後編
空の星、地上の花。転じて、空の花、地上の星。昔から良く使われていた言葉だが、単に修辞的な意味でしかその言葉を捉えていなかった。それを実感として覚えたのは、前に書いた星の光を見ていた時にふと浮かんだ、‶覚えていますか?″と云う言葉に触れた時の事だった。
何の前触れも無く突然浮かんだこの言葉について、色々と考察した訳だが、その時、意識の何処かで感覚的に妙に馴染み深い言葉があった様に思えて、それが何であったか、思い出せないままにそれについてずっと考えを巡らせていた。
何処か遠い所から微かに響いて来る、聞き逃しそうな小さな声なのに、けれども決して無視出来ない、そんな声。
今になって漸くその言葉を見い出せた様な気がする。
‶ほととぎす そのかみ山の旅枕 ほの語らいし空を忘れぬ″
新古今和歌集に登場する、式子内親王の歌であり、優に八百年の時を隔てた歌であるにも拘らず、時を越えて心の奥底に響いて来る様に思えて来る。
歌われた情景は、最早手の届かない__場所的にも時間的にも__朧げな物となってしまい、僅かに空の彼方より響くほととぎすの声に、当時に繋がる糸を手繰るのみ。そんな頼りない記憶を基に、‶それは確かに其処に在った″と思いを募らせ、空の向こうにその片鱗を見い出そうとする。当時を語り合う事の出来る物も早遠く、ただ心の内に甦るほととぎすの声と、それに聞こえるか聞こえないかの微かな声で呼応したであろう溜息にも似た自分の息遣い。それは自身の内なる記憶の鼓動を辛うじて揺り動かし、刹那、在りし日の情景に一時だけの息吹を与えるのだ。
人知れず、ただ己の内にのみ響く震えにも似た記憶が、空の向こうへと消えて行った遠い声と響き合う。
何度でも何度でも寄せては返すさざ波の如き逍遥を経て、漸く至った僅か三十一文字の詠嘆。
その瞬間、一個人の過去に纏わる嘆きは、時と場所を越えて、遥か彼方の未来へと繋がって行く。
最早二度と届かない、と思われた在りし日の情景が、それは今にも消え入りそうなか細い物ではあるけれど、確かにピンと張りつめた夢の懸け橋となって、何度でも目の前に立ち現れる。
当の本人だけでなく、読む者の目に入ったその時、内より湧き出す郷愁の念と共に、遥か遠くの空より飛来する妙なる音階の如き微かながらも確かな情景。言葉の合間から聞こえる溜息が、まるで自分の唇より漏れたかの様な感覚に襲われる。
読んだのはただ目の前の文字に過ぎないと云うのに、まるでその言葉が遠い空より響いて来たかの様な感覚、遥か昔の空の青さが、過去から今日、そして明日、また明日へと変わらず在る様に、時の流れを越えた処から、遥か遠い処より齎された物であるにも拘らず、耳元で囁かれた様な近しさを感じ、時も場所も隔てた筈の言葉が、実は自身の内に存在していた事に気付かされる。
それはあたかも何億年もの遠い星の光から齎されたものと同じ、時の隔てや距離の長短などは些細な物とばかりに、人の身では到底届き得ない所より来たりし微かな言の葉。
そう云った言葉が、ぼんやりと空を見上げた時に、微かに掠れた青い空の中に薄く滲んで見える時がある。見えるだけでなく、まるで‶見付けた″と云わんばかりに此方に飛来して、気付かない内に自分の中に入り込んで来る様な感覚に捉われる時がある。そうして、いっかな離れようとしない。まるで、自分がそれを書き留めるまで促がし続けるかの様に。
何故自分なのか。他にもっと巧みに描く事の出来る者が居るだろうに。選りにも選って何故この自分に。
自身の文才の無さにはや見切りを着け、空白にも似た日々に浮かび漂うだけの自分に。
けれども、ある意味、そこが要であるのかも知れない。
浮かぶ瀬も無く、ただ流れるばかりの存在である自分に、この世界に生れる機会も無く、ただ虚空を彷徨うばかりの微かな‶消息″が、文字と云う仮初の物であっても、その拠り所を求めて来る、と云うのも。
それは確かに其処に在った、と云う、確かな証を世界に刻んで欲しくて集う、それは有り得なかった世界の残渣の様な物、生まれ得なかった世界の雛籠の様な物。そんな物達をこの世界に書き留める為に、今日も自分は拙い腕を振るうのだ。
まるで、それが読む者の内に始めから在ったかの様に、
‶ほの語らいし……、ほの語らいし……空″
終
ほの語らいし空 色街アゲハ @iromatiageha
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