第3話 一握りの勇気

 今朝の朝食は、焼きたてのパンに、産みたて卵の目玉焼き。丁度良い塩梅の豚肉のハムは、分厚いけれどやわらかくて、脂の甘味も感じられる。サラダの生野菜は、エステルが温室で収穫したものを、毎朝厨房まで届けている。


 以前は村の宿屋を経営している主人が、食事の時間帯になると、エインズワース家にやって来てその腕を振るってくれていた。だが、不慮の事故で足を悪くしてからは、この家に姿を見せることはなくなった。今はメイドのシャーロットが食事の用意までしてくれている。


 エステルは朝から晩まで働き詰めのシャーロットをいつも心配しているのだが、当人は「ありがとうございます。エステル様のそのお気持ちだけで、一日の疲れが吹き飛んでしまいます」と言って、一向に取り合ってくれない。少しでも負担を減らせればと、自分のことは自分でするように努力していた。


「申し訳ないが、先に失礼するよ」鳶色の髪に、榛色の優しい目。穏やかな面持ちに、本当に申し訳なさそうな表情を浮かべて、父のモーリスが席を立つ。「原稿の締め切りが近くてね。今日はエスメラルダが帰って来るし、兄上も立ち寄ってくださる。二人が帰る前に、ある程度までは進めておかねば」


 モーリスは自分の本の執筆の他にも、主に王都で読まれている新聞に連載を抱えている。モーリス・エインズワース作のロマンス小説は、王都のご婦人方に大人気らしい。先日は、わざわざ王都から劇作家が訪ねて来て、是非ともあなたの作品を舞台化させてほしいと、熱く口説き落とされていた。


 だが、母のレイチェルは父モーリスの書く小説を読んではいけないと言う。教育に悪いと言うのだ。


 幼い頃、モーリスが取材旅行に出掛けていたときに、エスメラルダと二人で書斎に忍び込んだことがあった。お父様のお仕事の邪魔をしてはなりませんと、きつく立ち入りを禁じられていた部屋だ。レイチェルは村に住むご婦人方を招待してお茶を楽しんでいたので、見つかって叱られる心配はなかった。


 モーリスの書斎には興味深いものがたくさんあった。多くは異国から持ち帰ったものだ。


 若い頃は旅行が趣味で、士官学校を卒業後は国内外を旅して周り、旅行記を書いた。外国の暮らしや文化、宗教観、衣食住の違いなどを事細かに記したその本は売れに売れ、今でも増版を繰り返しているらしい。半島に位置しているこの国は海に囲まれているため、生涯異国の地を踏むことのない者も多い。そういう者たちにとっては、異国を知ることのできる数少ない手段の一つなのだ。


「わあ! ねえ、見て!」鍵をかけ忘れたのだろう、机の引き出しを開けたエスメラルダが、興奮した様子でエステルを手招いた。「お手紙がこーんなにいっぱい!」

「勝手に見たらだめだよ」

「あっ!」エスメラルダがあまりに大きな声を出すので、エステルは気が気ではなかったことを覚えている。「ほら、お母様の名前が書いてある」

「えっ、あ、本当だ……」

「ちょっとだけ読んでみようよ」

「だ、だめだよ」

「なによ、エステルの意気地なし」

「人の手紙を勝手に読むなんて良くないことだよ」

「なんて書いてあったか知りたがったって、教えてあげないんだからね」


 エスメラルダはそう言うと、レイチェルがモーリスに宛てた手紙を引き出しの中から引っ張り出し、真剣に読み始めてしまった。とはいえ、まだ幼い子供には難しい言葉も多く、飛ばし飛ばし読んでいたようだ。エステルは両手で顔を覆い隠し、何も見ないようにしていた。


「まあ、お母様ったら!」その驚きの声を聞いて、エステルは指の隙間から、エスメラルダの方を覗いてしまう。「お父様とはしつこく求婚されたから仕方なく結婚したって言ってたくせに、本当はお母様からお父様に求婚したなんて!」

