火垂るの飴
『人にやさしい空気のようになりたい』
サクマ製菓
1989年1月7日、雪。
Sは早々に飽きていた。テレビのチャンネルを回しても、どの局も朝から同じような番組しか流していない。テレビを点けて決して、また点けてまた消して、溜め息を吐いた。ブラウン管の中は沈鬱にモノトーンだ。
窓の外にも色彩はなかった。雪が降っているので、庭から外には出られない。朝起きると雪が積もっていて、外は白くほの明るかった。ここら辺では雪が積もるのは珍しいので、Sは大張り切りでくまなく庭の新雪を踏んで回り、庭木を揺らして雪を振り落として回り、ふわふわの雪をかき集めてぎゅっと雪玉を握って雪だるまを作った。Sが作った雪だるまを見て、祖母はそれを冷凍庫に入れた。母が帰ってきたら、その雪だるまを見せるのだ。
鼻も手も足も、真っ赤になってグジュグジュになった。存分に雪で遊んだ。存分に遊んだ後で、Sは暇を持て余していた。また雪で遊ぼうという気分にはなれなかったし、たとえそういう気分になったとしても、靴も靴下も手袋もマフラーも上着もぐっしょり濡れてしまって庭に出られない。靴も靴下も手袋もマフラーも上着も、赤い石油ストーブの前に並べてあるが、どれも全く乾いていない。
繰り返し読んで読み飽きた絵本を手繰る。眺めるだけで、読んでいない。広げた絵本を横に置いて、チラシの裏に落書きをしてみるが、それも空いた時間を埋めるだけの虚しい作業だった。
時間が過ぎていかない。時計の秒針はチクタクと鳴る。カンカンになったストーブの上のやかんがシュンシュンと言っている。この前ねだって買ってもらった赤いドロップ缶を振ると、カラカラと音が響いた。
今、Sの母は入院している。Sの父は働いている。その間Sは祖母の家に預けられていた。妹が生まれる。Sは、弟妹が増えるとはどういうことなのか、まだよく知らなかった。弟妹が増えるとは、母親を独り占めにできなくなるということでもあるし、このように一人の時間を持て余すことがなくなるということでもあった。
缶を振って、飴を取り出す。白い飴がコロンコロンと手の上に転がった。匂いを嗅ぐ。缶を振る。今度は音が鳴らない。缶の中を覗く。缶の中は真っ暗で見えない。手に開けた白い飴を、再び缶の中に戻した。缶を振ると、またカラカラと音が鳴った。
台所に行くと、甘い匂いが充満していた。祖母が小豆を煮ていた。子供は甘いものが好きだと信じている祖母は、Sにせっせとおはぎやぜんざいや汁粉を食べさせていた。Sは、ぜんざいと汁粉の区別を知らない。
「おばあちゃん。これあげる」
ドロップ缶を差し出すと、
「Sは優しい子やね」
と、祖母は微笑んだ。
Sの祖母は、泣いたり笑ったり怒ったりしない人だった。けれどSは、開けっぴろげに朗々と笑う人よりも、いっそ困ったようなあまり口角の上がらない祖母の微笑のほうが、よっぽど好きだった。祖母の精一杯の微笑みは誤魔化しがなかったし、ちゃんとSには伝わっていた。
Sは、「優しいのは違う」と言いたかったが、上手く言えなかった。Sは優しい子ではない。黙って首を振る。
祖母は台所の椅子に腰掛けると、Sを膝の上に乗せた。缶から飴を二つ取り出して、一個をSにさしだして、一個を口の中に入れた。
「食べん?」
「食べん」
祖母の胸に顔を埋める。痩せた祖母の胸は何故かふわふわとした感触だ。祖母は甘い匂いがしていた。それは、砂糖と小豆を煮た匂いとは違う、祖母の匂いとしか言いようのない匂いだ。
「おばあちゃん」
「なんね?」
「お母さん死なんよね?」
「死なんよ」
「妹も死なんよね?」
「死なんよ」
Sは春に見たテレビまんがを思い出していた。祖母に上げた飴も、そのテレビまんがを見て買ってもらったようなものだ。そのテレビまんがは、町が火事になって家が焼けて、お母さんと妹が死んでしまうというお話だった。
「おばあちゃんも死んじゃダメやけんね」
「死なんよ、死なんよ」
朝からテレビの中ではおじいさんが死んだと、そればかりを繰り返していた。それで、Sは初めて、祖母も死んでしまうことがあるのだと、思い至った。
「おばあちゃん、ごめんなさい」
「なんね、なんもなかとよ。Sは優しい子やね」
祖母はやっぱり困ったように微笑んでいた。それを見て、祖母が泣いている、とSは思った。薄荷の白い飴なんて押し付けたからだ。
そのドロップ缶に昔何が入っていたのか、そのテレビまんがが何の話だったのか、この日誰が死んだのか、この時Sは何も知らないでいた。だから何故、祖母が泣いたのかもSは知らない。赤いドロップ缶に昔入っていたもの、それは小さな白い骨だ。
これからは、薄荷の白い飴は自分で食べようと思った。そして、色の付いた果物の味の飴を、祖母や妹にあげるのだ。
妹が生まれる。Sは兄になる。
夕焼小焼 なばな @nbnaaa
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