第1話 湖の畔の郵便箱

 村の外れにあるこぢんまりとした湖の畔に、小さな木製の郵便箱が立っている。いつ設置されたものなのかを正しく記憶している者はいない。ある者は十年も二十年も前からあると言い、ある者はほんの一、二年前に出来たばかりだと言う。


 その郵便箱に寄り添う苔むした立て看板には、このように記されていた。


【あなたのお悩み聞かせてください】


 ある日、村に住む一人の少女が、藁にもすがる思いで郵便箱に一通の手紙を投函した。

 少女の手紙には、末の弟の病気のことが、切々と綴られていた。弟の病気を治すためには薬が必要で、でもその薬はとても高価なものだから、家族全員が身を粉にして働いているけれど、とてもではないが買い続けることは難しい。家族が離れ離れになるのは嫌だけれど、自分が遠くの町の貴族の家に働きに出れば、いくらかは薬代の足しになるのかもしれない。もしかしたら、お給金を先払いしてもらえるかもしれないし──少女の手紙の文字は、所々が涙で滲んでいた。


 少女は手紙の返事を期待してはいなかった。

 だが、その三日後、少女の家の玄関の前に、小包がちょこんと置かれていた。


【このお薬で弟さんの病気が良くなりますように】


 小包の中には短い手紙と薬草を煎じて作られた薬が同梱されていた。少女が弟にその薬を与えると、病に蝕まれていた小さな体は見る見るうちに快方に向かい、数日後には嘘のように元気を取り戻して、畑を走り回れるほどになった。

 少女はすぐにお礼の手紙を書き、僅かなお金を握り締めて、大急ぎで湖の畔にある郵便箱に向かった。少しずつでもお薬代をお支払いしますという申し出に対する返事の手紙が、翌日の朝には自宅の玄関の扉に挟まれていた。


【お薬代は受け取りました。もうこれ以上は結構です。どうぞお大事に】


 この話は瞬く間に村中に広まった。あれだけ怪訝そうにしていた村人も、すっかり元気になった弟の姿を目の当たりにして、物は試しと手紙を出してみることにした。


 ある者は奥さんの産後の肥立ちが悪いこと、ある者は畑の作物の育ちが悪いこと、またある者は夜毎悪夢にうなされることを手紙に綴った。だが、殊更多かったのは、年頃の女の子たちの恋の悩みだった。多くの女の子が、意中の人を射止めるために惚れ薬を煎じてくれという手紙を書いて寄越した。


 郵便箱の主はすべての手紙に返事を書いた。


 産後の肥立ちが良くなりますように。

 畑の作物が良く育ちますように。

 悪夢にうなされることがありませんように。


 一つ一つ、丹念に煎じた薬を届け続けた。


 だがしかし、人の意を操るような、誰かを不幸にするような願いだけは、絶対に聞き入れなかった。その代わりに、郵便箱の主は恋文の代筆を引き受け、女の子たちの恋をこっそり手助けしてやった。


 月日が巡ると、噂は噂を呼び、隣町や更にその隣町からも、湖の畔にある郵便箱を頼って、村を訪れる人が現れた。郵便箱の主はそうした人々の悩みすら次々と解決していった。そして、この噂はついに遠くは王都まで及び、良からぬ輩まで呼び寄せることとなる。


 ある日、王都からやって来たごろつきたちが、郵便箱の主の正体を暴いてやると豪語した。村人はやめてくれと懇願したが、ごろつきたちは後には引かなかった。


 旅の最中、獣に襲われて大怪我を負ってしまった仲間のために薬を煎じて欲しい──ごろつきたちはそのように書いた手紙を投函し、少し離れた物陰から、一日中郵便箱を監視し続けた。だが、待ち人は一向に姿を現さない。翌る日も、また翌る日も、昼夜を問わずごろつきたちは待ち続けたが、郵便箱の主はついぞ姿を現さなかった。

 日が昇り、夜中見張り続けていたごろつきが眠い目を擦りながら宿屋に帰ってくると、部屋の扉の取手には、綿の袋が引っ掛けられていた。中には一通の手紙と、安眠効果のあるカミツレのお茶が入れられていた。手紙には美しい文字でこのように記されていた。


【よく眠れますように】


 湖まで駆けて行って郵便箱の中を確認したごろつきは驚いた。自分たちが書いて入れた手紙は跡形もなく消え去り、その代わりに、一枚の紙切れが残されていたからだ。


【うそつきはどろぼうのはじまり】


 三日三晩、ごろつきたちは交代で郵便箱の監視を続けた。だが、誰一人として郵便箱に近づく人影を見た者はいなかった。結局、ごろつきたちは何の成果も得られないまま、肩を落として王都へと帰っていった。


 これまでもこれからも、郵便箱の主の正体を暴こうとする者は大勢現れた。それでも、その正体が露見することはなかった。


 郵便箱の主の正体は誰も知らない。

 男なのか、女なのか。もしかしたら、人ならざる者なのか。


 だが、村人は詮索しなかった。郵便箱の主が何者であれ構わなかった。自分たちに寄り添い、助け、励ましてくれる郵便箱の主のことを、誰もが愛し、敬っていた。


 その人物が、この国の行く末を左右する存在であることなど、このときはまだ知る由もなかったのだ。

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