「えっ?」

「お母様も隅に置けないわねえ」


 エスメラルダはにやにやと笑いながら、読んでいた手紙を封筒に戻すと、それらを引き出しの中に放るようにして戻す。鼻歌を歌い、軽い足取りで書斎を出て行こうとしているエスメラルダの背中をちらちらと見やりながら、エステルは手紙を盗み見たことが知られないよう、封筒を丁寧に仕舞い直し、引き出しをそっと閉めた。


 夫婦仲は悪くないのだと思う。レイチェルはいつも口煩いが、モーリスはそれを疎ましがるふうもなく、はいはい、と穏やかに話を聞いている。頼みごとはなんでも聞いてあげているし、どんなに散財をしても文句一つ言わない。


 エステルは父のモーリスが大好きだ。だからこそ、どうしてこの人が母のような人と結婚をしたのだろうと、ずっと不思議だった。同じ腹から産まれた子供を、どうしてこうも差別することができるのか、エステルには理解することができない。一方はこの上なく持ち上げられ、一方はこれ以上ないくらいに言い落とされる。


 何がいけなかったというのだろう。何をしても否定され、容姿を貶され、そこにいるだけで目障りだとでもいうふうな、侮蔑の眼差しを向けられる。

 それでも、モーリスが側にいるときだけは、その口を閉じているのだ。だがしかし、一度モーリスが姿が見えなくなると、微かにちらつく甘やかな表情を消し、エステルを睨みつけてくる。


「お願いだから、また妙なことをしでかして最高の日を台無しにしないでちょうだいね」

「はい、お母様」

「今日は一日中大忙しよ。そうやってだらだらと食べてなんかいないで、お前もあの子と辺境伯をお迎えする準備を手伝いなさい。それから、あの汚らしい猫を外に摘み出しておいて」

「はい」

「いつも返事ばかりは一人前なんだから」


 レイチェルはそう言うと、形良く尖った鼻をつんと持ち上げ、エステルを訝しげに一瞥してから、モーリスを追いかけるようにして食堂を出て行った。足音が遠退き、すっかり聞こえなくなるのを待って、エステルは大きく息を吐き出す。


 今夜は一晩中エスメラルダの自慢話に付き合わされるという確信があったエステルは、昨夜のうちに二日分の仕事をこなしていたので、今朝は酷く寝不足だった。


 朝夕の食事は家族揃って同じテーブルで──これは家長が定めた決め事だ。


 父のモーリス自身も、執筆に没頭してしまうと寝食を忘れてしまう性質の人間で、以前は三日以上書斎にこもり切りなんていうのはよくあることだった。ろくに食事も取らず、風呂にも入らず、顔すらも見せない自らの夫を、レイチェルが怒鳴りつけたことがあった。


「こうして同じ家に住んでいるのに、夫の顔を三日も見ないなんてことがありますか? 久しぶりに見た夫の顔がやつれているなんてことがありますか? 今みたいな生活をこの先も続けていたら、あなたはいずれ大病を患うでしょう。あなたが臥せってしまったら、わたしたちはどうやって暮らしていけばいいのですか。あなたの稼ぎがなくなってしまったら、家族も使用人も養えなくなるのですよ。もう若くはないのですから、徹夜なんてやめてください。夜になったら眠り、朝になったら起きてください。食事は必ず日に二回、湯浴みは最低でも一日置きになさってください。言い訳は聞きたくありません。あなたはただ分かったと言って頷いてくださればいいのです──」


 エステルは居た堪れなくなってその場を離れたので、この後にどのような会話がされたのかは分からない。だが、この日の夕食の時間、家族全員がテーブルに揃うと、モーリスはどこか照れたような、恥ずかしげな面持ちを浮かべてこう言った。


「明日からはこうやって四人揃って食事を取るようにしよう」


 モーリスは優しい。容姿を貶すことも、人格を否定することもない。レイチェルは女に学は必要ないと言うが、モーリスは違う。知識欲を満たすための手助けを惜しみなくしてくれる。確かに愛されていることを実感させてくれる。


