赤とんぼ


夕焼小焼の 赤とんぼ

負われて見たのは いつの日か


山の畑の 桑の実を

小籠に摘んだは まぼろしか


十五で姐やは 嫁に行き

お里の頼りも 絶えはてた


夕焼小焼の 赤とんぼ

とまっているよ 竿の先

 作詞:三木露風 作曲:山田耕筰


「やっぱオニヤンマよなあ」

 だが黄昏れる河原にはアキアカネしか飛んでいない。アキアカネなら腐るほど飛んでいるが、欲しいのはオニヤンマだ。

 昆虫標本の主役に据えるのは、オニヤンマくらい風格のある虫にしたかった。アキアカネでは締まらない。立派な標本セットなのだ。銀色に光る虫ピンに、ずっしりとしたガラスと木製の黒い額縁の標本箱に、赤と緑を混ぜる防腐液と鋭い注射器。全てが本格的だ。ボタを拾い、ネズミの尾を保健室に売って、それを妹にも手伝わせ、それでも足りずに親に援助してもらって、やっと入手した標本セットだ。それ相応のコレクションで飾りたかった。主役はカブトやクワガタでも良いのだが、それはありきたりな気がした。捕獲可能な範囲で最大級の昆虫がオニヤンマだ。翅を広げた姿はさぞかし見物だろう。クロアゲハのほうが大きいような覚えもあるが、蜻蛉のほうが男らしい。

 夥しい数の赤い蜻蛉の群れ。もうすぐ夏が終わる。二学期に入る前に、捕まえたいところだ。処暑を過ぎてもなおまだ日は高い。それなのにこんなに暮れているということは、もう随分と遅い時間だ。収穫の満足のいかないまま帰らなければならない。

 無意味に虫取り網を振り回していると、級友に声を掛けられた。ボタ山でクズ炭を拾った帰りと見えて、足も手も鼻先も黒く汚れている。

「おう、S。今帰りか?」

「何か用か?」

「お前に用は無か。けんど、お前さんがたの妹が泣きながら走っとったぞ」

「Kがッ?」

「妹さん、何があったん?」

「んなの俺が知るか! 何処行きよった?」

「あっちらへん」

 指し示されるや否や、矢も盾も堪らずSは駆け出した。走り際に「さんきゅーな!」と言い捨てる。

「おーい、S! アミとカゴ!」と背中に呼び止められるが、聞く耳はなかった。無我夢中だ。

「しゃーねえやっちゃなあ」

 級友はSが放り捨てた虫取り網と虫籠を拾う。狭い虫籠の中でバタバタと数羽の赤い蜻蛉が暴れていた。


 漠然と妹にかち合うことを祈って指さされた方向へ全力で駆ける。肺が悲鳴を上げる。苦しい呼吸の合間に、乾いた喉に粘ついた唾液を飲んだ。

 妹が、あのKが、泣いているなんて、しかも走りながらだなんて。この日暮れの夕食時にだ。そんなのは只事ではない、一大事だ。Kは妹らしかぬ妹で可愛げはなかったが、それだけに、癇癪を起こして子供じみたような性格ではなかった。それが、泣きながら走っている。大変だ。Sが走ってどうにかなるものではなかったが、そんなことは何も考えていなかった。気が動転していた。

「K! 何処におるんか!」

 叫んだつもりが、ゼーゼーという喘ぎに紛れて声にならない。Kが見つからない。夕日はいよいよ地面に近付く。Sの方こそ半泣きだった。

 ほとんど泣き出す寸前で、ようやく妹の姿を見つけた。妹は、漫然と川面を眺めていた。川は汚れて真っ黒で、虹色の油膜が張っていて、ぶくぶくと何だかよく分からない泡を立てている。それでも夕日に照らされた川面はキラキラと黄金色に輝いていた。草が揺れる。妹は泣いてはいなかったが、グチャグチャのドロドロだった。髪はボサボサで、足も服も泥だらけだった。泣いた後の瞼は腫れぼったくて、白眼が充血している。袖は拭った鼻水が染みていた。何故か裸足だ。

「K…….、お前、なんちゅー、なんちゅー顔しとん」

「兄ちゃん……」

 振り向いて、妹は口ごもる。今の状態のSに言われたい台詞ではなかっただろう。Sは汗みどろで顔は真っ赤で、溢れんばかりに目が潤んでいた。鼻水もちょっと垂れている。ボロボロのヨレヨレだ。ぐずぐずと鼻を啜る。

