行き場の無くなった視線をすぐ隣のフィリアに向かわせた。それは妹を気遣うというよりも姉としての体面の安否を確かめるためにそうしたのであった。幸い、フィリアの表情にエルナが恐れていたような印はみとめられなかった。

「傘、返しとけよ。ハイラーテ先生のだろ」

「ああ、持ってきちゃった。明日返しに行くよ」

エルナは己の話ぶりに作為を感じずにいられなかった。傘なんて、本当はディズィートリたちと別れてすぐに気づいていた。エルナの意識は彼女の本心に逆らって働いた。たといフィリアに軽蔑されても、それによって胃のじくじくする思いを味わおうとも、彼女の口調には媚びるような響きが絶えず付き添うて離れなかった。エルナの内心の苦悩を知ってか知らずか、それから少しの間イラハは口を閉ざしていた。


「ごめんねえ、昔なら私がやれたんだけど」

フィリアの足がもつれだして、がっくり項垂れて、半睡の夢遊病者のようであるのを見かねたのか、イラハは彼女に背中を向けておぶおう、と言った。つられて立ち止まったフィリアはここで初めて気のついたようにはっと目を開いて、年長者に対する申し訳なさと姉の前でおぶわれることの気恥ずかしさから顔を赤くしていえ結構です、歩けますから、と懸命に断ろうとしていたが、そう言っているうちにもまた目がとろんとして、ついにはイラハのなすがままに背負い上げられた。彼の肩に鼻をうずめてくたりとしたフィリアはようやく安心したというふうに心地よい寝息をたて始めた。

「力持ちだねえ、イラハ。背も高くなっちゃって。みんなそう、私だけ置き去りにされてるみたい」

イラハの後を歩いていたエルナは何気ない足取りで彼の横に並んだ。

「私があなたにそぶりで答えたのはね、あれは嘘だよ」

「嘘?どんなふうに」

「私はイラハに嫌われたくないんだ。好きとか嫌いとかじゃなくって、ただ純粋に、それだけなんだ」

「好き嫌いといったことがお前には分からない。そしてそれは俺に限った話じゃない」

「そう」

「じゃあ、嫌われさえしなければ、誰にも好かれなくたっていいのか」

「それはちょっと、違う気がする」

「ああ、そうだろうな。意地悪をした」

イラハとエルナは目を通わせて、それぞれの口元に自嘲の笑みを浮かべた。

「お前はさっき、向こうへ行ったときの話をしてた」

「うん」

「それってなんだか、お前らしくない気がして」

「そうかな」

「俺はやっぱり、院文にはいかない。法学を専攻して、皇国の軍隊で偉くなって、最後にはでっかい政治家になるんだ」

「イラハは地政も得意だから」

「そういうことだ」

「目指すは今の世のザーリ中将だね」

「そう、きっともっと上までいける」

できるよ、とエルナが頷くとイラハは一転して痛ましいものを見るような顔をした。そのときの彼は少しだけ寂しそうに見えた。

「たいそうな夢だ、全く。エルナは?お前の野望を聞かせてもらおうか」

「私の夢は、きっと目標とよんだほうがいいくらいだけど、それでも私にとっては野望なんだ。私はリセちゃんみたいな女の子になりたい」

「へえ、どこに惹かれる?」

「リセちゃんみたいに全霊を傾けられるものを持っていたい。人生をかけて、夢中になりたいんだ。今の私はたくさんの繋がりの中でぽつねんとしてて、学問だって不確かで、正しいとかなんだかわからないけど、だけど、ああいうふうになれたらなあって」

「なれるさ」

「なれないかもしれない。だから野望なんだ。私はこのままなんとなしに生きて、例えば工場に出て、結ばれて。そうなってもそれが私の相応なんだって、幸せだって、言える気がするんだ」

「だったらそれは野望じゃない」

「どうして」

イラハは黙って足を早めた。


 一号舎オードに向かうイラハを見送ってから、フィリアの先に立って二号舎アートの入り口のポーチを渡る。板を軋ませないよう忍足で階段を上り、部屋の前に辿り着くと、ドアの蝶番に指をかませながら少女の体が横向きにかろうじて通るだけ開く。侵入は呆気なく完遂された。アールとテオの寝息に耳を凝らしながら慎重に各々の寝床を目指す。同じ部屋ではあるものの、少女たちの場所は少年たちと離して誂えられている。床が一段上がったところへ膝を掛けて、ペしゃぺしゃな布団の間に身体を潜り込ませる。たちまち、布団の冷たいのや脚の痛いのが気にならないくらい気持ちが圜くなって、あれだけ脈打っていた心臓も穏やかになって、ああ疲れていたのだと思ったときには底の知れない、泥のような眠りに引き摺り込まれていた。

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エニマの浄夜 熊波文 @kumababun

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