夢見るままに待ちいたり
きょうじゅ
本文
彼はいつもその公園のベンチに座って、クトゥルー神話の本を読んでいる。初めて会ったときは『未知なるカダスを夢に求めて』だった。
「今日は何を読んでいるんだい」
「『ファンタスティック・ユニヴァース』1957年9月号」
「今日はクトゥルーの本じゃないの?」
「いや、これはダーレスの『ルルイエの印』が初収された雑誌だ」
「やっぱりそうなのか」
はやめに断っておくが、これは現実の話ではない。僕が見ている夢の中の話だ。彼は僕が中学生の頃にはじめて僕の夢の中に現れ、それから時折、僕は彼の登場する夢を見るようになった。といって、夢の中で何かが起こるわけではない。彼はただ、公園のベンチに座って、いつもいつもクトゥルー神話の本を読んでいる。ただそれだけなのだが、その時間は、いまの僕にとってかけがえのないものとなっている。
「君、死ぬのかい」
と彼が言う。
「ああ。もう長くないだろうって、医者が」
これも断っておくが、医者は夢の中の住人ではなく本物の医者で、僕が早期がんによって死に瀕しているというのも、夢ではなくて現実の話だ。がんというのは面倒なもので、なまじ若いとそのせいで進行が早くなるというジレンマがあり、僕は既に全身を自分自身の変異細胞によって冒されていた。ステージ4というやつだ。
「そうか。なら、お別れを言っておくよ。今まで、君と語らえて、僕は楽しかった。もう十年になるか」
「そうだね。あの、何度もこの話を蒸し返すようでなんなんだけど」
「いいや。君が何度も言うように、僕は『夢の中に現れる怪異』のように思えるだろうが、実際にはそうじゃない。僕は君の夢の一部であるに過ぎず、君が死ねば君の世界から消え、そして最初から居なかったのと同じになる。つまり、君の死は僕の死とも等しい。今まで何度も議論してきた通りだよ」
「それなのに、君には主観的な時間の観念があるのかい」
「それはお互い様だろう。僕から見れば、君に自我と自己が備わっているということも、一種の哲学的幻想に過ぎない。独我だよ。この世は、ただ独我によってのみ実存するんだ」
「夢の中の住人にそんなことを言われると、いつも思うが、本当にけむに巻かれているようだよ」
彼の登場する夢はいつも明晰夢だ。つまり、僕は彼の夢を見るとき、それを夢だと認識した状態で見ているということ。
「ああ、目が覚めそうだ。それじゃ、また」
「うん。また」
さて、僕は目を覚まし、話は現実に戻る。母が見舞いにやってきた。母はまだ健康なので、僕のことを心底憐れんでいる様子であり、かいがいしく世話を焼いてくれる。ちょっと気の毒ではあるが、先立つ不孝はいかんともしがたい。
「母さん。お願いがある」
僕は母に、医者に言ってモルヒネを投与してくれるようにと頼んだ。最後の手段である。最後の治療法というわけではなく、打つ手がなくなったとき、二度と覚めない眠りに落ちて安らぐための、医学に残された最後の救済の手段。
「来たね」
「ああ。来た。それで、これが最後だ。多分、もう目覚めることはないから。ずっと一緒だよ」
彼はその日、ラブクラフト全集を脇に山積みにしていた。だけど、僕はとっておきのものを夢の中に持ち込んでいた。
「なんだい、それ」
「これはiPadというものでね。これでインターネットに接続したり映像を見ることができる」
「電波、入るのか? ここ」
「電波は大丈夫。データの状態にしてインストールしてあるから」
「それで、それを何にするんだい」
「君に見せたいものがあるんだ」
僕は動画の再生を始める。
「うー!にゃー!うー!にゃー!うー!にゃー!」
彼が怪訝な顔をする。
「なんだ、そりゃ」
「クトゥルー神話のアニメ」
「なんか、そんな風には見えないけれど……」
「僕もそう思う。でも」
僕は言った。
「君と、最後にこれを見て過ごしたかったんだ。いいだろう」
彼は言った。
「ああ。勿論。君の、望む通りにしよう。死が二人を分かつまで」
夢見るままに待ちいたり きょうじゅ @Fake_Proffesor
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