ベリー・ベリー・ホワイト
ステアは、肯定も否定もしなかった。
代わりにおもむろに、俺の前に腰を下ろした。
「だったら、どうする?」
そんな、挑発的な笑みを浮かべて。
当然否定なり肯定なりがかえってくると、どこかで思っていた俺は、言葉を続けることができなかった。たぶん、たいそう気まずい、間の抜けた顔をしていたのだろう。
やがて、彼女が、ステアかもしれない彼女が、吹き出した。
「ごめんね、からかった。うん、合ってるよ。あたしだ。元、ステア」
にんまりと笑う彼女に、ほっとすると同時に、からかわれたようで少々腹が立った。
それと同時に、自分が自分の発言の先に続ける言葉を、
内心の焦りをごまかすように「ずいぶん意地悪くないですか」と思わず言ってしまうと、「さあ?もとからだよ」と、にべもない答えが返ってきた。憮然とした俺の気持ちを知ってか知らずか、「ちょっと待ってて」としばし席を立ったステアの手には、湯気が立つコーヒーカップが握られていた。そのまま再度、俺の目の前の席に着席する。
「で、今さら何か用事? 芸能人扱いされる時期は、あたし的にはとっくに過ぎてると思ってたけど」
これも、自嘲するようでもない、むしろこちらをからかうような口調だった。
正直言って、こちらとしては手のひらで転がされているようで面白くない。過去のライブの画面上で、ファンに向かってマイクを向ける姿が浮かんだが、まったくと言っていいほど、目の前の“元ステア”は、それと対照的だった。そんな俺の心境を知ってか知らずか、あるいは見透かしたように、ステアは「ああ」と独りごちた。
「もしかして、この前の番組でも見たの?」
まったくその通りなので、咄嗟に「ええ」とも「まあ」ともつかない曖昧な言葉を返すと、ステアは薄く笑った。コーヒーに、ゆっくりとミルクを落とす。
「臨時収入くらいの気持ちで出てみたけどさ、意外とあなたみたいな人がたまーに来るよ。今さら覚えててくれるのは、嬉しいけどね」
ティースプーンを掻きまわしながら、淡々と口にする。一応薄い微笑みを浮かべてはいるが、その表情の奥からは、明確な感情は読み取れない。
侮蔑なのか、拒絶なのか。それとも、あまりそうとは思えないが、少しは歓迎されているのか。彼女の反応からは、まったくそれが読み取れない。
「・・・・・・迷惑、でしたか?」
やっとそれだけ言うと、意外にも彼女は首を横に振った。
「別に。今となっちゃこんな身分だし、言ってそんなに騒ぎになるとかないし。さっき言った通り。たまーに誰か来てくれて、握手とかサインとか、求められれば受けるよ。何だかんだ、今でもありがたいし」
だけどね、と彼女は付け加える。
「そういう人が増えたのって、あの番組がオンエアされてからだから、正直微妙な気分ではあるかな」
『一発屋』。ふと、動画のコメント欄にいくつも並んだ言葉が脳裏をよぎる。
バンドデビューして、3年目。8枚目のシングル、『通せんぼ』でのヒットを記録して以来、彼女たちのバンドが徐々に低迷を続け、その後解散に至ったのは、周知の事実だ。未来を通せんぼするやつらにひるむな、踏み越えればきっとその先が待っている。そんな楽曲だった。ぼんやりとその歌詞をなぞっていると、ステアから質問が飛んだ。
「『通せんぼ』のCDなら、うちに少し余ってるよ。価値があるかわからないけど、もしいるんだったら、サインくらいはさせてもらうよ。せっかくのお客様だし」
コーヒーカップを置いて、ステアははじめて俺をまっすぐに見て、笑いかけた。
『お客様』。彼女に他意はないのだろう。けれど俺は、その言葉に引っ掛かった。
過去のライブや雑誌の切り抜きで見たステアは、そんな言葉は一度も口にしたことはなかった。なぜか胸の奥が、ちりちりと痛んだ。テーブルの下で、ぐっとこぶしを握り締めた。
「『通せんぼ』は、いらないです」
一呼吸おいて、俺は続けた。
「もしお持ちなら、『嘘つき』でお願いします」
それは、シングルではない。ファンの間でも「落ち目」と称されていた時期に発売されたアルバムに一度だけ収録されていた、ロックともバラードともとれる、「中途半端」と評されていた一曲だった。アルバムのタイトルは、「眠り姫の嘘」。
俺の発言に一瞬虚を突かれたような表情を浮かべたステアだったが、すぐにもとの薄ら笑いを浮かべて、「ずいぶん懐かしいこと言うね」と、笑ってみせた。
「でもあいにくと、あれは今うちには残ってないんだ。もともとそんなに出回ってなかったし、ウケも良くなかったから」
「じゃあ、書いてもらえますか」
我ながら、なぜこのときそんな無遠慮なことを言ってしまったのかわからない。
けれど俺は、気がつくと椅子にもたれかけていた鞄の中から、スケジュール帳を取り出し、彼女の前に広げていた。半分は予定でびっしり埋まっているが、後半の半分はまだ白紙の手帳。表紙には、ペンが差してある。さすがのステアも面食らったようだが、まじまじと俺と手帳を見比べると、あきれたように言った。
「きみ、変わってるって言われない?」
「面と向かって言われたことはないです。 そうならないよう努力してるくちです」
「じゃあ、あたしが言うよ。 変わってるね、きみ」
くすくす笑いながら、それでもステアは手帳とペンを受け取ってくれた。
「
彼女の流れるような筆跡が、白紙の上を黒く滑っていく。
『あんたの武装なんて大嫌い 背中に刺さったとげも見えない?