 だから、エステルは毎朝、毎晩、こうして家族と同じ食卓を囲んでいる。父、モーリスのためにだ。そうでなければ、こんな居心地の悪い場所で食事をしようなどとは考えもしない。


 常に疎外感を覚えている。

 真夜中に外を散歩していると、強い孤独を感じる。


 自分は間違った場所に生まれてきたのではないか。もっと別の場所に生まれてくれば、違った人生を歩めたのではないか。ここではない、どこか遠くへ行きたいという渇望が、いつも心の片隅で燻っている感覚がある。


 行こうと思えば、どこへだって行けるはずだ。

 だが、自分のような人間が、外の世界でどうやって生きていけるというのだろう。


 エステルは寝不足の目を擦りながら、シャーロットや他のメイドの手伝いをして、夕方までの時間を過ごした。からっとした良い天気だったので、寝具を洗えたのは幸いだった。辺境伯を湿気たベッドで眠らせるわけにはいかない。昨日のうちに、メイドが馬車を使って隣町まで買い出しに出掛けていたので、食材は豊富に揃っている。


「辺境伯がおいでになるのですから、腕に縒りをかけてお作りしなくてはなりませんね」


 いつにも増して張り切った様子のシャーロットを筆頭に、メイドたちはもりもりと働いた。途中レイチェルがやって来て、料理やお菓子の味見をしたり、掃除の仕上がりにけちをつけたりする以外は、順調に準備が進められていった。


「エステル様」オーブンの前に立って、子羊の焼け具合を見ていたエステルの背中に、シャーロットが声を掛けてくる。「そろそろお嬢様がお帰りになる時間です。辺境伯をお迎えするのですから、お着替えになりませんと」

「あ、うん。そ、そうだね……」


 エステルは随分前に仕立てた、丈が短くなった普段着を見下ろして、思わず苦笑いを浮かべてしまった。次々と衣装を新調するエスメラルダとは違い、ほとんど外出をしないエステルは昨年の服をそのまま着続けている。


「お召替えのお手伝いをいたします」

「あっ、ううん、大丈夫。コルセットを付けるわけではないから、一人で着替えられるよ」


 手持ちの服は暗い色のものが多い。その方が夜の闇に溶け込むことができるからだ。だが、華やかな服を持っていないわけではなかった。伯父が贈ってくれた、薄水色の綺麗なドレスがある。自分には到底似合わないと思っているし、汚してしまうのが恐ろしくて袖を通したこともなかったが、今日を逃したらもう着る機会に恵まれることはないだろう。


 自分の部屋に戻って来たエステルは、うっすらと小麦粉がまとわりついた服を脱ぎ、ふう、と息を吐いた。そして、クローゼットから取り出した薄水色のドレスを、まるで壊れ物を扱うかのように静かに、ベッドの上に置いた。

 鏡台の前で身支度を済ませながら、エステルはふと考える。


 昔は良くレイチェルに連れられ、エスメラルダと揃いのドレスを着て、隣町まで出掛けたものだ。記憶が曖昧なほど幼い頃の話だが、もしかしたら、自らの願望がその記憶を作り出した可能性は否めない。あんなことがあったよね、という話をしたとして、そのような事実はないと否定をされでもしたら、心が壊れてしまうような気がして、確認することもできなかった。


 子供の頃は両親の愛を疑ったことなどなかった。改めて考えるまでもなく、確かに愛されているという自信があった。だがいつからか、親の愛を信じられなくなった。父モーリスから自分に向けられる愛情ですら、同情なのではないかと、そんなふうに疑ってしまうこともあった。


 どうしたらまた以前のように愛してもらえるのだろう。分からない。この確かに愛されていたはずだという感覚そのものも、エステルの思い違いなのかもしれない。


 身支度を終えて部屋を出ようとしたエステルだったが、思い出したように引き返すと、いつも羽織っているマントを手に取った。それで全身を覆い隠し、大きく深呼吸をしてから外に出る。


