裃狐(かみしもきつね)2
「行ってきます!」
右手に黄色の傘を持ち、勢いよく家を出て、塀で挟まれた路地を駆けていく。
金木犀に桜、栗に梅に白木蓮――かたち様々な葉が、塀から身を乗り出していた。
ささやかな坂を降りると、「尾中商店」という古い看板が目に入る。色あせたオーニングテント、二台の自動販売機の後ろに控える薄いガラス戸の奥には、駄菓子がいっぱいに並んでいる。近所の子どもたちに愛されている場所だ。
軒先で、店主がゆたゆたと履き掃除をしていた。
「おハナさん、おはよう!」
レースの前掛けをつけた白髪の店主は、黙々と掃除をしている。
十五子が三度ほど呼びかけて、やっと顔を上げた。
「あら。おトイちゃん、おはよう。行ってらっしゃい」
布をもむような声で笑いながら、丸まった背筋を少しだけ伸ばし、手のひらを立てる。十五子はその手にハイタッチして、先を駆けた。
古い道と田んぼ、小川の他は、木々がそこかしこに立っている。
しばらく走ると、山がぽっかりと口を開けたかのような、木々の切れ目が現れた。
そこに立つのは、石造りの鳥居だ。
鳥居の前で、ジャージ姿の神主が掃き掃除をしている。
「おじいちゃん、おはよう!」
神主はおかあさんのおとうさんだ。抵抗皆無の頭頂部のまわりを、ささやかな白髪が囲っている。小柄で痩せているが、背筋は真っ直ぐで、動きは機敏だった。
「おはよう、十五子」
おじいちゃんとハイタッチをし、鳥居の前でお辞儀をしてから、石段を駆け上がる。その先に、もう一つの鳥居があった。
足を止め、ぺこんと頭を下げて、境内に入る。
周囲は木に囲まれていて、薄暗い。
鳥居をくぐってすぐ、左側には大きな杉の木があった。樹幹にはしめ縄が巻かれている。
根元はどっしりと太く、やわらかな苔をまとっている。縦長にひび割れた樹皮は、まるで鱗のようだ。龍がいたらこんな体かもしれない、と見るたび十五子は思った。
敬礼をしているかのような幹吹き枝をはじめ、縦横無尽な分岐と豊かな葉が、空を埋めていた。
鳥居の右側に行くと、手水舎とちょっとした広場とベンチ、おみくじ掛けと絵馬掛けがある。
広場の中央に、これまた立派なイチョウがあった。木が何本も寄り添って立っているかのような、うねりのある樹幹に、しめ縄が巻かれている。たくましく伸びた枝には、鍾乳石のような気根が垂れ下がっていた。青い葉がひしめく様は、レースをたっぷりと縫い付けたドレスのようだ。
イチョウの正面、二十メートルほど先に、社務所がある。
その脇にあるのが、拝殿に続く石段だ。拝殿の奥には鎮守の森があり、一般の人間は立ち入りができないようになっている。
おじいちゃんの話では、森そのものが御神体であるらしい。
十五子は軽やかに石段を駆け上がった。息切れもせずに拝殿の前に立つと、ぱんぱんと柏手を打って「おはようございます!」とにっこり笑った。
これが毎朝の日課だ。
くるりと踵を返すと、いつの間に来たのか、イチョウの前に三人の女性が立っていた。毎朝見かける人たちだ。楽しそうにおしゃべりをしている。
腰の細いワンピースを着た人、着物の人、裾のすぼまったズボン——もんぺ——を履いている人。格好はそれぞれで、年齢は十五子のおかあさんよりも少し若いくらいだろう。
十五子がぺこりと頭を下げると、三人の女性は微笑んで手を振った。
一方の杉の木には、男の人がもたれるように立っていた。
着流し姿で、黒い髪が肩を滑っている。この人も、毎朝見かける。
「おはようございます」
