第2話 流星群の降る夜に、世界が終わる夢を見る

 エルフィンストーン領では、王都と同様、男女共に十八歳で成人を迎える。エルフィンストーン公爵家の嫡男はこの春に成人の儀を終え、正式に公爵家の紋章を受け継いだばかりだった。未だ学生の時分ではあるものの、父親の公爵閣下はなぜか息子の婚姻を急いでいる。早ければこの夏の休暇中に婚約者を決める所存のようだ。


 姉のエスメラルダ・エインズワースが公爵家の花嫁候補として屋敷に招かれてから、今日で六日が経つ。予定では明日帰ってくるはずだ。エステルは、まるで嵐の前の静けさのようだと思いながら、穏やかな気持ちで、庭にある温室の植物の手入れをしていた。


 届けられた招待状は一通だけ。公爵家に招かれたのは姉のエスメラルダだけだ。

 だが、本来であればそれ自体も異例のことだった。


 我がエインズワース家は貴族ではない。厳密に言えば貴族の家系ではあるのだが、家長のモーリスは本家の次男として生まれ、元より家督を継ぐ立場にはなかった。親との約束で士官学校は卒業したものの、やはり国仕えは性に合わないと、かねてよりの夢だった作家を目指して家を出た。その際、貴族としての地位を捨て、今は平民として生きている。


 だが、エインズワース本家は由緒ある家柄だ。伯父のグリフォンバレー辺境伯は、国王より王国の辺境の地を任されている。曽祖父の時代から続いていた隣国との領土争いを治めたのは祖父だが、平定に至らしめたのは伯父のハロルド・エインズワースだ。

 故に、エインズワース家は国王からの信頼が厚く、領民からも慕われている。その弟一家である我がエインズワース家は、家長が有名な作家であることも理由の一つではあるのだろうが、主には辺境伯の威光を賜り、平民でありながらも、貴族と変わらない待遇を受けることがあった。

 今回、平民であるはずのエスメラルダに公爵家からの招待状が届けられたのも、ひとえに辺境伯の姪だったからに他ならない。それに加えて、エスメラルダ・エインズワースは、このエルフィンストーン領一の美女と謳われている。


 ほんの一年ほど前のことだ。この地を訪れた著名な吟遊詩人が、エスメラルダのあまりの美しさに心を奪われ、一曲の歌を残したことが事の発端だった。その吟遊詩人は、エスメラルダの美貌を讃え、エルフィンストーンの妖精と称し、亡き王妃陛下に勝るとも劣らない美しさだと誉めそやした。


 吟遊詩人の歌は瞬く間に王国中に知れ渡った。実際、エスメラルダの美貌が本物なのかどうか、その真価を問うために、大勢の人々がこの辺鄙な村に押し掛けてきた。


 エスメラルダの美しさは本物だ。

 誰の目から見ても同じように、エスメラルダは美しい。


 その証拠に、何人もの人がエスメラルダに求婚した。エスメラルダも満更ではなさそうだったが、そのような話は自分にはまだ早いと言って、酷くしおらしく断ってみせていた。


 不器量な自分とは違う──エステルは温室のガラスに映る自分の姿を横目に見るが、すぐに視線を逸らした。肉付きの悪い体を隠すマントの胸元を掻き寄せ、フードを更に目深に被る。


 自分たちは双子の姉妹なのに、どうしてこうも違うのだろう。容姿も、性格も、何もかも。


 物心が付く前から、母のレイチェルはエスメラルダばかりを可愛がっていた。エステルの器量がどれほど悪いかをこんこんと説いた。ことあるごとに二人の娘を比較し、エステルばかりを蔑んだ。


「お前はきっと嫁の貰い手がないでしょうね。でも、成人後まで養ってやるつもりはないよ。十八歳になったらこの家を出て行きなさい。日頃からメイドの真似事をしているお前なら、婢女くらいにはなれるでしょうから」


 昔は、姉妹仲が良かった。昼間は一緒に外を駆け回り、夕方になると一緒にお風呂に入って、夜は一緒のベッドで眠った。あの頃は本当に毎日が楽しくて、幸せだった。

 だがある日、二人の間で何かが壊れてしまった。


「エステルの髪っておばあちゃんの髪の毛みたい」エスメラルダはそう言うと、驚いた顔をしているエステルを見て、からからと声を上げて笑った。「目だって雪兎の目みたいだし」