 伯父から贈られたドレスの何着かはエスメラルダの手に渡ってしまった。


「あんたはどうせ着ないんだから、わたしがもらったって構わないでしょ? その方が伯父様もお喜びになるでしょうし」


 ドレスは着てもらうために存在している。クローゼットの奥の方に仕舞い込まれて、誰にも着られないまま埃だけを積もらせていくドレスは、きっと存在しないのと同じだ。ドレスの存在意義は誰かに着てもらうこと。それならば、エスメラルダに着てもらった方が、ドレスも喜ぶはずだ。


 エステルは厨房に戻ろうとしたが、ドレスが汚れるからとシャーロットに追い出され、仕方なく温室に足を向けた。夜が近づき、しっとりとした冷たい空気を漂わせている外とは違い、温室の中は昼間のように暖かい。


「なあー」


 家を追い出され、温室へと追いやられた猫のハンターが、間の抜けた鳴き声を上げながらのろのろと歩み寄ってきた。寸前まで眠っていたのか、その表情はどこか眠たげだ。すりすりと足元に擦り寄ってくるハンターを抱き上げ、エステルは小さな額に鼻を寄せる。

 おひさまと焦げたバターの匂いがした。


「ごめんね、ハンター。寝る前に迎えに来るから、それまでここで待っていてね」


 三角の鼻がひくりと動く。立派な髭が上下に揺れる。丁寧に繕われた全身の黒い毛並みがぴかぴかに輝いている。顎の下を撫でてやると、琥珀色の目が穏やかに細められ、満足そうにごろごろと喉を鳴らした。


「エステルお嬢様」シャーロットとは別のメイドが、温室の扉を開けて顔を覗かせた。「エスメラルダお嬢様と辺境伯を乗せた馬車が到着します」

「は、はい、分かりました。すぐに行きます」


 エステルはハンターを椅子まで運び、そこに敷いてある毛布の上にそっと下ろした。水はたっぷりと用意してあるので大丈夫だろう。


 フードで顔を隠したくなる衝動をぐっと堪え、エステルは玄関先へと急いだ。そこにはもう既にモーリスとレイチェルの姿がある。夕日に染まる地平線には、こちらに向かって駆けてくる馬車が見えていた。


「辺境伯をお迎えするというのに、なんて格好をしているの?」

「あ、あの、少し肌寒くて……」

「その薄汚れたマントを着たまま食堂に入ることは許しませんよ」

「ご、ごめんなさい」


 エステルは少し離れた場所まで移動し、マントの前面に付いた猫の毛を払った。レイチェルがこれみよがしに咳き込むのを聞き、仕方なくマントを脱ぐ。丁寧に折りたたんで腕に掛けようとしていると、玄関から急ぎ足で出てきたシャーロットに「お預かりします」とやんわり取り上げられてしまった。


「大変お美しくいらっしゃいますよ、エステル様」

「やめてよ」

「ドレスも良くお似合いです。辺境伯もお喜びになるでしょう」


 にこにこと笑いながら、悪気のない口振りで言うシャーロットの言葉に目を白黒とさせ、顔面を蒼白にさせながら、エステルはモーリスとレイチェルの半歩後ろに立った。分厚い前髪を必死になって下ろしているのを、斜め前に立つレイチェルが肩越しに見ているのが分かる。


「いいこと? 今夜の主役はエスメラルダなのだから、お前は余計なことは言わないで、大人しく、行儀良くしているのよ」

「はい、お母様」

「まあまあ、レイチェル」モーリスはどこか苦い表情を浮かべながら、妻の手を取り、自らの腕に導いた。「今夜は娘が一週間ぶりに戻るのだし、今日は兄上もご一緒だ。家族水入らずでゆっくりと食事を楽しもうじゃないか」

「わたしたちの娘の将来が決まるかもしれないというのに、ゆっくり食事を楽しもうだなんて、よくもそんなことが言えますね」

「エスメラルダは儀礼的に公爵家に招かれただけだよ。大勢いるご令嬢の中の一人に過ぎないんだ。万が一にも婚約者に選ばれることはないさ。公爵家に相応しい家柄のご令嬢は何人もいる」

