縁側ごろごろ日和
塚本はつ歌
裃狐(かみしもきつね)1
その平屋建ての古い家は、どこを踏んでも何かの音がした。
縁側に寝転がると、キイと床が鳴る。「来たね」と言われているようで、十五子(といこ)は機嫌よくひなたぼっこを始めるのだった。
「ひとしごと終えたあとのごろごろはかくべつだわ」
「かくべつ」という言葉が最近のお気に入りだ。
十五子の仕事は、週末の食器洗いと床掃除だ。小学校に上がったとき、自分で決めた。
おかあさんは、この家の隣に助産院を開いている。お休みの日でもお休みでないような、忙しい仕事だ。
十五子がお手伝いをしてくれるおかげで、おかあさんは少し休めるようになったという。お役に立てていることが、誇らしい。
以前は手こずっていた食器洗いも、朝ごはんのあとにさっさと済ませられるようになった。余裕があるときは洗濯物を干すこともある。それでも、お気に入りの縁側ごろごろタイムは確保できている。できる女なのだ。
おとうさんは大学の先生だ。フレックスというやつを使って、朝六時に家を出て、七時には仕事を始めている。かわりに十五時に仕事を終えて、十六時には帰ってくる。家に仕事を持ち帰ってくることもあるけれど。
おかげで、十五子はひとりぼっちにならない。
下校から、おとうさんが帰って来るまでの、ちょっとのあいだしか。
ちょっとだけのひとりぼっちは、十五子の大好きな時間だった。
今日は土曜日で、おかあさんは午前だけ診察がある。おとうさんは研究会というやつに出かけている。だから今日のひとりぼっちの時間は、いつもよりちょっと長い。いい天気だし、十時のおやつにジャム入りクッキーがあるし、悪くない。
おかあさんはまもなく仕事に向かうだろうけど、まだ台所にいる。おかあさんが家にいてくれるのを感じながら、縁側でごろごろする時間は、ちょっとだけのひとりぼっちよりもさらに、大好きだった。
ひなたで背中を干すと、肩甲骨のあたりがじわじわとあたたまる。布団のようにふっくらした気分になる。あまり干しすぎると鼻血が出そうになるので、適度にひっくり返しながら、両面を日光にさらした。
寝返りをうつたび、猫っ毛がふわふわ揺れた。学校の日はおかあさんが編み込みをしてくれるけれど、休みの日は自分で丁寧にブラッシングをする。
パイル地のショートパンツからは、ふくふくしたふくらはぎが伸びている。気に入りのピンクのTシャツからも、ふくふくした腕がのぞいている。ガラス戸は開け放たれ、春のあまいにおいは継ぎ目なく十五子の周りを舞っていた。
おかあさんが「行ってくるね」と言った。十五子は「行ってらっしゃい」を返した。
縁側は小さな庭に面しており、空の植木鉢がさみしく佇んでいる。おかあさんは忙しいので、庭の手入れができない。だから、木や花を入れないようにしている。もう少し大きくなったら私が庭をつくろう、と十五子は思っている。
生け垣の向こうを車が過ぎる。犬の散歩をする人がいる。自転車がとおる。
十五子は縁側でうとうとしない主義だった。
陽の光のうつろい、雲が流れていくさま、蝶のひらめき、だんごむしの歩み。見逃せないものがたくさんあるからだ。
くりくりした目を方々に動かし、口を半開きにして、縁側から見える世界を感じ取る。
突然、ぱらぱらと雨が振ってきた。
洗濯物! と飛び起きたときには止んでいた。物干し台は縁側の東、庇(ひさし)の下にあるのでちょっとやそっとじゃ濡れないが、今日は庭に台を出してシーツを干していたのだ。
空は青く、雲もない。一体、どこから降ったのだろう?