 エスメラルダの髪は小麦のような黄金色だ。金糸のような光沢がある。目は翠玉のように深い緑色で、吟遊詩人はどんな宝石よりも美しいと歌った。


 エスメラルダの言う通り、エステルの髪は老婆のような鈍い白色だった。眉毛や睫毛も同じ色をしている。目は雪兎のように赤い。薔薇色に染まるエスメラルダの頬とは違い、不気味なほど青白い肌をしていた。


 双子の姉妹なのに、何もかもが違う。まるで正反対だ。

 どうしてこんなふうになってしまったのだろう。

 器量良しの姉と、不器量な妹。


 自分に自信を持てなくなったエステルは家に閉じ篭もるようになった。退屈せずに済んだのは父モーリスのおかげだ。家には立派な図書室がある。小説や伝記、歴史書のような読み物以外にも、モーリスが本を書くために取り寄せた専門書などが、何百冊とあった。

 モーリスは、図書室の本を好きに読んで構わないと言ってくれた。それどころか、欲しい本があると言えば、王都からでも取り寄せてくれた。エスメラルダが欲しいとせがむドレスや宝飾品よりもずっと高価なものでも、惜しまず買い与えてくれた。


 女は器量と気立てが良ければそれでいいのだとレイチェルは言う。学は必要ない。将来は裕福な相手と結婚をして、何不自由なく暮らすことが女の幸せなのだと。


 だが、器量の悪い自分は、そういう人並みの幸せを享受することはできないのだろうと、エステルは考えていた。だから、この先の人生を一人でも生きていけるように、成人するまでの間に手に職をつけることが当面の目標だった。


 掃除、洗濯、料理は、メイドのシャーロットに頼み込んで、一通り仕込んでもらった。どこかの貴族の住み込みの下働きとして雇ってもらえれば、路頭に迷う心配はない。しかし、それは最悪の場合だ。極度の人見知りで、出来ることなら人との関わりを避けて生きたいエステルにしてみれば、他人と一つ屋根の下で暮らすなど到底無理な話なのだ。


「見てください、エステル様」ある春の日、庭の花壇で見事に咲き誇る花々を前にして、シャーロットが嬉しそうに言っていた。「エステル様が花壇の手入れを手伝ってくださったおかげで、こんなに綺麗なお花が咲きました。エステル様は植物を育てることがお得意でいらっしゃるのかもしれませんね」


 自分でも自分のことを御しやすい人間だとエステルは思う。だが、そう言って褒めてくれたシャーロットの言葉が嬉しくて、エステルは植物の栽培に興味を持つようになった。花の次は野菜、野菜の次は薬草と、徐々に育てる種類を増やしていった。


 十五歳の誕生日には、庭に小さな温室を建ててもらった。そこでは、遠くから取り寄せた植物や、行商人から買い付けた異国の珍しい植物も育てている。本当なら、蜂を飼って花の受粉を手伝ってもらいたかったが、レイチェルとエスメラルダが虫を嫌っているので、エステルが付きっきりで面倒を見る他なかった。


 それでも、植物の世話は楽しかった。心身に癒しをもたらしてくれる上に、充実感と達成感を与えてくれる。手を掛けた分だけ応えてくれる。たとえ醜悪な見た目をしていたとしても、素晴らしく役立つ効能をもたらしてくれる植物だってある。花や実や種だけでなく、葉や茎や根にも使い道がある。毒性のある植物も、用法や用量を守れば良薬になり得るのだ。無駄なところなど一つもない。知れば知るほど、植物は奥深く、興味深いと感じた。


 植物の世話や収穫、調薬に没頭している間は、多くのことを忘れられた。それが救いだった。


 モーリスの図書室にあった植物の図鑑では到底物足りず、薬草や薬学の専門書を取り寄せてもらっては朝から晩まで読み耽り、薬の試作を重ねた。薬の効果を確認するために自分を傷つけることもあったが、大抵は怪我や病気をした動物を連れ帰っては治療してやり、薬の効果を確かめていた。立証の難しい薬は王都にある魔法薬学研究所に送り、検証をお願いすることもあった。