「エスメラルダほど美しい子はいませんわ」

「君はあの子の美貌が全ての問題を解決すると信じているのだろうが、僕はそうは思わないよ」

「あなたは娘の幸せな結婚を願ってはいないのですか?」

「公爵家に嫁げばあの子は苦労することになる」

「あなたは惨めな暮らしを知らないからそんなことが言えるのです」

「僕だって旅行中はひもじい思いをしたものだよ」

「それでも、あなたの頭上にはいつだって、エインズワースの冠が光り輝いているではありませんか」

「レイチェル」

「わたしはあの子には幸せになってもらいたいのです」困ったような顔をしているモーリスを横目に一瞥し、レイチェルは続けた。「来年には成人するのですから」

「婚約も結婚も本人次第だよ。まずはあの子自身の話を聞こうじゃないか」


 レイチェルが自分の娘だと思っているのは、姉のエスメラルダだけなのだということが、この会話だけでもよく分かる。自分のことなど家の使用人程度にしか考えていないのだろうと、エステルは思った。自分はとうに見切りをつけられているのだ。


 二頭の馬が、ぱから、ぱから、と蹄を鳴らしながら、馬車を引いてやって来る。漆で黒塗りにされた馬車は夕陽を浴びてなめらかな光沢を放ち、所々に施された金の細工が、橙色の光を反射してきらきらと輝いていた。御者台の脇ではグリフォンバレー領の旗がはためいている。


 馬はエステルたちの前を少し通り過ぎたところで止まった。御者台から降りてきた男は被っていた帽子を脱ぎ、三人に向かって恭しくお辞儀をしてから、馬車の扉を開けに向かう。


「お父様、お母様!」


 先に姿を現したのは、この辺鄙な村ではまずお目にかかることのない派手なドレスで着飾ったエスメラルダだった。御者の手を借りて馬車から降りてきたエスメラルダは、ドレスに皺が出来るのもお構いなしに、モーリスやレイチェルと強く抱き合っている。


「おかえり、エスメラルダ」

「ただいま、お父様」


 眩しい笑顔に、弾んだ声音。大人っぽく結い上げられた蜂蜜色の髪には、小振りな帽子が斜めに乗せられている。目の前にいるのは、美しいことだけが取り柄の村娘ではなく、酷く洗練された都会の娘さんだった。


「ああ、エスメラルダ。なんて美しいの。素敵だわ」


 普段と変わらない様子で迎えたモーリスとは違い、レイチェルは頬を赤らめ、うっとりとした面持ちで自らの娘を見やる。満更でもなさそうにその眼差しを受け止めたエスメラルダは、ふふふ、と肩を震わせて笑った。


「このドレスは、公爵閣下が公爵家お抱えの仕立て屋に命じて、特別に急ぎで仕立てさせたものなの。見て、この帽子とアクセサリーは、イライアス様がわたしのために選んでくださったものよ」エスメラルダは両親の前でくるりと回ってみせる。「良く似合っているでしょう?」

「ええ、ええ、もちろん。まるで王女様のようよ」

「まあ、お母様ったら」


 もしこれが自分とは無関係な、隣近所の家族の話だったのなら、なんて微笑ましい光景なのだろうと、穏やかな気持ちで見ていられただろう。だが、この仲睦まじい三人は自分の肉親で、一つ屋根の下に暮らす家族だ。


 酷い疎外感を覚えながらその様子を眺めていると、不意にエスメラルダの目がこちらに向けられた。エスメラルダはにっこりと機嫌良く笑ったかと思えば、レイチェルの拘束を解いてエステルの元へとやって来る。


「ただいま、エステル」


 エスメラルダはエステルの体を強く抱き締めた。咲き始めのバラの甘い香りがした。


「おかえりなさい、エスメラルダ」

「閣下がご家族にってお土産をたくさん持たせてくださったの。下ろすのを手伝ってくれる?」

「いや、それには及ばない」穏やかで落ち着きのある声が、朗らかに言う。「荷は私が運ぼう」

「いけません、旦那様」大きな旅行鞄と大小様々な箱を抱えて馬車を降りてきた男から、御者が大急ぎで荷物を取り上げている。「荷物は俺がお屋敷に運び入れておきます」

「では、私が馬を──」

「結構です」

「しかし」

「今はご家族との団欒をお楽しみください」


 エステルの後ろに控えていたシャーロットが前へと進み出て、御者を手伝い、馬車から荷物を下ろし始めた。その様子を見ている男──グリフォンバレー辺境伯、ハロルド・エインズワースは困ったように頭を掻きながら、苦笑いを浮かべている。