「よいしょ」
ふいに、縁側に誰かが腰掛けた。
顔を上げると、黒い紋付が目に入った。
背中が丸まっていて、見るからに元気がない。
「縁側のおトイさんとはあなたのことですな」
紋付が振り向いた。
耳はぴんと立ち、鼻はとがっていて、袴からはふさふさしたしっぽがのぞいている。
「よくわかんないけど、たぶんそう」
十五子がうなづくと、尻尾がゆったり上下した。
大きな狐だ。
十五子は体をにじらせて、尻ひとつぶん、狐に近づいた。
「悲しそうな顔をしていますね」
「悲しそうな顔をしていますかな」
「そう見えます」
狐は胸を打たれたように絶句すると、
「じつはですな……」
口をひらきかけて、「なるほどなるほど」とあごをなでた。
「さすが、『聞き上手のおトイ』と異名を取るだけのことはある」
なんだそれ。と思いながら、十五子は黙っていた。
「すらすら話してしまいそうになりますな。十五夜生まれの子は賢いというけれど、いやいや、お見事」
十五子は丸い鼻を掻いた。なぜ褒められているのかわからないが、悪い気分ではない。
「わたくしは裃狐(かみしもきつね)と申します。いまは紋付袴を着ていますがね。平素は裃なのでございます。わたくし固有の名もございますが、名を教えることは魂を渡すことゆえ、通り名で失礼いたします。いえいえ、おトイさんを信じていないわけではないのです」
「はい。裃狐さん」
十五子もおかあさんから同じことを言われていた。
庭に来るモノに、むやみに名前を教えてはだめよ。聞かれたら「おトイ」と答えなさい。
「嫁入りの道に、邪魔者がいるんですわ」
裃狐はため息をついた。
「嫁入りの道は決まっておるのです。太古よりの作法に従い、綿密に決められたものなのです。風の向き、花粉の飛び方、星の方角、彗星の数、渡り鳥の数、蛍の産卵数、蝶の羽化率、あらゆるものと調整し、お天道様とお月様のお通りの兼ね合いを見て決めた道なのです。時が経つにつれ、天の通り道も変わってきます。嫁入りの道を何度も歩き直すわけにはいかんのです。このままでは娘が嫁(ルビ:ゆ)き遅れてしまいます」
紋付の背中が、力なく上下した。
十五子は頭の中で言葉を組み立てる。
「その、嫁入りの道を邪魔しているものというものを、知りたいですな」
裃狐の口調が移ってしまった。
よくぞ聞いてくれましたとでもいうように、裃狐の耳がぴんと立った。
「わからんのです! 花嫁行列が進んでいくと、あるところに見えない壁のようなものがあって、進めなくなってしまうのです。壁に面しますと、我々は尻から凍りつくようになってしまいます。なにやら、おそろしいもののしわざであるようで、行列は引き返すほかないのです」
「そうなんだね」
十五子は空を見上げた。快晴が広がっている
「一体、どうしたらよいのでしょうなあ」
裃狐はうなだれた。
「わたくしの娘は一族でもいちばんの器量よしでして、相手方に強く求められて嫁ぐことになったのです。このままでは相手もしびれを切らして破談になってしまうかもしれません。そんなことになったら、娘が不憫でなりません。なにより、娘の移動というのは、力の移動ということでもありまして、ほれ、粉に水をいれてこねこねするとお団子になりますでしょう。止まってしまえばお団子ができません。わたくしたちは太古より、こねこねすることで団子を繋いできたのでございます。団子は何に言い換えましょう。命とでもいいますか、それとも『種』とでもいいますか、わたくしたちそのものとでもいうものでして、団子そのものの話をしているのではないのですが団子というほかないものでして、ともかくこねこねが止まってしまうというのは、つまり一族断絶という恐ろしい」
言ったら本当に恐ろしくなっててしまったようで、裃狐は身をすくめた。
「わたくしは一族の中でも落ちこぼれ狐として名を馳せておりまして、何をしてもダメだダメだと言われておりました。賢い妻と器量良しの娘を得たことは一生の幸運というほかになく、その幸運をいま生かさずにいつ生かすというのでしょう。けれども何もなしにそんな幸運が来るはずもなし、賢い妻はわたくしの性根の優しさを見て、心地の良い巣をつくることができると読んだからわたくしと一緒になったわけでして、そんな我々のあいだから良い娘が生まれるのは必然というべきかと、いやいや、手前味噌でお恥ずかしい」
裃狐は力なく笑った。てまえみそってなんだろうと思いながら、十五子は「ふうん」と相づちを打った。
「きれいなお嫁さん見てみたいなあ」
気遣うでもなく、繕うでもない言い方に、裃狐はほほ、と笑った。
「けれども種の存続よりも大切なことは娘の幸福であります。いくらいい縁談だとしても、娘が相手を嫌がれば、わたくしはおちこぼれ狐の名のとおりに種を断絶させて、娘を守ります。娘も、婿殿を好いているのです。明日もまた、嫁入り行列を組むことになりましょう。また阻まれると思うだけで、つらいですがな」
