ほの語らいし空
色街アゲハ
前編
遠くに光るあの星は、何億年も前の輝き。そんな歌があった。覚えている人もいる事だろう。
そう言えば、と寝静まった街、とある建物の屋上で合間に出来た時間を潰していた時の事、ふと見上げた夜空の一面に輝く星々の光を眺めていて思い当たった。今こうして目にしている光の中に、もしかしたらもう存在していない物もあるのかも知れない、と云う事に。そうでなくとも、こうして目の当たりにしている光は、その星の在りし日の、その時確かに其処にあった、と云う証であると。今少しだけ想像の羽を伸ばして、それは何時かの星々の言葉、と言い換えても良いかも知れない。
そんな風に考えを巡らしていると、不意に過る言葉が一つ。
‶私の事を覚えていますか?″
随分理屈に合わない言葉であると、自分でも思う。覚えているも何も、その光、言葉に触れるのは今、この瞬間が初めてだと云うのに。
それなのに、その言葉は自分の中で極めてしっくり来る物で、何故、と暫し考えを巡らせずにいられない。
初めてではない……、からだろうか。自分は今の今まで、どれ程こうして夜空の下に佇んで来たか。考えも付かない程の数だろう、と思う。それでもこうして見上げる夜空の星々の数には到底及びも付かないだろうけども。
その度に星々の光は、変わる事無く自分の上に降り注いでいた筈だった。例え、此方が意識して其方の方に目を向けていなくとも。
自分でその事を、それと気付かずに心の奥で納得していたが故の、その上での‶覚えていますか?″だったのだろうか? と、一応の説明を試みてみるのだが、何か違う気がする。そんな遠回りの説明でなしに、もっと直感的な物であると、そんな気がしてならない。
……どうやら根本的に勘違いをしていた様だった。星の言葉を自分の視点でのみで推し量ろうとするから、どうしてもずれた説明になってしまう。発せられた側からの視点も交えてみないと、その真意に辿り着く事は出来ないだろう。
今にもその活動を終えんとする星。今際の際、その最後の瞬間にその星は一体何を願うのだろうか。自らの存在の誇示? きっとそれだけでは足りない、それ迄の嘗て在った所の、頻りに燃え盛っていた瞬間、それ等切り取られた一瞬は、それ自体取るに足らない刹那の瞬間でありながら、それが記憶となって呼び起こされる時、一際強烈な光を放つ‶永遠″とも呼ぶべき刻となって甦って来る。何度でも何度でも、それが願われる限りに於いて。
二度と戻って来ない遠い過去の物となってしまった光の根源は、今や存在せず、にも拘らず何億もの歳月を経て今此処に到達した実体の無いか細い光。
時と空間とを越えて届いて来たそれは、最早残された終わりを待つばかりの記憶だけの存在。受け取る者の選り好みも出来る筈もなく、ただ無作為に記憶を微かに投げ掛けるのみ。意志と云う意志もなく、力無く半ば独り言の様な言葉を紡ぐだけ。
誰に語り掛けると云う訳でも無く、ふとした折に何気無く洩れた呟きの様な物、諦めの中に僅かに残る縋る様な淡い輝煌の霧。
気付かれないと知りつつも、それでも僅かばかりの、袖に触れるか触れないか、囁きの様な微風の様な、伝わらないと分かり切っているにも拘らず、それでも尚発せられるあの言葉、‶私の事、覚えていますか?″、‶覚えていますか? あの事″
それは、果たして星の記憶なのか、それとも、疾うの昔に置いて来た、思い出す事も無い自分自身の記憶なのか、それとも……、それ等の混在した、時の流れから外れた、それ故に決して到達し得ない未知の記憶なのだろうか? それ等二つは決して混じり得ない物である筈なのに。
誰知られる事無く、たった一人で、ふとした折に覚える、自分がこの世界の中で独りぼっちだと気付かされたあの寂寥感の最中に見いだされた、過去に無く、現在でもない、恐らく遠い遠い未来の中でしかその片鱗を見出す事の出来ない記憶の欠片。時と共に移ろいで行く意識の流れが、不意に途切れた瞬間、それは時の間に挟まれた断絶、故に時の流れから解き放たれた感覚。
ひるがえって、それは永遠に繋がる類の感覚。そして、それが故にそれは遥か未来へと続く物だった。
星の光のもたらした物、それは時を越えたものであるが為に、此方の心の奥底に秘められた‶未来の記憶″に繋がる……響き合うものがあるのだろう。
こうして、互いに接点の無かった筈の二つの記憶は、過去と未来から互いに手を伸ばし、‶今″という一点で重なり合い、恐らく其れは直感的な物だろう、共鳴し、響き合うのだ。
‶覚えていますか?″その言葉は、きっと宇宙の片隅でその生涯を終えたであろう星の物であると同時に、‶私自身″のそれであったのだ。
その事に気付いた自分は、見上げた夜空の中でに一際輝く星を見い出し、刹那、風が吹き抜けた次の瞬間、其処に居た筈の自分の姿は既に無く、気付いた時には、自分はその星に向かって虚空を全速力で駆け抜けている、そんなイメージに捉われるのだった。遥か以前に失われた筈の自分自身の姿を其処に見い出して。息せき切って、‶今、其処に行くよ″とばかりに。
事此処に至って自分は気付く。今に至るまでに自分は様々な物を失って来た、そう信じ込んでいた、と。嘗て掲げた標語は、今では色褪せ擦り切れて読み取る事が出来ない。今はただ、残された時を塗り潰して行くだけと、そう信じ込んでいた。
しかし、失ったと信じ込んでいた、その実、何て事は無い、何一つ失ってなどいなかった事に突然気付かされ、それは眩い希望であると同時に、絶望の淵に叩き落される様な残酷な事実でもあった。
歓喜と絶望とが一度に襲い掛かって来る感情に弄ばれながら、自分は、‶何て事だ、何て事だ″と、譫言の様に繰り返す事しか出来なかったのだった。
後編に続きますよ
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