「兄さん」モーリスが親しげにそう声を掛けると、ハロルドはそちらを振り返った。「長旅でお疲れでしょう。今夜は我が家でごゆるりとなさってください」

「ありがとう、モーリス。お言葉に甘えさせてもらうよ」

「エスメラルダが一緒では道中休まらなかったのでは?」

「ちょっとお父様、それはどういう意味なの?」

「お前はレイチェルに似て、一度話し出すと自分が納得するまで口を閉じようとしないからね」

「まあ! お父様は今、この家の二人の女を一気に敵に回したわ!」

「言葉の選択を誤ったな、我が弟よ」ハロルドは、くくく、と喉を震わせるようにして笑った。「売れっ子作家が聞いて呆れるじゃないか」


 胸の辺りが締め付けられるような疎外感を覚えたまま、エステルはこの場を離れたくて仕方がなくなる。誰の声も届かない、目に触れることもない、静かな場所へ行きたいと思った。


 エステルは目を伏せ、手元に視線を落とした。植物の世話ばかりをしている手は、爪と指先が黒っぽく染まってしまっている。爪の隙間に挟まって取れない土汚れを見つけてしまい、両手を慌てて後ろ手に隠したとき、視界の中に良く履き込まれたブーツが映り込んだ。


「やあ、エステル」エステルがゆっくりと顔を上げると、そこには優しく微笑んだハロルドの姿があった。「久しぶりだね」

「はい。お久しぶりです、伯父様」

「元気にしていたかい?」

「はい」もっと気の利いたことを言えないのかと、エステルは内心で自らを叱咤する。「伯父様もお変わりありませんか?」

「ああ、変わらず元気にしていたよ」


 ハロルドは大きくごつごつとした手をエステルの肩に乗せる。固く、重みのある手だ。ハロルドは辺境伯として、この手で王国の国境地帯を護り続けている。この国を支えるために、剣で戦い、盾で護る、偉大な手だ。


「さあ、ハロルド様。どうぞ中へお入りください」

「伯父様、早く行きましょうよ」


 エステルとハロルドが話すのを嫌うように、レイチェルが声を掛ける。エスメラルダが甘えるような仕草でハロルドの腕を引く。


 この家は、モーリスの作家としての稼ぎの他に、ハロルドの支援を受けて生活を成り立たせていた。使用人もそうだ。シャーロットと他数人のメイドは、元々はハロルドの屋敷で働いていたのを、こちらに何人か回してもらっていた。その賃金だって伯父が払っている。その上、もしもエスメラルダが公爵家に嫁ぐようなことがあれば、この家は莫大な支援を受けることになり、将来も安泰だ──というのが、母レイチェルの考えらしい。


 正直な話、どうして伯父のハロルドがこの家にここまでのことをしてくれるのか、エステルには理解できない部分が大きかった。


 もちろん、二人の兄弟仲が良いことは知っている。もしかしたらハロルドは、貴族から平民に成り下がり、生活水準を下げて生きていかなければならない弟一家を憐んでいるのかもしれない。少しでも良い暮らしをさせてやりたいという、そういう優しい気持ちで援助を買って出てくれているのかもしれない。


 前に、なぜこんなにも良くしてくれるのかと訊ねたとき、ハロルドは「私がそうしたいからだよ」と答えた。「私には妻がいない。この先の人生で誰かを娶るつもりも、今のところはないんだ。辺境伯に課せられている使命は、この命を賭して王国の国境を守護すること。それ以上でも以下でもない。故に、私はいつ死ぬかも分からない。もし私が死ねば、陛下は次の辺境伯を派遣するだけだ。私の命はいくらでも代替が利く。その程度の価値しかない。だからこそ私は、君や──君の家族に、私という存在を深く心に刻み込み、いつまでも覚えていてもらいたいと思う」