 家に引きこもっていると、時間だけはたっぷりとある。だが、成人までは残り一年半ほどしかない。幸いなことに、魔法薬学研究所の所長から一緒に働かないかと勧誘されているが、極度の人見知りであるエステルにはやはり、赤の他人と円滑な関係を築けるとは思えない。どこか適当な土地に小屋でも借りて、そこで細々と薬を売りながら生計を立てるのが関の山だろう。


「さて、と」しゃがんでいた腰を上げ、ぐっと体を伸ばす。「ちょっとだけ休憩しようかな」


 温室の中は暖かいが、外はまだ少し肌寒いくらいだ。

 ウェイルウォード王国の夏は短い。春が来たかと思えば、あっという間に夏が過ぎ去り、束の間の秋を迎え、暗く長い冬に至る。

 このエルフィンストーン領の夏はさほど暑くならず、冬も氷点下まで気温が下がることは少ないが、月の半分は雨が降ってじめじめとしていた。からっと晴れる日は貴重だ。曇天ばかりで日照時間が短く、雨の多いこの地方で植物を育てるためには、完璧に環境が整えられた温室が必要不可欠だった。


 温室はエステルの寝室よりも少し狭いくらいの広さで、奥まっていくほどに温かくなる設計になっている。それというのも、温室の一番奥には小さな暖炉が設置されており、そこで魔法の炎が燃え続けているからだ。太陽が出てくれれば問題はないのだが、エルフィンストーンの日照時間では、温室の温度はさほど高くまでは上がらない。だから、冬の間と今日のように気温が低い日には、魔法の火の力を借りて温室の温度を上げていた。


 温室の中程に設けた休憩場所には、丸テーブルが一つと、椅子が二脚ある。この温室に好んで足を踏み入れる者はそう多くない。大抵はエステルがお茶を飲んだり、本を読んだり、勉強をしたりして、一人の時間を過ごしている。簡単な薬ならここで調薬することもあるが、基本的には真夜中の厨房でこっそり行うことが多い。


 エステルは、温室の一角で育てている香草の中からメリッサを摘み取ると、井戸から汲み取ってきた水で琺瑯の器を満たし、その中で産毛の生えた葉を優しく撫でた。水気を払った葉をガラスのポットに入れ、暖炉の火を使って沸かしておいた熱湯を注ぎ、蓋を閉めて置いておく。


「ん?」


 お茶請けのドライフルーツを小皿に取り分けていると、コツン、と何か軽いものがガラスにぶつかる音が聞こえてきた。エステルが顔を上げれば、ガラスの向こう側に、木の枝に止まっている一羽の鳥の姿が見えた。コマドリだ。ヒン、カラカラカラ、という大きな鳴き声を上げて、自分がやってきたことを知らせている。


「こんにちは、コマドリさん」エステルが温室のドアを開けてやると、すいー、とコマドリが中に入ってきた。「今日は霧が濃いね」


 エステルがそう言うと、テーブルの上に降り立ったコマドリは、返事をするようにヒチチチチと鳴く。地面に平皿を置いてそこに水を入れてやれば、コマドリはそれで喉を潤してから、体を清めるように水浴びをした。翼をパタパタと震わせ、お尻をふるふると振り、テーブルの上に飛び上がってくる。


「うん、綺麗になったよ。かっこいい」


 このコマドリは以前、エインズワース家の狩の名手、猫のハンターに襲われてしまい、翼を負傷してしまったことがあった。発見があと少し遅ければ、羽根を毟られ、食べられてしまっていただろう。エステルはすぐにコマドリを猫の懐から救い出し、手当てをして、飛び立てるようになるまで面倒を見てやった。すると、そのコマドリは頻繁にエステルを訪ねてくるようになり、今や立派な茶飲み仲間だ。


「何か変わったことはあった?」


 コマドリは、ヒチチ、と可愛らしく地鳴きをする。黒くてまんまるの目でエステルを見上げ、翼をぱたぱたと羽ばたかせた。


「そう、良かった」


 エステルには動物たちの考えていることが分かるのだ。言葉を用いて会話が出来るわけではない。ただ、動物たちが思い描く心象風景や、喜怒哀楽の感情などを感じ取ることが出来る。動物たちにもそれが分かるのか、何か困ったことがあると、度々助けを求めにやって来た。