あたしの生身を殴ってみなよ あんたの拳は あたしを貫けない
嘘だって冗談だって ごまかせないならもう終わりにしな
道連れになれない覚悟なんて どうせそんなの嘘つきの嘘
あたしにもあんたにも とげなんてない 嘘つきのとげ 飲み込んじまえ
ねえ 無視しないでよ これはあたしとあんたの 嘘と現実』
Bメロの部分だ。音源は、動画サイトで映像なしでしか聞いたことがない。
けれど明瞭に覚えているその音を頭で反芻していると、「おしまい」と、ステアはペンを置いた。
「あんまり気に入ってないんだよ、これ。そんなに流行んなかったし、ライブでもあんまりやんなかったし」
「これ、ステアさんの作詞作曲でしたよね。だいたいメンバー全員でやってたのに」
口にすると、彼女はふっと、力が抜けたように笑った。
「そうだよ。だから、歌えなくなった。今さら掘り出されるなんて、思ってなかったなあ。ちょっと嘘つきやめてみたらさ、ますます落ちていくんだもん」
「でも、俺はこの曲好きです」
「あたしも本当はそう。だから、自分だけでもやっていけるって思った。だけど、結果は見ての通り。“ステア”にはこの歌は、求められてなかったし、あたし自身、持て余すしかできなかったのかもしれない。早く気づけば良かったのにね」
「『過信』、ですか・・・・・・?」
尋ねると、「かもね」とつぶやくように言って、コーヒーカップに口をつける。
何度か口をつけたはずのカップの中身は、ほとんど減っていないように見えた。
「ステア・・・・・・さん」
「何?」
「どうしたら『嘘つき』にならないんですか? 『過信』にならないんですか?」
それなりに勇気を出して問うたのに、彼女の返答は「口。ケチャップついてるよ」という一言だった。慌てて、立てかけてあった紙ナプキンで口を拭う。
「じゃあ、これはお返しするわ。 必要かどうかは分からないけど、いちおうサインもしておいたから、好きに使って」
言って、ステアが席を立つ。テーブルの上には、畳まれた手帳とペンと、いつのまにか伝票が置かれていた。厨房の奥に引っ込むステアに代わって応対に出たマスターに代金を払い、俺は化かされたような気持ちになって店を出た。
帰りの電車を降りてから、だんだんと腹が立ってきた。
けっきょく、肝心なことははぐらかされたのだ。
もちろんいきなり押し掛けたこちらに非があるのは百も承知だが、それでも俺は、俺の気持ちを抑え込むのにずいぶん苦労した。最寄り駅の一駅前で降りたのは、そんな気分を引きずったまま帰りたくなかったからだ。
各駅停車の駅のホーム。ベンチには、初老の女性が座っている以外に誰もいない。
俺は乱暴に小銭を流し込み、自販機から缶コーヒーを取り出した。
次の電車到着までは、20分程度ある。
いったい今日は、何のための日だったのだろう。
ため息をつき、手帳を取り出してめくる。そこにはステア直筆の、「嘘つき」の歌詞が載っていた。
どちらかと言うとストレートに前向きな歌が多い中で、落ち目だったことも手伝って、その曲はファンの中でも当時から賛否両論だった。
ぼんやりと歌詞を眺める。「嘘つきのとげ」。ふと、歌詞の終わり。「ステア」のサインのページの端に、記憶にない言葉が記してあるのに気づいた。
「嘘つきじゃ終わんない」
歌詞のはっきりした字体に隠れるようにして、それは小さく書き込まれていた。
筆跡は少し異なるが、それは間違いなくステアの書いたものだった。
唐突に、思い出す。
いつかのインタビュー記事で、「ステア」が自身の名前の由来を尋ねられたときの答えを。
「私が歌いたいのは、とてもとても何もない、真っ白な、とても真っ白な世界に飛び込むような歌なんです。『ステア』の名前は、カクテルを軽くかき混ぜる動作から取りました。いつまで歌えるなんて分からないけど、私の色を目の前の白い世界の中にかき混ぜたいんです。これから先、どんなことになっても、それは変わらないでいると思います」
『嘘つき』と『過信』。『ステア』という名を、捨てなかった彼女。
彼女は今、どこに立っているのだろう。
ホームに電車が到着するアナウンスが鳴る。
俺は手帳をしまうと、ゆっくりとホームに向け、歩き始めた。
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