 エステルが生まれるずっと前、この国では流行病で大勢の人が命を落とした。感染源は国境地域だと言われている。当時の辺境伯──エステルの祖父に当たる人物は、流行病の感染を食い止めるために献身的に働いた。だが、領民のために城を解放し、手ずから看病をして回った祖母は自らも流行病を患い、祖父も同じ病に感染して、共に帰らぬ人となってしまった。二人の息子が無事だったのは、兄は王都で宮仕えを、弟は士官学校の寄宿舎で暮らしていたからだった。


 その後、ハロルドは王命により父親の跡を継いでグリフォンバレーの辺境伯となり、モーリスは士官学校を卒業後、平民となって家族を持った。


 ハロルドにとってはモーリスが唯一残された家族だ。エインズワースの家名を名乗ることが許された人間はもう、自分と弟一家しかいない。自分の身に何かが起こったとき、王の命令さえあれば、次の辺境伯には弟のモーリスが任命される可能性だって皆無ではない。平民に成り下がったとはいえ、元々は由緒あるエインズワース家の次男として生まれ育ったのだ。兄にもしものことがあれば、弟が家督を継ぐ。幸か不幸か、モーリスは士官学校を好成績で卒業していると聞く。


 このように、伯父のハロルドが自分たちに良くしてくれる理由は多々あるのだろうと、エステルは考えていた。


 ハロルドのことは大好きだ。だがしかし、この人の頭の中は、ちっとも推し量ることができない。腹の底では何を考えているのかが分からない。まるで朝霧のモヤの中にいるみたいに、常に輪郭がぼやけている。


「エステル」エスメラルダに腕を引かれたハロルドが、ぼんやりと物思いに耽っているエステルの耳元で、囁くようにして名前を呼んだ。「後で話そう」


 伯父は父と同じように、誰に対しても平等に優しい。母や姉、メイドのレイチェル、きっと道端ですれ違っただけの誰かにも、同じように。


 この世界で、誰か一人だけでも、自分だけのことを特別に愛してくれる人がいたらいいのにと、エステルは思う。真実の愛なんてものが本当にあるのかどうかは分からない。両親が真実の愛を貫いた先で結ばれたのかも定かではない。


 こんな自分を愛してくれる人が現れるとは到底思えないが──。


 あらゆる音が遠くなる。後ろを振り返ると、そこにはもう誰の姿もなかった。


「おや、お嬢様」先程から馬車と屋敷を行き来していた御者が声を掛けてくる。「夜風が冷えてきましたよ。そのようなところに立ち尽くされていてはお風邪を召されます」


 ハロルドはこの屋敷に何度も足を運んでいるが、その度にいつも同じ御者を連れていた。白髪頭の、初老の男だった。だが、この御者は初めて見る。がっしりとした体付きの、いかにも武人といった風体の男だ。

 馬車をゆさゆさと揺らしながら乗り込み、荷物を抱えてこちらを振り返った男は、未だそこに立ち尽くしているエステルを見ると、不思議そうに小首を傾げた。


「どうなさいました?」

「あ、あの」うまく言葉が出ないエステルを急かすでもなく、御者は穏やかな面持ちをこちらに向けている。「い、い以前の、ぎょ、御者の方は……」

「ああ、ウィル爺さんのことですか?」こくこくと頷くエステルを見て、御者はにっかりと笑った。「爺さんなら元気にしています。ただ今回は、ここから強行軍で王都に向かう予定があるので、俺が御者兼護衛を仰せつかったというわけです」

「そ、そう、ですか」

「ウィル爺さんに何か?」

「あっ、い、いえ、何も」エステルは首を横に振ると、馬車に歩み寄って両手を差し出した。「お、お手伝い、し、します」

「えっ?」


 御者はエステルの申し出に驚いて目を丸くし、軽くすっとんきょうな声を上げた。そして、しばらくの間分厚い前髪で隠された顔を見つめていたが、ふっとどこか意味深に笑う。


「では、これを」御者は馬車の座席に置かれていた包みの一つを取り、それをエステルに持たせてくれた。「それは旦那様がグリフォンバレーから後生大事に抱えてきた荷物なので、十分に気をつけてお持ちくださいね」