「その道を、変えることができたらいいのではと、私は思います」
「迂回路はございません」
うかいろ、と言われても十五子はわからなかった。変更できないということだろうか。
「じゃあ、おむこさんに、ちょっと遅れますけど待っててくださいって言うことができたらいいのでは、とも私は思います」
「そんなこと……」
裃狐は反論しようとして、は、と口を止めた。
「……婿殿に、遣いを出すということですかな?」
「うん、こういう理由でちょっと遅れますって」
裃狐は感心したように息を吐いた。
遅れそうになったら連絡をするというのは当たり前のことだと思っていたが、裃狐にとっては違ったようだ。
「けれども、こうしている間にも、天の通り道が変わってしまいます。そうしたらまた、道をつくりなおさねばなりませ……」
狐は再び、は、と口を止めた。
「あらかじめ決めた道を迂回することはできません。しかし、また初めから道を決め直せば、いまはいまの……春と夏のあいだの良き日の、あたらしい道をとおることができます。時間はかかりますが、とおることはできます。そうか、そうなのですな。婿殿に『遅れます』という連絡をし、嫁入りの道を決め直せば良いのですな」
「おお、それはいいアイデアですな」
「明日もう一度試して駄目だったならば、その場で婿殿へ遣いを出しましょう。なんといっても我が娘は一族いちばんの器量良しなのです、婿殿も多少の遅れは許すでしょう」
「うんうん」
「うまくいけば、ちょいと雨が降るかもしれません。成功祈願として、おトイさんもぜひ傘をお持ちください」
「傘」
どうして嫁入り行列が成功すると雨が降るのだろう?
十五子の頭の中には疑問がいっぱい生まれたが「うん、わかった」とだけ言った。
裃狐は立ち上がると、「こちらこそ」と笑った。赤い舌と牙が見えた。
「おトイさんに話を聞いていただけて、頭の中が落ち着きました。自ずと、我が口から答えが出てきた。あなたは不思議な力をお持ちのようだ。ほんに、感謝いたします」
私は何もしていないけどなあ、と思ったが、ここは感謝を受け取っておいたほうがいいと判断し「どういたしまして」と言った。
「実は本日、あなたを食べようと思って参ったのです。あの方の娘御ですからな。その力を得れば良い知恵が出るかと。しかし食わずとも知恵が湧いたのですから驚くべきことです。差し支えなければ、他の者にもあなたのことをお話したいのですが、問題ありませんかな」
「私はここでごろごろしているだけだから」
裃狐は懐を探り、手の平を差し出した。肉球の上に、くるみ大の木の実らしきものが四つ乗っている。
「話を聞いてくださったお礼です。ささやかではございますが、お受け取りください」
十五子のふくふくした手の平に、丸い実が転がり落ちた。
「これ、お庭に埋めたら、芽が出るかしら」
「察しがよろしいですな。これは庭の種です。どんな庭にしたいのか思い浮かべながら、庭の四隅にお埋めなさい。あなたの思ったとおりの庭になるでしょう」
十五子はパッと顔を上げた。
「ありがとう!」
丸い頬につられて、裃狐もにこにこと笑った。
「そういえば、もうすぐ子が生まれますな」
たしかにおかあさんの助産院では、ひと月に何人も子どもが生まれている。
なぜ裃狐が「そういえば」というのかはわからなかったが、うなづくにとどめた。
「おそらく、満月生まれの子になるでしょう。我々も楽しみにしているのです」
「へえ、そうなんだ。私もいつも、うれしいんだよ」
「ほほ。はやく手のひらが見たいものです」
「手のひら」
この地には、生まれたばかりの赤子の手のひらをそっと広げ「つぶてよみよ」ととなえる風習がある。
意味はわからないが、なにかのおまじないなのだろう。赤ちゃんが無事に育ちますように、というような。
裃狐が言っているのは、そのことだろうか。
どうして裃狐が、赤ちゃんの手のひらを見たがるのだろう?
十五子の頭には疑問がいっぱい生まれたが、庭に来るモノにむやみに質問をしてはいけないとおかあさんに言われている。何かを言いたいときは、言葉の最後に「と、私は思います」とつけなさい。
おかげで、出来の悪い翻訳機のようにぎこちなくなってしまう。それが十五子はもどかしい。
問うに問えず、十五子は眉間に皺を寄せ、うーんと首をかしげた。
裃狐は「ほほ」と微笑んだ。
「それでは、ごきげんよう」
次には、消えていた。
庭の木戸が、風もないのにキイキイと鳴っていた。
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