雪山奇談
ミド
僧の血を欲した羅刹の話
雪に覆われた高い山の麓の寺院に、ワンポ・ナムギャルという若い僧がいた。彼はよく戒を保ち行に勤め寺院の師僧からの評価も高かったが、それを鼻にかけることなく益々仏道修行に励んだ。彼が十八歳を越えてからというもの、寺院の近くの村では豊作が続いたため、「あの寺には菩薩がいるのだ」と村人は噂した。
さて、雪の降る夜にそのワンポ・ナムギャルが僧房で眠っていると、外から凄まじい悲鳴が上がった。目覚めた彼は直ぐに、寺院の建つ渓谷の対岸には羅刹の棲む岩場があるという言い伝えを思い出した。
近くの村ではよく知られた話である。羅刹は岩の下に宝を隠しており、夜に人間が近づくと、盗人と見做し襲って食い殺すという。それならば昼に掘ればいいものだが、人間の目にはどれが宝の岩か見分けがつかないため、一か八かを狙ってわざわざ夜に近づく者が時折いるのだ。
あの悲鳴もそうした無謀な者のものではなかろうか。ワンポ・ナムギャルは居ても立っても居られず、松明と麦粉の練り団子を持って飛び出して行った。
彼は雪の降りしきる中、明かりの灯る僧院を後にして川に架かる橋を躊躇わず渡って対岸に向かったが、その先には全くの暗闇が広がっていた。音はと言えば、ワンポ・ナムギャルの前方から「助けてくれ!」という三人分の叫び声が繰り返し続き、それは徐々に大きくなった。更に後ろから、獣とも人ともつかぬ不気味な唸り声が続いた。
やがて追われていた者達はワンポ・ナムギャルのもとに辿り着き、息せき切りつつ人喰い鬼に追われていると口々に話した。それを聞いたワンポ・ナムギャルは岩壁に沿って立つ僧院の明かりを指差し、松明を彼らに渡した。
「真っすぐ行けば橋があります。その橋を渡って僧院を目指してください」
三人はワンポ・ナムギャルに礼を言うと再び全力で走り出した。彼らを救わなければならないという一念に占められていた彼の心には、ここに至って恐怖が生まれた。
ワンポ・ナムギャルは溜息を吐いた。何故来てしまったのか、己の業故にだろうか。引き返すわけには行かない。彼が為すべきことは、人間と同じ食物で生きるよう羅刹を説得することである。失敗し彼自身が羅刹の腹に収まることでも、施しにはなるだろうが……。ともかく死ぬとしても苦痛を嘆かず、叶うならば悟りに至れるよう心の中で菩薩に願いながら、彼は羅刹を待った。
やがて現れたのは黒い肌に赤く振り乱した髪を持ち、口から牙の突き出た鬼であった。月の光に照らされた顔つきは如何にも情けを知らなそうな険しい目つきと骨ばった頬で、その体格はといえば筋骨隆々として腕は幼子の胴ほどに太く、また身の丈はワンポ・ナムギャルの半倍は大きかった。彼の身体も日々の勤行により自ずと鍛えられていたが、この羅刹が拳を一振りすれば骨まで砕けてしまうのではないかと思われた。
「なんだ、お前は。この俺の食事を邪魔しようというのか」
羅刹はしわがれた声でそう言うと背中を曲げワンポ・ナムギャルの顔を覗き込んだ。彼も負けじと羅刹を見つめ返した。
「命を奪わずとも、ここに人間の食べ物があります。貴方がいかなる罪業で宝に縛られているのかは知りませんが、今のままでは永劫の飢えに苦しむことになるでしょう」
彼はそう言って麦焦がし団子の入った鉢を差し出した。しかし、羅刹は鉢を一瞥すると片手で引っ掴んで川に放り投げた。人喰い鬼が腕を振った弾みに、鋭い爪がワンポ・ナムギャルの整った顔を掠め、頬から赤い血が流れ出た。
「目と鼻の先に人間の血肉があるのに、麦と乳でできた団子を食う理由が何処にある? そこをどけ。お前と喋っている内にも獲物が逃げる。それともお前が代わりに俺の食い物になってくれるのか」
「私を食べた後には一切の命ある者を殺めないと誓ってくれるのならば、喜んで我が身を差し出しましょう」
ワンポ・ナムギャルがそう答えると、羅刹は彼の肩を掴み、頬から滴る血をじっくりと舐め回した。
「さてはお前が菩薩の化身と噂のワンポ・ナムギャルか。道理で常人より美味い血を持っている。肉も天女のような味わいに違いない。だが逃げた奴らは三人だ。このままでは割に合わない。血だけでも三人分に足りるまで、お前が毎晩ここに来て俺に差し出すと言うのなら考えてやろう。もし一晩でも逃げれば、俺は再び宝に近寄る者全てをこの命が続く限り食い続ける」