「えっ、は、はいっ」


 その荷物は長方形で、ずっしりと重い。エステルはそれを両手の平の上に乗せて、胸の前に掲げるようにして持った。御者はその様子を微笑ましそうに見ながら、エステルの細腕では抱えきれないほどの荷物を持って馬車から下りてくる。


「う、厩に、馬のお水、を、たっぷり用意してお、おきました」緊張で喉が渇くので、エステルはごくりと唾を飲み込んでから、その先を続けた。「あと、新しい、ほし、干し草も」

「えっ、お嬢様が用意してくださったんですか?」

「ココとペリ、ですよね。ウィルお爺さんが、お、教えてくれました」

「ありがとうございます、お嬢様」御者は屈託のない笑顔を浮かべて言った。「あいつらも喜びます」


 こちらの話を聞いていたのか、ヒヒン、と嘶くココの声と同時に、二頭の馬が優しい手に撫でられている映像が脳裏に送り込まれてきた。ココとペリはこの御者のことが大好きなのだろう。甘えるように鼻筋を擦り寄せている。


 二頭が教えてくれる様子に思わず口元を綻ばせていると、それに目を留めた御者が、エステルの顔を覗き込もうとしてくるのが分かった。エステルが慌てて顔を逸せば、御者は僅かにはっとした様子を窺わせてから、すぐに佇まいを正す。


「大変失礼いたしました、お嬢様」

「い、いえ、こちらこそ……す、すみません……」


 このままではいけないことは分かっている。この先の人生、誰とも関わらずに生きていくことなど不可能だということも。少しずつでも慣らしていかなければと思い、こうして挑戦してみても、相手の目を見て話すこともままならない。


 伯父の話とは一体何なのだろうと、そんなことを考えながら、エステルは家の中に戻る。玄関を入った先には大量の荷物が積み上げられていたが、その多くがドレスや靴、帽子なのが見て取れた。公爵閣下から贈られたものも少なくはないのだろうが、多くは帰りの道中で伯父に強請って買ってもらったものに違いない。


 御者は抱えていた荷物をそっと床に下ろすと、エステルに向かって恭しくお辞儀をしてから、再び外へと出ていった。エステルは僅かに膝を折ってそれに応え、自らが抱えていた包みを円柱の箱の上に乗せて、ブーツの土を払ってから応接室に足を向ける。


 応接室からは、楽しそうな話し声や笑い声が、廊下まで漏れ聞こえていた。


 エスメラルダは本当に幸せそうに笑う。実際、彼女は今、この世界で一番の幸せを感じているところなのかもしれない。


 エステルとエスメラルダはいつだって鏡合わせだ。だが、エスメラルダが幸せなとき、自分を不幸せだとは、エステルは思いたくなかった。それでも、エスメラルダの隣にいる限り、エステルは哀れなほどに比較され、同情され、異質なものを見るような目を向けられる。


 ああ、ここではないどこかへ行きたい。

 でも、どうやって?


 自分と他人を隔てるように、分厚いマントで体を覆い隠し続けたままでは、どこへ行っても同じような目を向けられることだろう。奇人、変人と、後ろ指を指されるに違いない。


 決して高望みをするわけではない。エスメラルダのような蜂蜜色の髪も、翠玉のような双眸も、誰もが羨む美貌もいらない。上等なドレスも、踵の高い靴も、飾り立てられた帽子もいらない。素肌を飾る宝飾なんて欲しくもない。


 ただほんの少し。

 たった一握りの、勇気が欲しい。

 もうずっと、そんなことばかりを考えている。

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マナ憑きのエステル 〜拝啓 次期公爵閣下、この手紙は姉に脅されて妹が代筆しています〜 一色一葉 @shiki-666

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