男の人は挨拶を返すように小首を傾げた。面長で、肩ががっしりとしており、ひさしのような眉の下に強い眼差しをたたえた瞳がある。強そうにも見えるのに、どこかさみしげで、十五子の胸にはいつも言葉にならない問いが生まれた。
「おーい十五子、学校遅れるぞ」
おじいちゃんの声が下から響く。はーいと返事をしながら、なんとなく振り返ると、男の人も、女の人たちも、消えていた。
通学路を駆ける。細い十字路に立つ信号機が青になるのを、足踏みして待つ。車は一台も通らない。山から吹き下ろす風は、春のいとなみを抱き込んでいた。
ガードレールの下に青い花が咲き並んでいる。向こう側はすぐ谷になっていて、切り立った崖からたくましく木々が伸びていた。
はちみつのような香りがする。道の脇に広がる菜の花だ。肥料のずっしりとしたにおいと合わさると、「春だ」と十五子は思う。でも入学式のときと風のにおいが変わっている。夏のしっぽが紛れ込んでいる。
細い道には色が溢れていた。
耕運を目前にした田にはピンクのれんげと白詰草、空には濃い水色が広がり、アスファルトはねずみ色、側溝に渡された板は焦げたホットケーキの色をしている。草の緑が、とりどりの色の隙間を埋めつくしていた。
走る足をちょっと止めて、れんげの花をひとつ摘んだ。花びらの房をそっと取って吸えば、ほんのりと甘い。
「おっと、いけない」
一息ついている場合ではない。再び走り出す。じきに河川敷が現れる。ウォーキングをしている人とすれ違いながら駆けていくと、土手と道の境界にランドセルが置かれているのに気がついた。蓋も開けっ放しだ。
「ぶようじんだな」
蓋をしめてやろうと体をかがめると、画用紙に描かれた絵が目に入った。
メッセージらしき文字もある。
十五子はそっと蓋をしめると、草の茂る土手に降りた。
「哲樹(てつき)くん、おはよう。ランドセル開きっぱなしだったよ」
「ランドセルの底に紛れてるかと思ってあさったけど、やっぱり無くて、土手のどっかしかないとおもって探してる」
「なにを?」
「今日は雨が降るのか?」
草むらにしゃがみこんでいた哲樹が、青空に不似合いな黄色の傘を視線で指した。
「うーん、降るといいな、ってかんじ」
「なんだそれ」
哲樹はけけっと笑った。洗いやすそうな短い髪に、眉尻が開いた太い眉、ぺたっとした一重の目には、はつらつとした光が宿っている。
哲樹はクラスメイトで、徒歩一分の距離に住んでいるご近所さんでもある。
「哲樹くんは何してるの。学校遅れちゃうよ」
「あきらめきれないんだ」
「なにが?」
言いながら、十五子もランドセルを下ろす。
「このあいだ落としたキーホルダー。図書カバンにつけてたやつ」
「カバン飛ばし大会したときのやつか」
カバン飛ばし大会とは、任意のカバンをどこまで投げ飛ばせるかを競う競技だ。図書カバン、上履き袋、給食袋など、投げるものは問わないが、中身を入れたまま投げるというのが唯一のルールである。チャックのないカバンや、汚れたら困るものを入れたカバンは、それだけで高得点を稼ぎ出せる。紛失や損傷のリスクと背中合わせの過酷な競技なのだ。
ちなみにその日、十五子が投げたのは、アンタッチャブルとされているランドセルだった。十五子の勇気は審査員の心を打ち、満場一致で優勝が贈られた。
投げたランドセルは、川の浅瀬に落ちた。本体だけでなく、教科書やノートも泥だらけになり、おかあさんにめちゃくちゃ叱られた。
哲樹は図書カバンを投げた。草むらに投げたので汚れることはなかったが、つけていたキーホルダーを落としてしまった。
「うん。あれお気に入りなんだ。ガチャいっぱい回してとったし」
それに、トイちゃんとおそろいだし。
という声は、小さすぎて十五子の耳には届かない。