恐るべき提案であった。しかし、ワンポ・ナムギャルには断ることはできなかった。
それ以来、彼は毎晩僧房を抜け出して羅刹のもとに向かった。羅刹は彼を橋の先で待ち構えては、ある時は首元、ある時は腕に食らいつきその血を啜った。行為の後には血の噴き出す傷口を幻力で塞いでくれはするが、飲んでいる最中は相手が痛みに呻こうとお構いなしであった。
羅刹は毎晩、血を飲んだ後に幾らか話をした。その度にワンポ・ナムギャルは仏に帰依し他の命を慈しむよう説いたのだが、羅刹には耳を傾ける気は無いようであった。
ある夜、彼はふと思い出すことがあったらしく常よりも饒舌になった。
「お前は以前、俺に罪があってこの無様な身の上になったのだろうと言ったな。思い当たるとすれば殺生だが、あれほど愉快な事はこの世に無いだろうよ。前世の俺は羅刹大王の配下の将軍で、手下を率いて世の中を荒らし回り、殺しては奪った」
羅刹に前世の記憶があると聞き、ワンポ・ナムギャルは驚いた。そして、その残虐な物言いに慄きながら尋ねた。
「では、貴方に殺された者達の顔は覚えていますか。貴方もまた戦の場で誰かに殺されたのではありませんか」
「殺されはしたが、その時俺は実に満足していた。生きていた間、遂には天界の王城まで攻め入ったからな。我らが王子は天界の帝王を戦車から引き摺り下ろし、俺達の根城にご招待なさった。偉大なる神々の王様が五体投地して『天界の兵でない者には危害を加えないでくれ』と懇願するのを見下ろすのは最高の気分だった」
羅刹はそこまで語ると天を仰いで大口を開け笑った。そして俄かに不愉快そうな表情に変わり、己の拳を固くして見つめた。
「それが、次には同じ羅刹族とはいえ力の弱く惨めな者として生まれ、千年間もちっぽけな宝を守るよう毘沙門天から呪縛を受けた。あんな小男、我らが大王様がご存命であれば妻子諸共に大王様の奴隷にでもなっていたものを」
ワンポ・ナムギャルは羅刹の冒涜的な物言いに益々震えた。
「それは呪縛ではなく今生への慈悲ではありませんか。前世の罪を懐かしんでいるのでは、貴方は来世こそ地獄に落ちなければならなくなります」
「偉そうな事を言う。あいつは俺が如何に惨めかを思い知らせる為に前世を思い出させたに違いない。お前も強い者として生まれていれば、坊主になって来世への希望に縋ることもなかっただろう」
羅刹はそう言うと、ワンポ・ナムギャルの左腕に噛みついた。完全に油断していた彼は、痛みのあまり雪の積もった地面に両手をついて呻いた。
「短剣の一本でも持っていれば刺し返せただろう? 前世の俺には大剣も弓も槍もあった。相手が武器に手をかけるそぶりをした瞬間にはその首を刎ねていた。その力を根こそぎ奪われたのだ。どうだ、俺の悔しさが漸く解ったか」
それを聞いてワンポ・ナムギャルは強い感情と共に体を震わせながら立ち上がった。
「まだ武器を振り上げてもいない者に対し、疑いだけで命を奪ってきたのですか。だとしたら……貴方は、哀れな存在だ。報復への恐怖と他者への不信が、益々の悪行に貴方を駆り立てたのでしょう」
羅刹はワンポ・ナムギャルの言葉に対し鼻で笑った。そして先程創った新たな傷口から湧き出る血を一舐めしてから幻力で塞いだ。
「殺しはしない、まだ精々一人分しか飲んでいないからな。だが、俺の気が変わらないとは約束できない。明日からは口の利き方を考えるんだな」
人喰いの鬼に命を削られているうちに、ワンポ・ナムギャルは当然の如く弱っていった。勤行中に突然倒れ、師僧達を戸惑わせたこともあった。
「このままでは三人分の血が流せるまで体が持ちそうにありませんね。できれば私の具合が回復するまで待っていてほしいのですが」
その夜のワンポ・ナムギャルはそう頼んだが、内心無駄であろうとも考えていた。彼の予想どおり羅刹は難色を示した。
「量は減らしてやる。だが一日でも来なければ、俺も約束を撤回する」
ワンポ・ナムギャルは溜息を吐いた。
