過信

美味いとも不味いともいえない、どこででも飲めそうなコーヒーをちびちびとすすっていると、厨房からふんわりとバターの香りがした。

鼻孔をくすぐるその香りに、空きっ腹が「くぅ・・・」と、情けない自己主張をした。そういえば、腹が減っていた。さすがにコーヒー一杯では、腹は膨れない。むしろ空きっ腹に流し込んだせいで、逆に空腹が加速した。


「お待たせしました」


ステア(かもしれない)が、いいタイミングでオムライスを運んできた(ネームプレートをつけていないので、本名を知ることはできない)。久しく目にしていない、ラグビーボールのような楕円形。表面は黄色一色ではなく、卵黄の黄色と、卵白の白が混じったまだら模様に、じぐざぐのトマトケチャップの赤。申し訳程度に添えられたパセリ。なんとも素朴だ。

空腹というものは、それに気づくとさらに加速する。オムライスが運ばれるや、軽く「いただきます」をして、俺はまずパセリに手を伸ばした。もしゃもしゃと、青臭い。だが、嫌いではない。ダイレクトに「草」を食べている気になるそれを、俺は最近残さず食べるようにしている。


『捨てちゃうんですか・・・?』


念のために言っておくが、べつにステアの曲の影響ではない。前にTVでたまたま見たパセリ農家の取材で、栽培者のばあちゃんが、パセリが一時いっときの飾り扱いされて、口に運ばれることがないということを知って、悲壮な表情をしたのを見て以来、なんとなく習慣になってしまっただけだ。『食べ物を粗末にするやつは食べ物に泣く』は、戦後を生きた俺の祖母が俺にさんざん刷り込んだ教訓で、一人暮らしをするとその言葉の重みが否が応でも現実味と重さを増す。べつに縁起を担ぐわけではないが、かといって食べ物を粗末にする理由もない。というわけで、俺は出されたものは、よっぽどのものではない限り残さず使う。唐揚げや刺身についてくるレモン一切れに対しても、弁当に申し訳程度に敷かれたレタスにしても、だから俺は同じスタンスだ。

口中に張り付くパセリの欠片を水で流し込んでから、俺はスプーンを手に取った。


「おお・・・・・・」


アツアツのオムライスを頬張ってみて、出てきた感想がそれだった。

けっこう美味い。予想よりちょっと分厚い卵がバターの香りをふんわりまとっていて、ウインナーと玉ねぎ、グリーンピースの具のシンプルなケチャップライスを包み込んでいる。これはケチャップが良い意味でべたべたしているナポリタンのような、洒落たレストランでは絶対に出てこない、古い喫茶店とか、実家や親戚の家で出てくるような、いわゆる“家庭の味”に近い。


BGMもかかっていない店内は、再び静けさにつつまれていた。

けれどかまうことはない。俺の胃はすっかり、久々の“家庭の味”に夢中になっていた。ものの数分で、俺は出された皿を綺麗にからにしていた。


美味かった。

正直もうその時点で、ステアがどうとか、どうでもよくなってきた。だいたい、あれがステアだったとして、だから何だというのだ。サインでももらうっていうのか?

全盛期なら大喜びして家宝にでも祭り上げたかもしれないが、あいにく今となっては俺としても、そして(おそらく)本人としても、そんな扱いをされるいわれはない。

早い話が、(有希子には悪いが)ここに来た目的など、どうでもよくなった。

そんな過去の話、どうでもいいじゃないか・・・・・・。


紙ふきんで口を拭う。一息をついて、残り少なくなっていたコーヒーを飲み干す。

そういえば、こうしてゆっくりした時間を過ごすのも、意外にも久しぶりだったような気がする。案外、贅沢な時間だったのかもしれない。つかの間の満足。テーブルの下で、俺はゆっくりと足を延ばした。


けれどその間隙を縫うように、急に、これから待ち受けているであろう社会の荒波が脳裏に浮かんだ。事前配布された資料に記されていた、おびただしい数の文言。OJT、MVV(ミッション・ビジョン・バリューの頭文字だ)、ビジネスマナー。スキルやノウハウ、社外研修・・・・・・。


思い出した瞬間、舌打ちしたくなる。誰だ、「御社の利益に資する人材になれるよう、全力を尽くします」なんて言い切ったのは。

いや、あのときは本気でそう思った。もちろんそれだけではないだろうが、面接でどうどうとそういったことを言い切れるのは俺の一種の特技でもあったし、成績はそもそも悪いほうではなかったので、両者が相まって、今回の内定という結果に結実したのだろうとは思う。べつにそこに嘘はない。何より、それに見合うだけの努力はしたのだから。その一方で、涙をのんだ数だって、数えきれないし、数えたくもない。一部の人間が邪推するように、順風満帆に進んだわけではない。

それでも同級生から見れば、結果的に俺はけっこういい道に進めた部類だろう。面と向かってそう言われたこともあるし、それに対して口だけ謙遜しながらも、内心鼻が高くなっていたことも、この際認める。


けれど今、“社会”というそれが現実に目の前まで迫ってくると、あのときの気持ちが揺らいでしまう。行ったことはないが、強がって先陣を切った心霊スポットの入り口で怖気ずくような気持ちとは、もしかしてこんな気持ちだろうか。

いや。「帰る」という選択肢がない点では、心霊スポットなんかよりはるかに怖い。

待ち受ける現実が。まだ見ない未来が。社会人という名称の、重圧が。

Fランではないという程度の、名前なんてあってないような私立大の、しかも文系の、さらに名もなき俺。なのに、そこそこ地元では名の知れた企業に、受かってしまったという事実が・・・・・・。


「過信してたんですよ」


期せずして、画面越しのステアの言葉が蘇る。

彼女とは、住んでいた世界が違う。けれどあのとき輝いていた彼女は、転落した。

TVではもちろんその姿は見ないし、動画サイトで名前を指定して検索しない限り、音源も見かけない。その音源に寄せられたコメントだって、よくて数週間前、悪くて何年も前に途絶えたきりだ。しかも、そのすべてが好意的なものだということでもない。時間が経ち、日が新しくなるにつれ、辛らつなコメントも目に付くようになっている。時期的には、おそらくはこの前の番組の影響だろう。中にははっきりと、「ざまあ」とまで書いたやつもいた。

もし目の前の彼女がステアだったとして、彼女はそのことをどう受け止めているのだろう。自分の「過信」というのが、まばゆかった彼女の、答えなのだろうか。

ならば、その答えを言ってのけた彼女は、今何を思っているのだろう。


曇ったガラス越しには、相変わらず何の景色も見えはしない。

なんだかこう、何も考えなくてよかったあの頃に、帰りたくなった。


「・・・・・・すみません、メロンソーダフロート、追加お願いします」


まんま子ども返りじゃないかと思いながら、懐かしいその名前を口にした。

小学校卒業までだったか。俺は字が下手だった。そのために嫌々習字の教室に通うはめになったが、その代わりに、毎週1回、近所のファミレスに連れて行ってもらえた。そこで俺が選ぶデザートは、必ずといっていいほど、メロンソーダフロートだった。本物のメロンからでは絶対にあんな色は出ないだろう、着色料たっぷりの、身体に悪い背徳の黄緑色。高揚をそそるようにはじける泡。氷山のようなアイスクリーム。

やがて彼女が運んできたそれが、子ども時代に好きだったそれ、そのまんまだったことが面はゆいような嬉しいような。しかも、店内には相変わらず客はいない。勢い俺は調子に乗って、ついそのセリフを口にしてしまった。


「もしかして、ステアさんですか?」









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