「お前、泣きながら走りよったんて? 何しちょうとや。もう夕飯やろが。家の手伝いはどうしたん?」

「あんたに、あんたに言われたくなか!」

 妹が見つかったのと泣いていなかった安堵と、取り乱して半泣きの顔を見られた恥ずかしさで、説教めいた軽口を叩く。すると、妹は突然激昂した。

「K……?」

 豹変に戸惑う。

「きさんかて、こげな時間までうろつきよって。毎日毎日、遅うまでほっつき歩いて! この、横着者!」

「なん、いきなり、なん?」

「いきなりじゃなか! なして私ばっかり、なして私ばっかり、いっつも、いっつも! なんでんかんでん、私ばっかり!」

 何が何だかわけが分からないが、とにかく妹が自分に対して憤っていることだけは、理解できた。

「よう分からんけどさ、兄ちゃんが悪かったき、帰ろ。な?」

 母さんも心配するし。

「しゃあしいね。なんも心配なんかせんよ。親がするのはお前の心配だけっちゃ。私の心配なんか誰もせん」

「K! そんなん言うなや。くらさるっぞ」

「勝手に怒っとき? どうせ私、あの家の子じゃないんちゃ、あの家の使用人なんやき」

 自分で言いながら悲しくなってきたのか、泣き腫らした目で再び泣き出し始めた。泣き出した妹に狼狽える。妹が声を張って泣くだなんて。

「おいおい、泣きやな。兄ちゃんのさ、標本セットやるけんがさ、泣き止み」

「そげなん要らん。いっちょん欲しない」

「そげなんって……。んならさ、ルーペは? そいか釣り竿は?」

「要らんち」

 Sには宝物だろうがKには興味がなくてガラクタに過ぎない物をどんどん挙げて、やるからとにかく泣くのを止めろ、と繰り返す。しまいには、抜けた乳歯や干涸びた臍の緒まで持ち出してきて、必死な兄が滑稽でKは可笑しくなってきた。泣きながら笑って、呼吸が苦しい。Sは心底困ったような途方に暮れた顔をしている。

「俺さ、お前の兄ちゃんやき、お前が泣きよるの、とにかく嫌なんよ。だけん、泣き止んでくれよ、頼むよ」

「ううん」

 ぐずりながら頷く。泣き止めと頼むSのほうが、今にも泣き出しそうだった。

「とにかくさ、俺は心配するけん、お前のこと心配やけん、だけん泣かんでくれ。泣くの止めれ。お前が悲しかったり悔しかったりするの、兄ちゃんは嫌や。お前に泣かれるの、でたん嫌や」

「うん」

「泣きとうなったらさ、泣く前に兄ちゃんとこ来い。兄ちゃんがなんとかしちゃる。兄ちゃんはいつかてKの味方やき」

「嘘ばっかり」

「嘘じゃなか!」

「Sは頼りにならん」

「そう言いなや。兄ちゃんを頼れ。腹減ったろ? 帰ろ?」

 帰ろう、家に帰ろう。

「今日はね、クジラの竜田揚げなんよ。私が作ったんやけん」

「肉! はよ帰らな!」

 色めきたって慌てるSを妹は笑う。

「あー、もう、お前、足傷だらけやん。なして裸足で走ったん? 破傷風になるが」

 Sは顔を顰めて屈む。

「兄ちゃんの背中乗り」

「そんなん、恥ずかしい」

「足、痛かろうが。兄ちゃんの言うこと聞きい」

「うん」

 もうだいぶん妹は大きくなっていたので、Sはよろめく。だが、意地でも転ぶわけにはいかなかった。なれば妹を背負っているのだから。右に左にふらつきながら、川縁を歩いた。

 Sは飽かず、繰り返す。それは妹に言い聞かせているようで、自分に言い聞かせている側面もあった。

「俺さ、お前の兄ちゃんやけん。死んだ兄ちゃんの分も含めて、お前の二人分の兄ちゃんやけん。やけさ、K、余計に絶対お前を泣かすわけにいかんの。お前の兄ちゃん、俺やけん。嫌なこととかあったら、絶対俺んとこ来い。兄ちゃんがなんとかしちゃるき」

「うん、分かった」

 真っ赤な夕日は沈む寸前で、殊更燃えるように雲と空は赤かった。二人の影は長い。鰯の群れのように赤い蜻蛉が飛んでいた。

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