「では、いつ死んでもおかしくない私が悔やむことの無いよう、今夜からは読経させてもらいます」
「やってみろ。そんなものを聞かされたところで俺は仏に帰依しない。たとえお前が自分の全身に経を書き込もうが、俺は僅かにも恐れずお前の肉に喰らいつくだろう」
羅刹はそう言うとワンポ・ナムギャルの右肩に噛みついた。痛みと共に血が流れ出たが、彼は構わず合掌し涅槃経を読み上げ始めた。しかし、寒さと失血により彼の舌は回らなくなり、そのまま雪の中に倒れ込んでしまった。
ワンポ・ナムギャルが意識を取り戻すと、彼の体は羅刹に抱きかかえられており、目の前では火が焚かれていた。羅刹は彼が起きた事に気づくと笑みを浮かべ、からかうように言った。
「ここが俺のねぐらだ。宝はすぐそこにあるぞ」
「私には必要ありません。そして、貴方にも必要ないものです」
「宝があると欲が生まれる、とでも? 俺もこんなものは要らん。だが谷底に投げ込もうにも、俺の手では宝を掴むことはできない。それが俺を逃がさないための呪いだ」
羅刹はワンポ・ナムギャルを片手で支えたまま、もう片方の手で岩を押し上げた。その下には確かに彩色された箱があった。
「中身は緑松石と金銀の細工に、金の仏像と経だ。本来は寺にあるべき仏像と経だけなら、僧にとって欲のうちには入らんだろう。どうだ?」
その声は穏やかだったが、ワンポ・ナムギャルは同意しなかった。
「いいえ。今私が埋蔵物を受け取れば、解き放たれた貴方に再び罪を重ねさせてしまう。貴方が地獄に堕ちるのは、忍びないのです」
羅刹は苦々しい表情を浮かべつつ、もう一度ワンポ・ナムギャルを両腕で抱え、火の傍に座った。
「人間には堪えがたい寒さだろう。もう暫く休んでいろ……まだ死ぬなよ」
ワンポ・ナムギャルは言われるままに目を閉じた。自分の命を容赦なく削る鬼の腕の中だというのに、不思議と暖かかった。
翌日の夜もワンポ・ナムギャルはふらつく身体に鞭打って橋を渡った。しかしそこに羅刹の姿は無かった。彼が怪訝に思いながら暗闇の中を進む内に、岩場で白く光るものが目に入った。
更に近づくと、剣を携えた二人の男が立っていた。片方は白く光る美しい容貌の男で、もう片方は刃を思わせる雰囲気の男だった。彼らの足元にはあの羅刹が血を流して倒れていた。あの岩山の如き肉体が袈裟斬りにされた上に、右脚も切り落とされており、彼は虫の息であった。
「ワンポ・ナムギャル、我々は貴方を救いに来た。この男は、貴方の血肉を喰らえば力が戻ると目論んでいたのだ」
白い男は冷ややかに言った。
「しかし、彼は私を食べればそれ以上命を奪わないと約束したのです。それを何故……」
「お坊さんよ、こいつが戒めに従うような者に見えたかい? さて、来世こそは悔い改めるんだな」
刃のような男も羅刹への情けはないようだった。彼が剣を振り上げると、羅刹は呻き声をあげた。ワンポ・ナムギャルは堪らず走り寄った。
「待ってください。私は僧です、彼の来世の為に偈を唱えさせてください」
「この男は前世で貴方……私の父や武器を持たない多くの者を殺し、私の目の前で母を犯した。貴方の慈悲に相応しい者ではないが、それでも引導を渡すというのですか」
そう尋ねる白い男の表情は険しかったが、ワンポ・ナムギャルは退かなかった。彼が傍まで寄ると、羅刹は口元を軽くゆがめた。
「坊主のお仕事か? お前が施してくれるなら、受け取ってやるが」
「ええ、勿論です」
諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽……と彼が偈を唱えると、羅刹は掠れた声でいつもの如く言い返した。
「馬鹿を言え。命が続けば望みがある……、次こそ、追われも、奪われもせず……、お前も手に入れて……」
羅刹はそれきり、口を開くことは無かった。二人の男もいつの間にか消えていた。
ワンポ・ナムギャルは夜明けまでそこに留まっていたが、朝日が差すと同時に羅刹の亡骸は塵のように砕けてゆき、後には何も残らなかった。
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