「よっし、私も探す」
十五子は四つん這いになり、草むらをかきわけ進んだ。青い香りが濃く立ち上り、草大福の具になったような気分になった。草は元気よく伸びており、鋭利なものも多い。手を切らないように気をつけながら、あちこちを見る。途中、何度かクシャミをした。
哲樹が図書カバンを投げたとき、飛距離はふるわなかった。キーホルダーもそこまで遠くに行っていないだろう。
キーホルダー、キーホルダーと呟きながら進んでいると、頭にぽとんと衝撃が落ちた。
あ! と十五子が叫ぶのと、八時のサイレンが鳴るのは同時だった。
「あったー!」
河原の中でもとくに草の繁茂しているところに、先端がからまりあって、かご状になっている場所があった。
そこにキーホルダーがひっかかっていたらしい。根元ばかりを見ていたので、見つけられなかったのだ。
「あったよ哲樹くん!」
哲樹は草むらを飛ぶように駆けてきた。
「おおかみオーメン!」
狼のぬいぐるみがついたキーホルダーだ。目を半開きにして虚ろに笑う不気味な代物だが、小学生に人気のテレビアニメ『おおかみオーメン』の主人公だ。
「ありがとう!」
哲樹はキーホルダーを両手に持って飛び跳ねている。
「トイちゃんさいこう!」
その時、ひたいにぽつんとしずくが落ちた。
「雨?」
空は快晴であるのに、どこからか雨粒が落ちてくる。十五子はあわててランドセルのもとに走り、傘を広げた。
二人は寄り添って傘の下に入る。
「天気雨は狐の嫁入りっていうんだって」
「哲樹くんも裃狐を知っているの?」
哲樹は首を傾げた。
「それって、妖怪?」
「うん。昨日庭に来たの。おかあさんは、妖怪じゃなくて『来るモノ』って言うけど」
「そっか」
哲樹の手にある狼のぬいぐるみと青空を、十五子は交互に見た。
——なにやら、おそろしいもののしわざであるようなのです。
その時、突風が吹いた。
長い風だった。頭上を、何かが通り過ぎていく。哲樹は十五子をかばうように身を寄せた。二人はぎゅっと目をつぶって傘をにぎり、だんごむしのように耐えた。
突風が過ぎると同時に、雨は止んだ。
「……狐って、オオカミが怖いのかあ」
「なんで?」
哲樹が不思議そうに首を傾げる。
「昼休みに図書館に行こうっと」
「おれも行こかな」
「なんで?」
気軽に質問できるのって、なんて楽なんだろう。十五子は軽やかに動く口で、笑みの形をつくった。
「料理の本、見たいし。マイブームなんだよね」
本人はさらりと言ったつもりだろうが、どこかぎこちない。
さきほど見てしまった哲樹のランドセルの中身を思い返した。
画用紙に描かれていた絵とメッセージが、胸にふわりと浮かび上がる。
あそこに描かれていたことと、料理の本が、関係しているかはわからない。
関係していても、いなくても、胸がほんわりと温かくなったことには違いなかった。
「私、哲樹くんのこと好きだよ」
「は、はあ?」
哲樹は真っ赤になっているが、十五子は思ったことを口にしただけだ。
「意味わかんないこと、言うなよな」
哲樹は顔をしかめながら、おおかみオーメンのキーホルダーを図書カバンにつけ直す。よし、とキーホルダーを弾くと同時に「あ!」と叫んだ。
「いま何時?」
とっくにサイレンが鳴ったことに思い至り、十五子も青ざめた。
「遅れちゃう! 哲樹くん、行こ!」
慌てて傘をたたむと、ランドセルを背負い、土手を駆け上がる。
〈第一章 裃狐 了〉
縁側ごろごろ日和 塚本はつ歌 @HatsukaTsukamoto
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