 子供の頃は誰もがそうなのだと思っていた。言葉は交わせずとも、気持ちを通じ合わせることは出来るのだと。だが、実際は違うのだということを知ったのは、拾ってきたばかりのハンターと話をしているエステルを見て、エスメラルダが「気味が悪い」と言い放ったときだった。


「この子、鳥に襲われて怖い思いをしたんだよ」

「なんでそんなことが分かるのよ」

「私にそのときのことを見せてくれたから」

「なにそれ、意味分かんない」

「……エスメラルダには、分からないの?」

「本の読みすぎじゃない? それってあんたの妄想でしょ? ああ、気味が悪い。わたしも同じだって思われたら迷惑だから、よその人の前ではそんな話しないでよね」


 このことは姉以外の誰にも話したことがない。これ以上白い目で見られたら耐えられない。だから、口を噤んだままでいる。


「あ、本当に?」頭の中に送られてきた映像を見て、エステルは答える。「分かった、ありがとう。あとで郵便箱まで取りに行くね」


 湖の畔にある郵便箱は、エステルと社会を繋ぐ唯一の窓口だった。社会との接点を持つために、二年程前にあの郵便箱を設置した。


 人と関わり合いになることは恐ろしい。だが、エステルは寂しかった。今は父のモーリスがいてくれるが、いずれはこの家を出ていくことになる。この先の人生を、自分はたった一人で生きていかなければならない。そう思うと、途端に叫び出したくなるような恐ろしさに見舞われて、居ても立ってもいられなくなる。


 ある日の夜、メイドのシャーロットが厨房に置いてある薬箱の中を、酷く慌てた様子でひっくり返していた。青ざめた顔をしているシャーロットを見て、ただごとではないと感じたエステルは、分厚い前髪のカーテンで必死に顔を隠しながら、そっと声を掛けてみた。


「ど、どうしたの?」

「ああ、エステル様」テーブルの上の薬瓶が次々と床に落ちる。その中の幾つかが割れて、薬がよく掃除された厨房の床に散らばった。「すみません、ああ、すみません。どうしましょう」

「だ、だ、大丈夫、だよ。そ、それより、どうしたの? お薬が、ひ、必要なの?」

「は、はい。あの、友人のところの子供が不注意で熱湯を浴びてしまって、それで、酷い火傷を負ってしまったんです。隣町までお医者様を呼びに行ってもらってはいるのですが、痛い痛いと泣き叫んでいて──」


 このときのシャーロットは、まるで我がことのように動揺し、狼狽えていた。手も声も大きく震えていた。エステルには、その友人や子供が、どこの誰なのかも分からない。だが、いつだってにこにこと機嫌良く仕事をしているシャーロットが、こんなにも狼狽えているのだから、その親子が大切な人たちなのだろうということだけは分かった。


「わ、分かった。ちょ、ちょっと待って、て」


 エステルは以前、薬を煮詰めている最中に、誤って中等度程度の火傷を負ってしまったことがあった。ただでさえ真夜中の厨房を勝手に使っているのに、怪我をしたことが知られてしまったら、薬の調合を禁じられてしまう──そう考えたエステルは、自分の手で薬を煎じて、火傷の傷を治したのだ。そのときの薬がまだ残っていたので、大急ぎで部屋まで取りに戻ると、それをシャーロットに手渡した。


「エステル様、これは……?」

「わ、私が煎じた、お、お薬なんだ」エステルがそう言うと、シャーロットは驚いた様子で目を丸くしていた。「あのね、ちゃんと効き目は、ある、あるよ。こ、ここ、ほら。ま、前に火傷をしたとき、自分で試したから、ちゃんと効くよ。す、すぐに、よ、よ、良くなるよ」


 こうやって使うのだと示すために、エステルはシャーロットの手の中にあるブリキの缶の蓋を開け、その中の白濁とした軟膏を指先に取った。


「つ、強いお薬だ、だから、あの、薄付きでね。目とか口にはい、入れないようにね。い、痛みはすぐに引く、引くと思うけど、み、三日くらい、塗り続けて。あ、あと、わ、私が煎じたってことは、だ、誰にも言わないで。な、内緒にして」


 藁にもすがる思いだったのだろう。シャーロットはエステルの体を強く抱きしめると、三度感謝の言葉を口にしてから、厨房を出たところにある裏口から家を飛び出していった。エステルは床に散乱した薬瓶の後片付けをしてから、一杯の水を飲み、部屋に戻ったことを覚えている。


 その次の日の早朝、エステルが庭に出て花壇の手入れをしていると、シャーロットがやって来てすぐ隣に腰を落とした。


「エステル様、昨夜はありがとうございました」こそこそと内緒話をするように、シャーロットは言った。「あの後、頂いたお薬を塗ったら痛みが引いたようで、泣き疲れたのかすぐに眠ってしまいました。午前の仕事を終えたら、食材の買い物がてらまた様子を見て参りますが、今日中にはお医者様がいらっしゃるはずなので、もう心配はいらないと思います」

「そう」あの頃はまだシャーロットの顔を直視することができず、エステルは手元の花に視線を落としたまま、そう答えることしか出来なかった。「よ、良かった、ね」


 何かお礼をしたいという言葉を額面通りに受け取ってしまったエステルは、このとき初めて、シャーロットに一通りの家事を教えてほしいと頼んだ。シャーロットは最初、酷く驚いた顔をしていたが、すぐににっこり笑って「そんなことでしたらお安いご用です」と言い、快く引き受けてくれた。


 シャーロットがメイドとしてエインズワース家にやって来てから、エステルの生活は大きく変わった。気まぐれで手伝った花壇の仕事が、薬学への興味に繋がった。自分のために煎じた薬でも、自分以外の人のために役立てることができるのだと知った。誰かに感謝される喜びと、その心地良さに、すっかり魅了されてしまったのだ。


「あのね、シャーロット」

「はい、エステル様」


 エステルはシャーロットにだけ、湖の畔の郵便箱のことを打ち明けた。

 誰かの役に立ちたい。火傷の子供を助けたように、人助けをしたい。だが、設置してから一ヶ月も経つのに、手紙が一通も届かない。


「あの辺りは釣り好きの方々が足を運ぶくらいで、さほど人の往来があるわけではありませんからね」困り顔のエステルを見て、シャーロットはいつものように明るく笑うと、自らの胸をとんと叩いた。「分かりました。では、このシャーロットにお任せください。エステル様のために諸肌を脱ごうではありませんか」


 シャーロットはその日から、噂好きな村人を見かけると、ここだけの話だというふうな雰囲気を漂わせながら、湖の畔に立っている郵便箱の話を語って聞かせてくれた。もちろん、その郵便箱を設置した当人がエステルだという事実は避けて。


「まずはみなさんに認知していただきましょう」


 知られていないということは、存在していないことと同じだと、シャーロットは言った。その言葉に胸がちくりと傷んだことを、エステルは覚えている。


 エスメラルダはこんな不安を感じたことなどないのだろう。エスメラルダの影にすらなれない自分のような存在が、この村の人々に認知されているかどうかも疑わしい。もしかしたら、エステルのことなどすっかり忘れ去られ、最初から存在などしていなかったかのように、話題に上ることもないのかもしれない。そうでなくとも、もう何年も家の中に閉じこもり、外に出ようともしない娘のことなど、気にかけている者がいるとは到底思えなかった。


 だが、シャーロットが郵便箱の存在を周知してくれたおかげで、エステルは以前の自分よりも今の自分を好きになることが出来た。湖の畔の郵便箱に手紙が届き、問題を解決し、誰かの役に立てたとき、自分もまだ捨てたものではないのかもしれないと、エステルはそんなふうに思う。


 椅子に腰を下ろし、メリッサのお茶をカップに注ぎ入れながら、エステルは考えていた。


 もしこの村の誰もが自分という存在を認識していなくても、別に困ることは一つもない。極力人と関わり合いたくない自分にとっては、むしろ好都合なくらいだ。ただ少し、寂しいというだけのことで。


「これからも人知れず誰かの役に立つ生き方をしていきたいんだ」もったりとした蜂蜜をカップに垂らしながら、エステルは言う。「そのためには、もっとたくさんお勉強をしないと」


 ヒチチチと鳴いたコマドリは、意味が分からないというふうに僅かに首を傾げ、小さな翼を羽ばたかせてテーブルから飛び上がった。そのまま地面に降り立ったかと思うと、嘴で土を突き始める。


「あまりミミズを食べないであげてね。彼らはここの土を耕してくれているのだから」


 ケチケチすんな、とでも言わんばかりに、コマドリは大きな声で鳴く。砂浴びでもするかのように、色鮮やかな夕陽色の頭をやわらかい土の中に突っ込んでいる小さな友達の姿を見て、エステルはふふと笑った。


 明日、エスメラルダが帰ってくる。エルフィンストーン公爵家までは伯父のハロルドが迎えに行って、ここまで送り届けてくれるそうだ。伯父に会うのは半年ぶりだろうか。頻繁に手紙のやり取りをしているし、よく贈り物をくれるので、あまり久しぶりという気はしない。


 エスメラルダはきっと、馬車を一歩降りたその瞬間から、よく回るその口で自慢話を始めるのだろう。翠玉色の目をキラキラと輝かせ、美しい顔を薔薇色に染めて、エステルが小説の中でしか読んだことのないような夢物語を語って聞かせるのだ。

 エスメラルダは話し上手だ。口を挟まず、聞かれたことだけに答えるようにして、あとは大人しく耳を傾けていよう。そうすれば、機嫌を損ねることもない。それに、伯父のハロルドがいれば、母と姉は借りてきた猫のようになることを、エステルは熟知している。


 伯父のハロルドは、父と同じように優しく、気安いが、どこか得体の知れないところがある人だ。嘘は吐かないが、本当のことは言わない人という印象が、エステルにはある。だが、エステルはそんな伯父のことが大好きだし、心の底から慕っていた。


 真夜中になると、エステルはいつものように裏口からこっそりと家を抜け出して、外で待っていたコマドリと一緒に、湖の畔へと向かった。

 今夜は満月だ。風もなく、湖の水面は鏡面のように凪いでいる。

 空は珍しく晴れ渡っていて、満点の星々が頭上一面に広がっていた。

 湖の畔まで辿り着いたエステルは、苔や地衣、粘菌の温床となって生している郵便箱に手を掛けたまま、目の前に広がる美しい景色に見惚れていた。こんなにも好条件が整ったことは、ここ数年なかったはずだ。水面付近では、一足早く生まれた光虫が、水面に映り込む星々を仲間と間違えて、求愛のダンスを踊っている。


「あ、見て、コマドリさん」エステルは天上を指差す。「ほら、流れ星が──」


 流れ星が、次々と、次々と、自らの順番も待たずに、次々と流れ落ちていく。エステルは思わず口を噤み、天上に向けて掲げていた手を下ろした。


 なんて美しい光景なのだろうか──そう思うと同時に、酷く恐ろしい気持ちになる。この目に見えている無数の星々がすべて落ち、あの空が崩れ落ちてくるのではないかと、そんな恐怖に襲われる。このまま世界が崩壊してしまうのではないか、そんな気持ちに苛まれてしまう。


 だが、こんなふうに美しい最期なら、それはそれで構わないような気もすると、エステルは思う。ひっそりとして、荘厳で。青々とした草や甘い花の香りと、湿った土と水の匂いに包まれながら、ただただ静かに逝けるのなら。


 肩に留まっていたコマドリがその場で翼を羽ばたかせると、エステルの顔を隠していたフードが背中に落ちた。慌てて被り直す必要はない。ここには自分以外には誰もいないのだから。しかし、コマドリはまるで自分がいるではないかとでも言うふうに、エステルの頬に身を寄せてくる。ふんわりとした羽毛と、小さな命の暖かさを感じながら、エステルは優しく微笑んだ。


「ありがとう」エステルは軽く目を伏せ、コマドリに頬を寄せる。「私の小さな紳士さん」


 生まれてこの方、こんなにも静かで、心穏やかな六日間を過ごしたことはなかった。

 明日からはまた、怒涛のような日々が始まるのだろう。


 女神様。ほんの些細なことで構いません。だからどうか、私にも何か一つ、良いことがありますように──エステルはそう流れ星に祈ってから、郵便箱に向き直る。そして、中に手紙が入っていることを知らせるブリキの赤い旗印に手を掛け、それをゆっくりと引き下ろした。

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